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自己紹介①:40歳という年齢で、なぜ大好きだったグローバルメディカルの仕事を辞めてまで日本語教師を目指したのか?シングルマザーなのに大丈夫?

まえがき

 みなさま初めまして!1982年群馬県生まれ、高崎市在住のアラフォーシングルマザー☆セカンドキャリアの日本語教師として活動を始めたばかりの、
佐藤美奈(さとうみな)と申します。

『外資系企業にて10カ国の従業員をサポートしてきた 元グローバルメディカルチーム産業看護師』と、

外向きには、文章にすると何だか 恰好よすぎる雰囲気になってしまい気恥ずかしいキャッチコピーを自己紹介に入れることもあるのですが(笑)
実態は、リアルサザエさんを体現した、40歳シングルマザー。

物忘れもするし、歩きすぎれば膝も痛くなる今日この頃。「これでいいのかな?仕事を辞めたはいいけど、家のローンを抱えて息子に食べさせていけるかしら…」と不安も抱えつつ、

3日坊主になったフラフープをメルカリで売ったり…なんてこともしながら、自分なりに一所懸命生きております。

会社を退職後、自分自身がASDだと診断をされたり、その中にADHDの要素も持っていることがわかったり、この一年も色々ありました。

この1年も、というのは、自分自身を振り返ってみると、本当に幼いころから物事が順風満帆に行ったことがありません。経歴や学歴を見ると、一見スムーズに人生を歩んでいるように見えてしまうかもしれないのですが、

私は物心ついた時から、この世界で生きているのに毎日生きづらさを感じ、
「なぜ この世界は こんなにも、生きづらいのか」「自分はなぜ、こんなにも 社会から 孤立している感じがするのか」そんな思いで苦しみながら、何とかここまで生きてきました。

このNoteでは、不器用ながらも、自分のいろいろに疑問をもちながら もがき、進んできた中での経験や、
心理士、看護師として学び続けてきた知識と自分自身の実体験からの気づき、

そして、ASDを持ちながらも、同時に専門家でもあるという特性を生かしながら、同じような思いで人生を模索する人の何かの参考になれば、という想いで、色々発信していけたらと思います。


自己紹介①看護師で心理士で、養護教諭で、ASD当事者。現在の目下の目標は、セカンドキャリアとしての日本語教師の活動。

 さて、英語が大好きで、心理学、看護師の仕事も大好きな私が、『満を持して』という形でキャリアの軸に選んだのが、直近まで働いていた外資系企業(アメリカの企業の日本の拠点)「グローバルメディカルチームで看護師として特技の英語を使ってはたらく」ということでした。

「アメリカの会社で、大好きな英語を使って看護師として働くことができる!
看護師として勤務してきた13年間の過酷な日々。夜勤に救急対応に…気の抜けない日々でボロボロになった若かりし頃…。
プライベートでも、離婚に、シングルマザーとしての育児に、発達障害をもつ息子の育児。

大変なことの連続だったけれど…きっとこの経験も含めたすべてが、この仕事ではかえって役に立ってくれるはず!」

なんて、ワクワクドキドキ胸を弾ませながら、「アメリカの企業」に就職しました。


なーんだ。シングルマザーでも大企業に勤めてすごいでしょっていう自慢話?じゃあ、それでめでたしめでたしでしょう?と、思うところなのですが、なんでまたそんなチャンスを手に入れたわたしが、日本語教師という180度違う業界でセカンドキャリアを歩み始めたんでしょうか?

突然ですが、わたしを『数式』で表すと
(英語×看護×心理学)+日本語教育+シングルマザー=新たな私。
となります。

ええ?英語に看護?心理学?なんじゃそりゃ?
何なんでしょう。(笑)

今思えば、これも、ADHD気質のせいだったのかな・・・
衝動性の赴くままに、
「あれもやってみたい」「これって何だろう?(好奇心)」
と、突き進むうちに、いろいろとやってきてしまいました。

まじめに振り返ると・・・
公立の看護学校を卒業した私は、急性期外科病棟でのナースとして看護師のキャリアをスタートさせました。

その後いくつかの病院や診療科を経験し、
約13年の病院勤務後、子どもの発達に興味を持ち
大学で養護教諭と認定心理士の資格を取得。

大学編入学したころは、離婚成立後 1年たたないタイミングで、息子は1歳。

お金もなかったので、群馬県の母の所に住ませてもらいながら、内視鏡室ナースのパートと大学を掛け持ちし、土日にスクーリングに行って単位を取得する、という生活を3年送りました。

すき間時間、というものが存在しなく、仕事と育児以外の時間は寝る、食べる、以外の時間はずっと大学提出用のレポートを書いていました。

3年かけて、養護教諭第1種免許という教員免許と、認定心理士の資格を取得します。

その後 養護教諭(いわゆる、保健室の先生)として勤務した際に、児童や外国人教師との国際交流活動が増えたことをきっかけに、特技の英語を使って世界の人々と交流する楽しさに目覚めることになります。

英語はもともと、中学の時に進路で翻訳家や通訳を目指すことも本気で考えていたほどのめり込んでおり、英語なんぞ授業もなかった小学生の時に外国に憧れ、お小遣いで英語の参考書を買って自主勉強するほどでした。

わたしは心理検査でも、言語理解IQが130と高値なので、今思えば多少はその影響もあったのかもしれません。

とはいえ、

3人姉妹の長女でしたし、共働きの両親に留学をお願いできるような経済的な余裕もなく、留学どころか大学に行きたいなんて言い出せる雰囲気の家ではなかったので、独学で勉強をし続けました。

勉強というか、趣味のような感じで、単純に好きでした。
「英語ってかっこいい!」と思っていましたし、田舎の山で育つ私には、外の世界は想像するだけで眩しく、好奇心を掻き立てられるものだったのです。

看護師になって10数年は、英語への情熱はやや沈静化し、海外に行くと思いきや、稼いだお金は貯蓄に回して、老後に備えていました(笑)

それでも、時々文法の問題集を買っては解いてみたり、外国人の先生に個人レッスンを頼んだりした時期もありました。

そんな状態で、大人になってからは英語と強くはつながっているわけではなかったのに

学校勤務で英語でのコミュニケーションができたのが自分だけだったのをたまたま周囲の先生方や校長先生に褒められ、

ALTの先生も毎日保健室に来ては、嬉しそうに英語を話していく…なんだかちょっと照れ臭くもありましたが、喜んでもらえたのが嬉しくて、英語をまた本格的に勉強し始めました。

地元のLanguage Exchangeのサークルが開始されたタイミングで輪に加わることもでき、外国人の友人もたくさんできました。
英語が使えることで、どんどん世界が広がっていったのです。

そんな矢先、英語サークルの友人から、「私の働いている会社、アメリカの会社なんだけど、ナースを募集してるよ!私はもう結婚して辞めちゃうんだけど…」とたまたま聞いたのが、外資系企業の、アジア・アフリカ・中東のグローバルメディカルチームの一員として働く、という産業看護師の仕事だったのです。

その話を聞いた翌日には、募集の問い合わせをし、一晩で熱意のこもった英語のResume(履歴書)を独自のフォーマットで作成して、会社に送り付けました。(笑)

当時は、グローバルメディカルチームのことまでは知らず、単に、「コマーシャルでよく聞く名前の会社で英語を使って看護師の仕事ができるなんていいかもしれない。

夜勤もしなくて良くなるし…土日休みになれば、息子とも今よりは一緒にいられるようになるかな。」なんて考えていました。

結果的に、数十通の応募の中、いやでも目を惹くこととなった奇妙なResumeがアメリカ人上司の目に留まり、

アジア・中東・アフリカのメディカルチームのリーダーとの英語での面談、
筆記試験等を通過して、晴れて『外資系企業 産業看護師』として働くこととなったのです。

英語と日本語を使いながら約4年間勤務したわけですが、入社して早々にベトナムへの出張。

帰国後すぐにCOVID-19の流行がやってきて、世界情勢も混乱を極める中、『ビジネスを守る』『生産を止めない』、感染が拡大して会社が機能しなくなってしまったらどうしよう、クラスターが発生してしまったらどうしよう…という恐怖とプレッシャーの中、感染対策に奔走しました。

夜勤をしなくて良くなる~土日も休める~なんて言っていたのは夢だったように、土日でも朝でも夜でも、コロナの対応、マネジメントに追われました。

他国の感染状況や対策、会社としてどうするか、日本としてどうするか。それ以外にも、帰国したままロックダウンで帰ってこれない、日本へ駐在する予定だった従業員が来日できない…様々な問題が立ちはだかりました。

それでも頑張りごたえのある4年間で、みんなで乗り切ろう!と各国のメディカルチームメンバーで励ましあい、医療職ならではの悩みも共有し、大陸や国同士が離れていても繋がりを感じながら働けた経験はとても大きなものでした。

しだいにWithコロナという風潮になってきたころ、日本語を話すことができない駐在員が ことばの問題で日常生活やビジネスの中で言語の壁で苦労する姿を目の当たりにし、私はあらためて、「ことば」に関心を持つようになってきていました。

「いままで私を支えてくれたのは、『英語』という共通言語でつながった世界の仲間たちだった。

でも、日本にいる外国人の従業員や私の友人は、『日本語でコミュニケーションが取れない』というだけで孤独を感じたり、キャリアを諦めたりしている。病院にかかるのも一苦労。

本当にサポートが欲しいときに、言葉の問題で、うまく助けをもとめることもできない…会社の看護師である自分には、会社の求める期待値を超えるサポートはすることができない。なんてもどかしいんだろう。」

そんな風に考えるようになっていきました。

追記

 のちに、WAIS-Ⅳにて、言語IQが130と高く、結果として日本語教師のように言語を扱う仕事は適職だとの心理士さんからの分析結果を得ることになります。偶然か、必然なのか、キャリア選択で自分の得意な方向の物を選べたことは幸いだったと思っています。

 (余談:ASDの人は、このVCI(言語理解)IQが高値の人が多いのですが、特定の分野においての知識がかなり深くなることがあり、図鑑を丸暗記したり、電車の車両や車種、虫の「○○目、○○種」とか分布まで細かく覚えていて周囲をあっと驚かせる子どももいますね。)


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自己紹介② は、こちらから続きます。


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