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【小説】面影橋(十六)

 その夏は思いがけず印象深いものとなりましたが、この季節になるとよく思い出す私にとって「一番美しい夏」があります。高校三年生の夏休み、親友と二人、彼女の運転でペルセウス座流星群を見に行ったのです。彼女は就職組で暇でしょうがないので免許を取ったとかで、私の方は受験勉強で大変でしたが、両親の離婚をめぐるごたごたに嫌気がさして、友人の家で合宿勉強をするとか嘘をつきました。プチ家出気分でした。おんぼろのピックアップトラックで繰り出した夏の夜のロングドライブは爽快でしたが、不慣れな運転で道に迷い、おまけに車も故障して、結局、目的地の芦別にはたどり着けず、朝日に染まる空知川をながめながらカップラーメンを食べて帰って来たという、いかにも青春という不毛なオチも含めて、今となってはただただ楽しい思い出です。あの夜、私たちはたくさんのことを話しました。普通の女の子のように。吃音だった私にとっては初めての経験でした。お互いの家庭事情や好きなもの、そして将来の夢――彼女は札幌からの転校生でした。一目見て胸が激しく高鳴りました。鼓動が止まってしまうのではないかというくらい――あなたのいつもは虚ろで、それでいて時にすべてを見抜いているかと思わせる鋭いまなざし、すべてに苛立っているかのようにつんつんに逆立てた本当はさらさらの黒髪、パンクロックと天文学に夢中だった、ベースギターか天体望遠鏡を手にいつもけだるそうに歩いていた、いつも独りぼっちだった、記憶の中のあなたは決まってぽつねんとした孤影、放課後の図書室の書架の間、町外れの無人駅のベンチの上、空知平野の美しい緑の田園地帯を矢のように突っ走るあなたの真っ赤な自転車――彼女について話したいことは山ほどありますが、大切なことが大概そうであるように、とりとめのない話になりそうですので、私の人生に与えた影響に絞ります――彼女は無類の読書家でもありました。学校の図書室も町の図書館も貧弱なものではありましたが、それでも文芸書の類いはほとんど目を通しているのではないかという勢いでした。私も小説とかを読むのは好きな方ではありましたが、私が手に取るのは誰もが読んでいるような同時代の売れ筋の、要はどうってことのないものばかりでした。彼女は私の知らない古今の外国の作家たち、特にロシアの大長編小説を耽読していました。父親が借金を作って失踪して一家は離散、素行の悪い娘は祖母に押し付けられ、田舎での年寄りとの二人暮らし、本を読むくらいしかすることがなくてさ、というのが彼女の言い草でしたが。そう、私が文学などという反時代的な学問を選んだのは、圧倒的に彼女の影響だったのです――あなたはいつかロンドンに行きたいって言ってたよね、その流れで行ったこともないロンドンの街並みの話になって、「ダロウェイ夫人」やヴァージニア・ウルフの話題になったんだと思うんだけど――後年、学会で初めてロンドンに行ったけど、空は灰色、街並みも人も陰気で少しがっかりだったよ――大学に入ったら絶対に読むぞと心に誓って、入学早々、初めての原書読破と意気込んで、ペンギン・クラシックスの「Mrs. Dalloway」に挑戦するもあえなく挫折、実は卒論も「灯台へ」で書こうかと迷ったんだけど、自信がないんでやめといた、あなたがあの夜、ウルフのことを話題にしたのをこうして不意に思い出して、それは確かなのだけど、はて、あなたが具体的にどんなことをしゃべったのか、ぼんやりしていてどうにもよく思い出せないの、特に「灯台へ」について熱弁をふるっていたような、ラムジー夫人やラムジー氏、リリー・ブリスコーといった登場人物の魅力とか、多数の視点や内的独白を駆使したその自由な人物描写とか、「灯台」が何を象徴しているのかとか、たぶんそんなことだったかな、あなたの語りの熱さが私のハートに火を灯したのは間違いないと思うんだけど、あなたと二人きり、親密に話せるだけで舞い上がって、ぼんやりして話がよく頭に入らなかったのかもしれない、でも実際のところ、物知りのあなたの話題は次から次に自由に飛んで、私にはちんぷんかんぷんの衛星を使った人工流星群の作り方とか、全然興味のないアメ車のヴィンテージカーの歴史とか、カーステレオからずっと流れていた、ドカドカうるさいストーンズの初期のアルバムのやたら詳しい曲目解説とか、そんなどうでもいいことの方はかえってよく覚えていて、いや、あの夏の夜の闇の深さや風の湿り気、シートにしみ込んだあなたの甘くなつかしい匂いまでよく思い出せるのに――そんな追憶の波に突然さらわれたのは、ふっと立ち寄った町外れの古書店の片隅でした。ウルフの日記の原書が目に留まったのです。実のところ、彼女のことを思い出すことはめっきり少なくなり、ウルフにしたところで、特に後期の作品の難解さは手に負えないこともあってずっと敬遠していて、私の一時のウルフ熱も結局は例のフォトジェニックなものへの偏愛に過ぎなかったのかなと思ったりもしていたのですが――「師匠、どうしちゃったんです?」。

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