見出し画像

【小説】面影橋(十七)

 その古書店に私を連れて行ってくれたのは腐女子です。不思議な巡りあわせです。
 彼女たちのうちの何人かはぴろ吉先生が帰った後も私のアパートに遊びに来るようになっていました。とりわけそのうちの一人がよく顔を出していました。彼女は高校を卒業して入ったデザイン会社の仕事と人間関係がきつくて円形脱毛症と突発性難聴になり、転職にも失敗して、その後は引きこもりに近い生活を送っていたそうで、それで自分のことをヒッキーと呼んでいました。少しおどおどしたところがありましたが、明るくて愛くるしい小動物系の眼鏡女子で、とてもそんな風には見えませんでした。ただ腐女子たちはみな能天気そうにふるまってはいましたが、色々と訳ありの子も多く、てっちゃんは元登校拒否児童で校内暴力で荒れていたこともあるらしく、ぴろ吉先生にしたところで酪農を営む両親とは義絶状態だそうです。ヒッキーは親の手前、バイトに行くふりをしたり、オタ活資金が乏しくなると本当に単発で警備員の仕事を入れたりしていたそうですが、それ以外は亀のように自分の部屋から出なかったのに、そんな子が「師匠、素敵なところに住んでいますね」と、埼玉の、地理がよく分からないのですが、栃木とか群馬とかに近い方から、足しげく私のところまで遠征してくるようになったのですから不思議なものです。
 ヒッキーが私を連れ出し、この間、ろくに知ろうともしなかったこの界隈を散策するようになったのですが、特に雑司ヶ谷エリアが二人のお気に入りで、漱石やら八雲やら鏡花やら、有名人のお墓の位置にやたらと詳しくなりました。ヒッキーとしては年長者なのに上から目線で偉そうなことを言わない私といるのが気楽だったのでしょう。いえ、私が人生の先輩面をしてお説教などできるわけがありませんでした。私は新学期に入ってもどうしても講義に出る気になれず、大学ではぼっちに磨きがかかり、バイト以外は多くの時間、牛のように部屋でごろごろしていて、ニートというのか引きこもりというのか、要は全く同じ立場だったのですから。二人とも口数は少ない方で、お互いに空気みたいな感じで接していたのが良かったのかもしれませんが、吸い込まれそうな真っ青な秋空の下、散歩の合間合間にヒッキーはぽつりぽつりと、将来のこととかも話すようになりました。漫画もそうですが、一番好きなのはライトノベルで、漫画原作者か、叶うならばぴろ吉先生のイラスト=「萌え絵」を添えてラノベ作家としてデビューするのが夢だそうです。先生にも相談して学校で学び直すことも考えていました。私は特にコメントを挟むこともなく相づちを打ち、ただ耳を傾けていました。面倒だったというのも半分はあるんですけど。歩いたり喋ったりで疲れると、可愛らしい洋館に目のないてっちゃんお薦めの宣教師館の庭のベンチで一休みし、ぼんやりと花々をながめたりしていました。
 ヒッキーは面白そうな場所を見つける達人でもありました。鬼子母神の参道にある自家焙煎珈琲と木の香りが心地良い古民家風の喫茶店とか、霊園の入り口近くのお蕎麦屋さんの二階にある一風変わった居心地のいいブックカフェとか。「師匠の好きそうな古本屋さん、見つけましたよ」。大学近辺の古書店はあらかた探索し尽くしていましたので、何か掘り出し物でもあればと、ヒッキーについて行ったのですが、イチョウ並木の美しい目白通りを歩くは歩くは、てっちゃんの通う女子大や有名政治家の邸宅を越えて、ほとんど住宅街の辺りに、その古書店はぽつんとありました。ジャズの流れるいい雰囲気の店内で、趣味のいい文芸書や人文系の良書を多く取り揃えていました。カウンター近くに未整理と思しき本の山があって、何気なく漁っていると、ひときわ目立つ塊り、ハードカバーで全五巻に及ぶその日記が目に入ったのです――追憶から現実に戻り、鼻歌を歌っている店主に値段を確認すると、来月の窮乏生活が思いやられましたが、でもそれは一瞬で、私としては珍しいことにほぼ即決でカードを切っていました。「さすが師匠、豪気ですね」。

 あらすじ   前回へ   次回へ


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

公開中の「林檎の味」を含む「カオルとカオリ」という連作小説をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。心に適うようでしたら、購入をご検討いただけますと幸いです。