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【小説】面影橋(二十)

 そんないつまでも続くぬかるみのような日々、あのウルフの日記が役に立ちました。さすがにこのまま無為に過ごしていたら英語力まで落ちてしまうと、誰に言われるでもなく、何を目的とするでもなく、日記の翻訳を始めたのです。ウルフの日記については夫レナードが主に文学関係の部分を抜粋、編集した「A Writer's Diary」があって、神谷美恵子による素晴らしい訳業が知られていますが、それは四半世紀にも及ぶ膨大な日記のごく一部、分量にして二十分の一程度に過ぎません。ウルフの難解な原文と格闘するのは久しぶりでしたが、興味のおもむくままに翻訳を始めてみると発見も多く、すこぶる面白いのです。「この日記の中で私は書く練習をしているのだと気づく。おそらく私は『ジェイコブの部屋』をここで練習したのだろう。『ダロウェイ夫人』もそうだし、この次の本もここで発明するだろう。なぜならここで私はただ精神だけで書く。そして1940年の老いたるヴァージニアはこの中で何かを見つけもするだろう。老いたるヴァージニアは何もかも見ることができる人間になるだろう」――いつか私もそんな視点に立てたら。それは作品理解のための一級資料ということにとどまらず、創造そのものの大いなる揺籃であり、それ自体、苦悩とともに歩んだ一つの稀有な精神史なのではないか。彼女の小説群にも劣らない、偉大な日記文学であると確信しました。
 大学の一般教養で日本の作家たちの日記を読む授業があったのですが、どこどこの何々がおいしかったとか、決まってそんな日常の些事ばかりで、知的好奇心を刺激されることが皆無だったのとは大違いです。思想の有無の差と言えばそれまででしょうが。講義自体も輪をかけて退屈なもので、文学的価値の優劣は芸の巧拙に還元されるのか、みたいな挑発的なレポートを提出して、偉い先生にひどい点数をつけられたのは若気の至りでしたが。
 でも、そもそも大学で文学の勉強をするってどういうことなんでしょう?何の意味があるんでしょう?だいたい、市井の人々は哲学やら詩やら小説やらに関心などありません。エンタメとかは別でしょうが。フローベールがどれだけ適切な言葉を見つけただとか、カーライルが事実の取捨選択にこれだけ細心の注意を払っただとか、そんなこと、世間でまっとうに生きている人たちは誰も関心を寄せません。これってウルフがどっかで使っていた例えの受け売りですが。文学部に対する幻想が急速に失せつつありました。大学院に入ってまで学問をしようとする人は、そりゃ頭は人並み以上ですし、人柄も柔和です。でも要は文学オタク、語学オタクで、はっきり言って退屈です。生き方が薄いというのか。まあ、この手の批判は全部ブーメランになって私に直撃するんですけど。文学って、冷たい知的操作っていうよりも、もっとこう、人生とか生き様をかけた、触れれば血が出るような熱いものではないでしょうか。文学部ならば周りともっと文学談義ができるものと期待していたのですが、ずっと肩透かしでした。その頃、高尚そうでいて、その実、現実逃避に過ぎない、虚しい思索に耽っていたのですが、そんな折、ふっと高校時代の例の親友のことを思い出したりしました。結局のところ、こと19世紀から20世紀前半くらいまでの欧米文学、すなわち近代小説ということで言えば、大学や大学院で出会ったどの同世代の若者よりも、彼女の知識は広く、見識は深かったという結論です。何より趣味が良かったです。あなたとなら文学について、人生について本気で語り合えた、なつかしいよ、あの頃に戻りたいな――。

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