見出し画像

マルコムX(その1)黒人の誇りと自立を訴える「ブラック・ナショナリズム」

1950年代から1960年代、アフリカ系アメリカ人の誇りと自立を訴え、人種差別に激しく抗議した黒人解放運動の指導者がいました。

マルコムXです。

出典http://wall.kabegami.com/detail/52171319/Malcolm%20X%20In%20London


彼は、「ネイション・オブ・イスラム」という団体の伝道師で、ブラックムスリムでした。

当時公民権運動家として有名であったマーティン・ルーサー・キング牧師と共に、時代を象徴する活動家、思想家でしたが、その主張はキング牧師とは対照的なものと言われていました。

彼の思想はどのようなものだったのでしょうか?


映画「マルコムX」(1992年 米)
スパイク・リー監督 デンゼル・ワシントン主演

 



マルコムXの生い立ちについてまずは紹介します。

彼の父親アール・リトルはジョージア州出身。
正式な教育を受けたのはせいぜい3年間で、大工仕事で生計を立てていました。
母親はグレナダ出身で、色白でよく白人と間違われました。教育のある女性でした。
二人は、当時黒人の大衆運動として人気のあったガーヴィー運動の熱心な活動家でした。

ガーヴィー運動とは、ジャマイカ生まれのマーカス・ガーヴィーが始めた運動です。
人種隔離や人種別の学校には反対せず、むしろ人種分離は米国だけでなく世界中の黒人の進歩に不可欠であると説いていました。
資本主義を積極的に受け入れ黒人が自ら事業を行うことを奨励しました。
黒人の経済的自立を説くと共に、アフリカ出身の人々は階級、宗教、国籍、民族などを超えた世界的な人種なのだと主張しました。
ガーヴィー主義は世界規模の構想を持ち、カリブ海諸国や米国の全域にいる黒人が完全に自由になるには、アフリカそのものが解放されなければならないとした「パン・アフリカ主義」だったのです。
当時、奴隷制、人種隔離政策、植民地主義に耐えてきた結果、白人権力には服従するものという感覚が黒人のあいだに広まっていました。それに対して、ガーヴィーは、黒人が力を持つには自尊心と共同体への帰属意識の両方を回復させることが不可欠だとし、黒人文化の発達を促したのです。

マルコムXは、1925年5月19日、両親がガーヴィー運動の支持者を増やす活動をしていたネブラスカ州オマハで生まれます。

マルコムが母親のお腹にいたとき、白人優越主義の自警団、クー・クラックス・クラン(KKK)が、真夜中に家にやってきて一家を脅しました。
その後一家は各地を転々とした後、ミシガン州ランシングに移ります。ここでも、一家は白人の集団に家を焼かれます。
そんな困難の中でも、マルコムの両親は活動を続けました。
リトル家ではアフリカ系アメリカ人の新聞だけでなく、カリブ海諸国の新聞まで読んでおり、子どもたちは米国だけでなく、カリブ海諸国やアフリカで何が起きているかをいつも教えられていました。
このような教育から生まれたパン・アフリカ主義的なものの見方は、のちにマルコムにとって非常に重要となります。


1931年、マルコムがまだ幼い頃、父のアールは路面電車にひかれて亡くなります。
事故として処理されますが、人種差別主義者による暴力の犠牲者だった可能性があります。

父親の死後、一家は貧困のどん底に落ちます。困窮のため一家離散を余儀なくされ、マルコムは里子に出されます。
1939年、母親ルイーズは、精神に異常をきたし、精神病院に入院します。

マルコムは14歳になり、少年教護院に入ります。そこから中学校に通いますが、マルコムが通った中学校には、黒人はほとんどいませんでした。
その中学校でマルコムは成績もよく人気者でした。
しかし、ある日英語教師は、弁護士になりたいというマルコムを厳しい言葉で思いとどまらせようとしたのです。
「ニガーであることに向き合わないといけないよ。」
「弁護士なんて現実的な目標ではない。大工職を考えたらどう?」
そう忠告したのです。
マルコムの成績は急落し、次第に反抗的な態度をとるようになり、数ヶ月のうちに退学処分となります


1941年2月、16歳になる3ヶ月前、 マルコムは異母姉エラのいるボストンに向かいます。
ボストンでマルコムは学校には行かず、マリファナの味を覚え、インチキやちょっとした盗みをし、ナンバーズという賭博に精通するようになります。

仕事は最初は靴磨き、次にドラッグストアの軽食カウンター、レストランの皿洗い、高級ホテルの食堂の給仕など。
どれも続きませんでしたが、1941年第二次世界大戦が始まると戦争のための動員で人手不足となり黒人の働き口が広がりました。
マルコムも鉄道の4等調理員として雇われます。
各地を旅することができるようになり、ニューヨークのハーレムにも行きます。
各地を旅をするという鉄道での経験を通じてマルコムは、アメリカの物理的な広大さと途方もない多様性について基礎的な知識を身につけました。そして、自分達黒人がどのような環境で生活し、働いているかを学ぶことができたのです。

その後1942年から44年まで、ニューヨークハーレムのジミーズ・チキンシャックで皿洗いをします。デトロイト・レッドと呼ばれていました。
1940年代のハーレムはアメリカだけでなく世界を舞台にした黒人の政治的活動のコスモポリタンな中心地になっていました。
黒人人口のうちざっと4分の1がカリブ海諸島出身の移民で、そのほとんどが政治的な協会や政党、あらゆる種類のクラブなどを設立していました。また、貧困、低賃金、高失業率、人種隔離に対抗する労働運動もさかんでした。
時には暴動も起きています。
1943年8月、警官が制服をつけた黒人の軍人を撃ったことをきっかけにハーレムで起きた暴動を、マルコムは目撃します。


1943年にはマルコムに徴兵令状が届きます。
もちろん軍隊も人種隔離されています。
当時すでに黒人の中には、白人の戦争で戦う筋合いはないとはっきり主張するものもいました。


マルコムは、「南部に送り込まれたいんだ。黒んぼ兵士を集めてね。鉄砲を盗んで貧乏白人どもを殺してやる。」と言って不適格となります。 

その後仕事もなくなってしまいます。
マルコムは、マリファナやコカインを常習し、窃盗、詐欺など軽微な犯罪を繰り返すようになります。

何度か逮捕されたりしているうちに、1945年12月、ボストン、ニューヨークで一ヶ月ほどの間に約8軒の家に泥棒に入り、裁判で8年から10年の刑を言い渡され刑務所に服役します。
泥棒に入った仲間には白人女性がいたのですが、彼女は5年の刑を宣告されて7ヶ月服役しただけでした。
マルコムは、長期の刑を宣告されたのは白人の女性にかかわったからにほかならないと信じ込んでいました。裁判の公正さが人種によってゆがめられているように感じていたのです。


アメリカには、黒人に対する決めつけやラベリングがまだたくさんあります。
(偏見や差別の対象としての負のイメージをスティグマという)
それを受ける子どもは、大人からのフィルターに結果従ってしまう傾向があるようです。
(マルコムのように、教師から可能性を否定されれば、グレてしまうみたいな。教育心理学では、ピグマリオン効果という。)


虐待を受けていた人が虐待をしてしまう、一度引きこもった人がどんどん自尊心を失くしてしまう、勉強の進歩が遅れた人が不貞腐れてグレていく……これらも社会からのスティグマが影響しています。
そんななかで、当事者たちが自尊心を持って暮らしていくことは大変な取り組みであります。
そういったスティグマを社会から無くしていくことが、ひとりひとりの自由へとつながっていくのでしょう。

実刑までくらったマルコムは一体この先どんな道を歩み、偉大なリーダーとなったのか?!


参考文献

「マルコムX―人権への闘い」 荒このみ著  岩波新書

「マルコムX―伝説を超えた生涯」マニング・マラブル著


 
執筆者、ゆこりん、ハイサイ・オ・ジサン









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?