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「新今宮ワンダーランド」を巡る当事者性と第三者性

前回公開した『「新今宮のホームレスとデートする」記事は何が問題なのか」』というnoteを多くの方に読んで頂き、その後自分で釜ヶ崎のことについて色々と調べてみた。今回は「新今宮ワンダーランド」について、当事者の目線に重点をおいて、前回の記事に追記と言う形で書いていきたい。

(なお、例の記事が公開された後、ライターの島田彩氏が謝罪文を書かれており、今も文章をあげる調整を行っているとのことだが、委託した業者や行政が表に出て謝罪せず、エッセイの依頼者のみが槍玉に上がっている現状は、かなり不健全であると言える。)

「西成特区構想」と西成のこれまでの歩み

 そもそも、「新今宮ワンダーランド」の是非を取り上げる前に、それまでの西成の歴史について、(かなりざっくりとではあるが)今一度概観しておきたい。(下の論文から引用、要約)

「あいりん地区(*1)は、全国有数の貧困地区として知られている。かつては日雇労働力を供給する拠点として欠かせない場所であったが、バブル崩壊後は、求人が激減することで野宿者が町中に溢れた。

 貧困があいりん地区に集中したことによって,さまざまなセーフティネットが形成されていった。地縁・血縁が乏しい単身高齢者は,官民の多層的なセーフティネットに包摂されることで,暮らしを成り立たせることが可能となった。
 近年は地区内の高い高齢化率と生活保護受給率が問題視され,再開発の動きが進められるようになった。(直近だと、星野リゾートなどの例が知られている)2012年から始まった西成特区構想は,あいりん地区の活性化に向けたさまざまな取り組みを進めており,この町に付与されてきたネガティブなイメージが徐々に薄まってきていると言えるだろう。

 一方,このプロジェクトは地価上昇を引き起こし,将来的には社会的弱者の居場所を奪いかねないことが懸念される(ジェントリフィケーションの問題)。したがって,社会的排除を生まない地域活性が必要不可欠となってくる。

 西成特区構想の進展は,あいりん地区に暮らす日雇労働者・野宿者・生活保護受給者の生活に変化をもたらすと予想される。このことはどのような問題を引き起こすだろうか。
 彼らは、多層的なセーフティネットとの関わりのなかで生活しており,転居先での生活に支障をきたす可能性が少なくない。このことを考慮すると,西成特区構想は社会的弱者たちの拡散と不可視化をもたらしかねない。つまり、貧困の地域集中の解消を目指す西成特区構想の取り組みは,別の場所で新たな問題を引き起こす可能性をはらんでいるのだ。 50 年以上にわたって貧困を地域に集中させてきたメカニズムを、急に改革することは難しい。

このようなジレンマを抱えるなかで,西成特区構想はあいりん地区に暮らしている人々,とりわけ社会的弱者に大きな負担を強いないようにソフトランディングすることが求められる。

 さて、こうした流れの中、西成区役所・浪速区役所・経済戦略局が連携して、「西成特区構想」の集大成として生まれたのが、新今宮エリアブランド確立への取り組みである。前述の論文で述べられていたように、「社会的弱者に大きな負担を強いないようにソフトランディングすること」は、この企画を推し進める上でもかなり重要な考え方になってくるだろう。

「新今宮ワンダーランド」発案の経緯とその実情

新今宮のエリアブランディングが立案された動機については、西成区のHPにも詳しく書かれている。

新今宮は、関西一円の交通結節点として訪日外国人を含む来街者の増加が見込まれるエリアです。新今宮駅北側では、「星野リゾートOMO7新今宮」の開業予定をはじめとした新規施設等の整備が進んでおり、新今宮駅南側では、高度成長期の労働人材需要を支えてきた「あいりん労働福祉センター」を核とする「あいりん総合センター」の耐震性の課題解消を契機として、周辺の環境改善や施設の機能更新が進んでいます。また、大阪・関西万博の開催や、なにわ筋線の開通が予定されており、大阪市では、新今宮を大阪ミナミの新たな玄関口として発展させ、「大阪都市魅力創造戦略2025」がめざす大阪全体の都市魅力の向上に資するよう、エリアブランドの向上を図っていきます。

 このように、立地の良い場所の活用を有効活用することや施設の改善を視野に入れ、新今宮を魅力ある土地としてブランド化するために始められた「新今宮ワンダーランド」であるが、前回の記事にも述べたように、この企画はジェントリフィケーションやスラムツーリズムといった観点から批判がなされている。「新今宮ワンダーランド」の企画をPRするために書かれた例のnoteが炎上してしまったこともあり、批判の声が先行して、それ以外の声が届きづらい状況になっているという印象がある。

 いうまでもないことだが、あらゆる物事にはメリットとデメリットがある。この企画は、デメリット(都市の開発や観光地化によってそこで暮らす人々の人権や尊厳を脅かしてしまう)と考えられていることが主な争点になっているため、この企画が実際に地域の人々にどのような影響を与え、地域のイメージを向上し、人々がどんなメリットを享受しうるのか、ということについての言及がしづらい状況にある。(そうした面を強調すると、ジェントリフィケーションやスラムツーリズムの問題を擁護しているととられかねないため)

 しかしながら、この企画には、地域で実際に支援活動をしている人々を始めとした当事者(本記事では、支援者もまとめて当事者、と表記する)も少なからず関わっていることは特筆すべき事項であろう。下のブログでは、”参加された方は、ココルームのオーナーさん、簡易宿泊所の組合の方、新世界メンバー、新今宮駅を運営する南海電鉄の方、大手広告代理店、その他、西成関係の団体の方など、20名以上の会議になりました。”と書かれている。

 釜ヶ崎で精力的に支援活動をされている小林大悟さんも、「新今宮ワンダーランド」HP作成にあたって、委託事業の受託先企業にいろいろな意見を伝えた、という趣旨の内容をツイートされており、(ジェントリフィケーションの問題を踏まえつつも)釜ヶ崎の社会資源を未来に活かすために違ったアプローチも必要である、との見方で「新今宮ワンダーランド」について言及されている。


 この企画に際し、そうした当事者と実際に関わっている団体や人々の考えが多少なりとも盛り込まれていることは、「新今宮ワンダーランド」のサイトに新今宮及び釜ヶ崎のこれまでの歴史などが書かれていることからも見て取れる。

 例のnoteに寄せられた批判の中には、「電通という大企業が絡んでいる」「大阪市の主導である」ことに対する、(やや紋切り型な)批判も見受けられたが、「大きな組織が勝手に独断で推し進めた企画である」という風に一元的に捉えるのもまた違うような気がする。

 ここに書いたことについて勘違いしてほしくないのは、「当事者も絡んでいるのだから新今宮ワンダーランドの企画はオッケー」ということではないし、こうした事実によってこの企画を肯定するつもりはない。大事なのは、この企画がどのような背景の中で生まれたのかを知ることであり、長年この地域を関わっている人々がこの企画に関わっていることが何を意味するのかを、考えなければいけないということだ。

当事者として関わることの難しさ

 実際に、本来の当事者である人々はこの件についてどう考えているのであろうか。

当の西成区の人々はどう思っているのだろうか。長年にわたってこの地で活動し、様々な方々の支援に尽力している人から話を聞いた。

 当事者にもいろいろあり、このプロジェクトを歓迎しているのはいわゆる一般の西成区民だという。やはり、住んでいるエリアに新しいものができ、きれいになり、素晴らしい場所として取り上げられるようになることは念願でもあるという。ただ、当の新今宮エリアの町会はというとそもそも高齢の人ばかりで、こういったウェブメディアの動きなどを知ることすらできないので、興味がないというところが本当のところらしい。

 もっというと、先のブログで取り上げられたホームレスの方々もこのプロジェクトには興味がない。それはそうだろう。ホームレスを支援している団体は数多くあるが、その中で賛否両論はあったそうだ。ただ、最終的にはこのプロジェクトに協力することでより新今宮のしっかりとした発信をできるようになるならば、ということで取材など様々な面で協力したということだ。
「大炎上した釜ヶ崎PRブログに見るまちづくりの本質」より引用

 ここで難しくなってくるのは、実際に当事者である人々の多くは、「このプロジェクトには興味がない」という態度を取っているということだ。

 こうした問題の解決の難しさは、「当事者が声をあげづらい」のと同時に、「当事者がそもそも問題に関心がない/問題と認識していない」ということにもあるだろう。
 もちろん、「今の」自身の生活や暮らしに対しての問題意識はあるだろうが、そうした人々に対し、自身の状況が、根本的にどのような問題から発生し、波及し、今の自分に影響を与えているのか、ということについて認識することはとても難しいことなのではないだろうか。

 そうなってくると、大前提として必要になってくるのは国や行政を含めた外部の支援であり、NPO 法人や民間ボランティアによる支援の働きかけによって、当事者に問題を認識させ解決の糸口を見つけることが大切になってくる。

 そして同時に、ある程度外部の(第三者の)見方で問題を捉えることも必要になってくる。漠然とし複雑化した問題に対し、「ジェントリフィケーション」や「スラムツーリズム」といった既知の概念のもとに捉え直すことで、問題の全貌をより俯瞰的に考えることができる。
 これは貧困問題などに限らず、あらゆる物事に共通して言える事柄であろう。

 外部の人間として対象を取材することと、支援者として実際に人々と関わることとのジレンマについては、「釜ヶ崎と女子大生。」というブログの最終話で率直に書かれている。

 このブログでは、筆者が大学院生だった2016年11月から、2017年10月頃まで釜ヶ崎に通って見聞したことをまとめた記録なのだが、その最終話で、釜ヶ崎にアルバイトをして辞めてしまうまでの顛末が書かれている。

 Kさんをサポートする仕事を終え、半ば放心状態で夕方の釜ヶ崎の道を歩いていると、ふと「これが釜ヶ崎で生きるということなんだ」と気付きました。
私は京都から釜ヶ崎に通い、そこの出来事を"周辺"から眺めて記事を書くだけの人間でした。何か出来事の周辺から、あくまで"よそ者"として見て・感じて・書く。それがジャーナリズムの本質の一つであり、限界なのかもしれません
 そして、それは今日のような「その地域で働いて、お金をもらって、生活する」ということとは全く次元の違う話だと気付きました。私は、釜ヶ崎で(生活費のために)アルバイトを始めることで、その境界を超え、周辺からその内部へと、明確に片足を踏み入れたのです。しかし、それに気付くと同時に、「私は釜ヶ崎で生活し、生きていく覚悟なんて無い。私はやっぱり周辺人のままで、釜ヶ崎と関わっていく方が良さそうだ。」と、そう直観的に思ったのです。

 ここで書かれていることは、かなり重要かつジャーナリズムの根幹をなす考え方ではないかと思う。当事者を支援する”支援者”と、問題を取材する”ジャーナリスト”(このブログの表現を借りると、”よそ者”)は、立場は似ているようでいてかなり異なる。

 このブログの著者は、その断絶に早い段階で気づき、「私は釜ヶ崎で生きていく覚悟はない」と書き、釜ヶ崎を去るに至った。何かに対し言及しようとするとき、このブログの著者の嘘偽りのない独白を、忘れないようにしなければいけないな、と痛感する。

第三者から問題を言及することへの批判とその意義


 ”当事者に深く関わる支援者”しか解決できない問題もある一方で、 ”外部の人間”でしか言及できない観点からの指摘もある。お互いにその部分を謙虚に認識することが、両者ともに必要な心構えになってくるだろう。

 実は、島田彩さんのnoteについてコメントをしたのちに撤回された塩谷舞さんのツイートで、以下のようなことが書かれていた。

 あのnoteを書いた筆者は長い間当事者として関わっていたのか、という驚きもあった一方、少し腑に落ちた一面もあった。勝手な解釈ではあるが、かつての「支援者」としての目線を持っていながら、記事を書く「第三者」としての目線を不自然に強調したがために、あのような記事が生まれたのかもしれない、とも思う。

 先ほど、ある程度外部の(第三者の)見方で問題を捉えることも必要と述べた。しかしながら、(前回のnoteに対しても指摘があったのだが)そうした俯瞰的な見方、つまり新今宮や釜ヶ崎にまつわる様々な問題をそうした言葉で言い表すことに対する反発も、特に西成に深く関わっている/いた方々から散見された。つまり、当事者以外の人々がこうした問題に言及すること自体が「搾取」であり「消費」である、という考え方だ。

 このような批判に対しては、「支援者が実際に当事者に関わって問題を解決しようとすることによる益・不益」と「問題について外部の人間が言及することによる益・不益」とは切り分けて考えなければいけないのではないか、と言っておきたい。当事者の目線だけ、あるいは第三者の目線だけで解決する問題ではないはずだ。

  もちろん、第三者が問題に言及することの危うさもある。アートNPOココルームを運営する上田 假奈代氏が書いた以下の論文では、彼女のこれまでの18年の活動において、研究者やメディア、政策策定に関わる人たちの言説が、気づきや支えになる一方、現場にとっては的外れであったり、ときに現場を踏みにじるものであることについて言及されている。

地域のなかでは、さまざまな立場や意見があり、現場は流動的で揺れている。揺れながら動く。そのなかでぎりぎりの選択をして生きている人々、働く人々がいる。理想的にひとっ飛びにうまくいくことなどないなかで現実を少しでも動かしていこうと汗する人々のことばは、それほど明快ではない。曖昧に、口ごもる現場の現実を、それでも、ことばとして落とし込むときに、ことばをどのように取り扱うのか。現実の刻々と変化する日常の只中にいる人と、ことばを活字に定着させる研究者との間をつなぐ手立ては何だろうか。

 簡潔かつ明確な論理で構成された言葉よりも、現場で生きる人々の、まとまらない生の声を尊重すること。ひとりひとりが違った意見を持ち、様々な生き方をしている中で、その意思を尊重しつつ方針を決めていくことは、並大抵のことではないだろう。だからこそ、実際に支援に携わっている方々には、頭が上がらない思いである。

 そして、第三者が問題に言及することに対し、当事者が(部外者に何がわかるのか、という風に)反発を抱くのも致し方ないことだと思う。だからこそ、自分がどういう立場にいて言及しようとしているのか、ということについては(自身も含め)もっと自覚的にあらねばならないと思う。

枠組みを超えて緩やかに変化するまちづくりのあり方

 このように「当事者」として関わりつつ「第三者」として物事を把握するのはとても難しい。下記の論文の筆者である水内 俊雄 氏は、当事者目線と第三者目線との両方を上手く併せ持ちながら、内部の状況を克明に書き出されている。そのなかで、ジェントリフィケーションという言葉のもつイメージとその実際との乖離について、以下のように取り上げている。

研究対象は、現実的には、都市政策やNPO、関連のサードセクターのサービスに集中していた。ジェントリフィケーションがいい意味でも悪い意味でも働きづらい、スティグマの強い場所で、その呪縛を解き放つこと。むしろセーフティネットの濃密なエリアとして、最近ではサービスハブ(*3)という概念を援用して、一般的な地域では到底持ちえないアドバンテージに光を当てるという方向で、調査研究を蓄積してきた。脱野宿の際にキーになるハウジングというツールを武器に、レジリエントな地域を、脆弱な条件の中でどうつくりあげてゆくか、その理論的、実践的研究であり、むしろ事実上ジェントリフィケーションへの防波堤となる、あるいは共存できる地域という関係性の中で、調査、研究を続けてきたといえる。(中略)では、なぜ近年、意識してジェントリフィケーションに言及せざるを得なくなったのか? それは、わたしもメンバーとして関わっている西成特区構想において、この構想の実現がジェントリフィケーションを招来しているというレッテルが貼られる、あるいはそのように理解されてしまうような事態に接することが多くなったことによっている。

 こうした考え(西成特区構想をはじめとした企画をまちづくりのあり方の一つとして肯定的に捉える)に対しては議論の余地があるだろうが、あくまでこうした考えをもつ研究者もいる、ということは頭に入れておきたい。

 文中で書かれている西成のサービスハブ、については以下のnoteに添付されているPDFにて詳しく書かれている。

西成版サービスハブ・構築運営事業について
2019年8月より西成区の委託で新たに生まれた事業西成の若者生活困窮者の生活支援・就労支援を実施当時、橋下徹市長時代に打ち出した「西成特区構想」の流れで生まれた事業。
大阪市西成区で生活保護を受けている15~64歳を対象とし、行政の就労支援で就労につながらなかった人への総合支援を実施四角四面の就労支援を実施するのではなく・地域資源の有効活用(=サービスハブ)・社会的つながりづくり(地域コミュニティにつなぐ)・総合的な生活支援・障がい者福祉や医療とも連携し、利用者それぞれにマッチしたプログラムを実施。

 先ほどのように、「ジェントリフィケーション」と言った言葉で論じることは、物事をより俯瞰的に捉えられる一方、そうした言葉だけが先行して内部の実情がないがしろにされてしまう一面もある。言葉というのは物事をわかりやすくする一方、複雑化したあるゆる物事をそぎ落として見えなくさせる面も少なからずあるからだ。

 これまで書いてきたように、「新今宮ワンダーランド」については、当事者の間でも意見が分かれるところが多く、理想的な解決法を見つけ出すことも難しいかもしれない。「新今宮ワンダーランド」は確かに多くの問題をはらんだ企画ではあるのだが、ではどう落とし所をみつけていくのか、というのが実際に議論の的になってくるところであろう。

 まちの歴史を語り継ぐこと、語り継げるような仕掛けを残すこと、その上で新しく訪れる人・住む人が、既存の人の中に緩やかに溶け込めるようにすること、急激な地価の上昇を抑えるために開発の速度をコントロールすること──が、ジェントリフィケーションを抑えることになり、新今宮のプロジェクトが失敗した「エリアブランディング」の深化にもつながる。
 今回の新今宮プロジェクトは、歴史を残そうとしつつも、新しく訪れる人のための仕組みづくりを急ぎすぎ、冒頭のブログのような結果を招いたと考えている。そもそも、たった1、2年間の業務委託で歴史のアーカイブからエリアブランディングまでするのが無茶な話で、エリアブランディングはどうしていくべきかというのはもっと大切に時間をかけて行うべきであったろう。
 「大炎上した釜ヶ崎PRブログに見るまちづくりの本質」より引用

 新しく訪れる人・住む人が、既存の人の中に緩やかに溶け込めるようにすること、急激な地価の上昇を抑えるために開発の速度をコントロールすること。そして、冒頭に引用した論文に書かれていたように、とりわけ社会的弱者に大きな負担を強いないようにソフトランディングすること。
 急激なジェントリフィケーションによって居場所がなくなってしまう人が出ないようにするためには、こうした緩やかなまちづくりのあり方が求められているのではないだろうか。

 もちろん、緩やかなジェントリフィケーションさえも、長期的には問題をはらんでいる可能性はある。だが、実際に問題を解決しようと思うと、0か100かの思考に陥っていては、停滞してしまう。この問題の実情をできる限り正しく認識した上で、当事者の意見と支援に携わる人々の意見、第三者の考えをどう擦り合わせ、その中で最善の選択肢を見つけ出していくか、ということを考えなければいけないと思う。

 新型コロナウィルスによって不安定な情勢が続く中、自身がいつ仕事と住む場所を失う”当事者”になるかはわからない。もともと住む家を持たない人々は、より一層の苦難を強いられている。こうした問題を他ならぬ自分自身を含んだ問題として捉えることは、私たちひとりひとりに課せられた責務であると言える。

(最後に、釜ヶ崎支援機構はじめ、現地の人々の支援活動のリンクと、参考にした記事、論文を載せておきます。興味・関心のある方は是非ご一読をお勧めします。)

支援先一覧

注釈

(*1)西成、釜ヶ崎、あいりん地区の名称の違いについては、こちらのブログで詳しくまとめられています。


(*2)ココルームの支援活動については、以下の論文に詳しく書かれています。この論文については、上田 假奈代 氏が、本記事中で紹介した論文「現場のわりきれなさと、(あまり)現場にいない言葉たくみな人大阪・釜ヶ崎で喫茶店のふりをするアートNPOココルームを研究者はどのように語るか」にて批判的に言及されています。

(*3)サービスハブ、については以下の記事でも詳しく書かれています。

参考記事・論文一覧(随時追加予定)

参考論文一覧



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