見出し画像

【旅の休憩所⑤】なんてこった…!! 曽祖父が残した難題(後編)

家系図は、「筒井喜兵衛」という名前で始まっていました。亡くなったのは寛政2(1790)年。その前に、娘(童女)が安永5(1776)年に死亡しています。

昔は結婚が早かったから、もし喜兵衛が25歳のときに娘が誕生して、娘が10歳で死亡したと仮定すると、喜兵衛は1741年生まれ。今から280年前の江戸中期にあたります。 結構古い。

▼なぜか喜兵衛ばかりが5代続く

その後は明治時代まで、なぜか「筒井喜兵衛」ばかりが、ずーっと5代続きます。私は当初、意味がわからなくて戸惑いましたが、当時は、同じ氏名がその「家」を表すものとして代々引き継がれていたんですね。通称みたいなものでしょうか。

そして、江戸時代最後の年に生まれた喜兵衛の長男が、はじめて「金蔵」という新しい名前をつけられました。しかし、金蔵が子どもをもうけずに34歳で亡くなったため、昭和7年に本家は断絶します。

その後、喜兵衛の弟(分家)が存続し、その3代後私の曽祖父にあたるということです。なるほど、うちは分家なのか。

その後、分家の歴史が語られて、曽祖父の長男(巻物を残して行方不明になったBの親)、二男、三男(私の祖父)などの名前が書いてあり、昭和10年に曽祖父の5男が18歳で亡くなったのを最後に、家系図は終わっていました。

▼エビデンスはどこにある

このあたりで私は、「ん? なんか変だな??」と思いました。どうもおかしな感じがします。

勘のいい皆さんなら、すでにお気付きかもしれません。そう、「筒井順慶は一体どこに行ったんだ」という疑問です。

この家系図には、筒井順慶の伝承が語られたあと、江戸時代から昭和10年のご先祖のことまでしか書かれていません

つまり、1584年に亡くなった筒井順慶と、1741年生まれの筒井喜兵衛をつなぐものが、どこにも書かれていないのです。この約160年間の断絶を、どうやって埋めればいいんでしょうか??

たしか京都のおじは、「こっちの先祖はもっとすごいよ。なんたって、戦国大名だからね!!!」と、大いばりで言っていました。

そこまで言い切るからには、いわゆるエビデンス(証拠)が必要なんじゃないかと、今どきの人間である私は思うわけですよ。
そのエビデンスを、この家系図のどこに求めればいいのでしょうか。

▼曽祖父が書き残した驚くべき事実

私は急いで、筒井喜兵衛の記録の前に書いてある文章に目を通しました。そこには、曽祖父が家系図を作った際の経緯が書いてあるようで、何かヒントが見つからないかと思ったのです。その文章は次のとおり。

和束の名前を隠す

いわく、

うちの先祖は、神様と一緒に大和に行った藤原家出身の筒井大夫藤原順武が元祖である。その後、ご神託により神社の別宮を作るためにこの地へ来た(←ここまでは、前のと同じ)。

しかし、その後、「応仁の乱」により、すべての文献と系譜が焼失したため、大昔からあった伝承が詳しくわからなくなってしまった。

なに?

 なんだって??

詳しい伝承が、わからないんかい!!!

ひいおじいちゃんは、自分と筒井順慶がどうつながるのか、知らなかったんだ。私は、頭が痛くなってきました。

しかも、なにこの「応仁の乱によりすべての文献と系譜が焼失した」って一文。確か、ルーツ探しの旅に出る前に、田村さんがこんなことを言っていたはずです。

「応仁の乱の前の家系図は、嘘ばっかりというか、お金を出して買ったものが多い。妄信しないことだね」

「昔の家系図は、応仁の乱で燃えてしまった」
という理由をつけて、それより前の家系図を、自分の都合のいいように書き換えてしまう人も多かった。

……ああ、なんてことでしょう。ひいおじいちゃんの、「うちの先祖は筒井順慶」という主張は、全く根拠がなかったということなのでしょうか。もはや万事休すです。

▼曽祖父の切なる願いとは

さらに、曽祖父の言葉は続きます。

そこで、昭和11年9月より、末孫であるN助が、元祖より伝わる筒井家の詳しい系譜を作ろうとして、奈良・三重・滋賀・大阪・京都などの各地を調査し、苦労を重ねたが、確かなことが書いてある文献が見つからなかった

そこで、この家系図に別冊として付けた記事に基づき、大体こんなところだろうということを、家系図に書くことにした。

おいおい。「大体こんなところだろう」って、そんないい加減な……。

N助ッ。
いや、ひいおじいちゃん!!

あなたが自分のルーツは戦国大名だと信じて、あちこち訪ねまわったことはよくわかった。その熱意は買ってあげましょう。

しかし、その続きは一体どうなるんでしょうか?? まさか、その後の調査は自分の子孫にゆだねることにしたとか、言ったりしませんよね?

そう、そんなはずはありません。そんなこと、どこにも書いてないし
だから私は、これでこの家系図の調査を終わりにして、巻物を箱に戻し、京都のおじに会って、

「やっぱりうちの先祖は、筒井順慶みたいですよ。すごいですね!」

と、大人の対応をして巻物を返せば、それでこの話は終わりにできたはずでした。

しかし私は、曽祖父がこの家系図を書き始めたときの気持ち(おそらく前年に18歳の息子を亡くしたことで、自分の来し方行く末について思うところがあったんでしょう)や、交通機関が未発達な時代にあちこち旅をして、一生懸命お墓の記録をメモしてまわった様子や、結局、偉大なご先祖様とのつながりを解明できずにがっくりしたときの気持ちなどを想像すると、

本当にここで終わらせていいのか」
という気持ちが、むくむくと湧いてきてしまったのです。

私は、これまでに見たことも会ったこともない曽祖父の、ルーツ探しにかける意気込みにシンパシー(共感)を感じてしまったんですね。これが、血のつながりというものでしょうか。

それに、家系図が私のところに来た経緯も、いかにも奇妙でした。あれはきっと、どうしようもない長男の子孫(B)に失望した曽祖父が、なんとか家系図が廃棄されるのを防ごうと、やたらと行動力だけはある三男の子孫(私)のところにおじを通じて届け、「あとは頼む」という願いを託したのではないか
……そんな気がしてならないのです。

そういうわけで、私は曽祖父の願いを引き継ぎ、「これができるのは私しかいない」という謎の使命感を胸に、「ご先祖様は(たぶん)筒井順慶」という我が家の伝承を証明するべく、ご先祖調査に乗り出すことになったのです。

実は、当時私は、ゆっくりできる時期が終わり、仕事上の大きな転換期を迎えていて、朝から晩まで勉強しないといけない状況でした。普通に考えたら、悠長にご先祖探しをやっている場合じゃなかったのですが、このような怒涛の展開に巻き込まれたおかげで、自らルーツ探しの「沼」に足を踏み入れることになったのです。

いやあ、本当に人生ってわかりませんね。皆さんも、こんなことにならないよう、十分気をつけてください

次は、いよいよ京都への旅の準備を始めます。まるで雲をつかむようなご先祖探し。一体どこから手掛かりをつかめばいいのか全然わかりませんが、ここはやはり、頼りになる田村さんに最初の一手を相談してみようと思います。

(続く)

<<<次の話を読む(旅の休憩所⑥)

     >>>1つ前の話に戻る。(旅の休憩所④)





この記事が参加している募集

名前の由来

サポートありがとうございます! 近々、家系図のよくわからない部分を業者さんに現代語訳してもらおうと考えているので、サポートはその費用にあてさせていただきます。現代語訳はこのnoteで公開しますので、どうぞご期待ください。