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大江健三郎を味わい、続く作家の旅は壮大になりそうだ。

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#大江健三郎
#万延元年のフットボール

大江健三郎を未読の私に「古典だって何百年、何千年と経て今読みますから、作家や作品はタイミングで出逢うもの」と優しく教えていただいた。

私は、読書が好きだが、周りに本を薦めてくれたり、感想を言い合ったりする環境がないまま経年している。

だが、今読みたい、触れたい文学への座標が出来て、進みたい道に、教えてくれる方達がいるのは、とてもありがたい事だと思う。

大江健三郎の金字塔と呼ばれる本に、そういう意味でごく自然に入っていけた。

私にとっての大江健三郎は、まだ始まったばかりであり、何も先入観等は、持ち合わせていない。

ただ、私は大江健三郎を味わいに行くと決めて、読み始めているので、これは読みにくいと感じる人にとっての最初の入口から違うのである。

が、それを置いたとしても、こんなに本に没入したのは初めてかもしれない。没頭ではなく没入がふさわしい気がする。

「沈み入る事」を没入として使用するのであれば、この物語は、それそのものだ。

人の記憶は、思想が交わるために色々な見方が出来る。その人にとっての記憶から辿る物語なら、それもまた真実であり偽物でもある。

私は、一定方向の見方による判断を好まない。本人が真実を喋っていたとしても、全く同じことを言う人間は、存在しないからだ。

物語は、「本当のことをいおうか」と押し迫ってくる。

私が、思う「本当のこと」に対する疑問、考え方を納得させられた。

ありとあらゆる角度から、一つの事象をあらゆる視点で、次々と表現されていく。自分が一体今、どこの誰目線から読んでいるのか分からなくなるくらいだ。

しかし、私はこれがかなり気持ちが良かった。

物事は、こういう事であり、一つに対して枝分かれし、人の数だけあると思って生きているからである。

主人公の友人が、縊死する。

その表現がまさに、象徴となって折り重なる。

歴史と現実とが折り重なる事による人間の錯覚とも言える立場からの高揚。

誰かの事実、歴史と現在の自分の立場が重なった時に、そこに存在しない筈の人間は、そこの時代にいたかのように自分を投影し、先導するものに付いていく。先導するものが熱いほど共振も熱いが、錯覚は錯覚。覚めるのも早い。

人の心理と、思想を持つ者の危うさ。
そして、何より寂しさ。

ある種の閉塞感からの脱出は、物語の希望として終えているが、それもまた「本当のこと」とは、それぞれの人の解釈により違うのである。

読んで良かった。これは、私の読書の中でも一つの大きな体験になり得ると思う。それは、思想が入り込む熱量のある文章は、伝播し、さらに共振させ得る事を知れたからである。

でもそれも、「本当のことは、分からない」

私は、このまま流れていこうと思います。

村上春樹の「1973年のピンボール」が、大江健三郎のこの作品に影響されているのなら、通ってみたい。

それと、友人の縊死の状況の表現。

「朱色の塗料で頭と顔を塗りつぶし
素裸で肛門に胡瓜をさしこみ縊死する友人」


こんな狂気の対象とするような表現思い付きません。


そして、調べていたら、大江健三郎の記事の一つに、牧野進一が出てきたのを発見しました。私は次に読みたい作家だったので、私の作家の旅はちゃんと続いていると思う。

この作品は、谷崎潤一郎賞であり、受賞者を調べていたら開高健も受賞している。開高健、今年読もうと思っていた方の名前を見つけ、さらに大江健三郎と一緒に中国へ行っている事も知った。

私の旅は、枝葉に分かれつつあるが大きな樹になりつつもあると感じた。

なんのはなしですか

このままいけば、10年後出逢う筈の文学女子に私の旅を語れそうであり、願わくば一緒に旅したいものである。

大江健三郎。読まずに読書人生終わらず良かった。文学は自由でわからないものかも知れないけれど、味わえるのは平等である。ぜひ一度。



自分に何が書けるか、何を求めているか、探している途中ですが、サポートいただいたお気持ちは、忘れずに活かしたいと思っています。