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私にとって書くためには、孤独が必要だったのかもしれない。

以前、こんな記事を書いた。

この記事の中で、

書くことは、わきあがってくる本能的な欲求でありながらも、神秘的で繊細で美しいものだと思っている。

自分の中で精製されて、出したくなって、伝えたくなって、時には誰かの刺激や癒しにもなって、循環することもあって、互いの心が満たされるのであれば、幸せなこと。

と綴っていた。

そう。

私にとって「書くこと」は、幸せなことなのだ。


ただ、そのためには、「書きたいっ!!!」という湧き上がってくるような本能的な衝動が必要でもある。

この、本能的な衝動を呼び起こすのが、「孤独」なのかもしれない。

私がnoteの記事を、文章を、書きたくて書きたくてたまらなくなる時は、たいてい孤独を感じた時だったのだ。


大切な人と分かり合えない寂しさ。

想いを受け取ってもらえなかった切なさ。

溢れてくる感情や感動を誰かと共有したくなるもどかしさ。


これらの想いが、私の「書きたいっ!!!」の原動力になっていることが多かった。


もしも、身近な人達に、

心から分かり合えたり、

好意的に想いを受け取ってもらえたり、

溢れてくる感情や感動を誰かと楽しく共有できていたとしたら、

そこで満たされて、完結していたかもしれない。


と、思うと、こうして発信することも少なかった可能性がある。

そうしたら、今感じられているこの書くことによる充実感や満足感や多幸感を、知ることはなかっただろう。

自分が本来持っていた感性や感覚を、全く使わずに生きていたかもしれないのだ。


と、ここまで書いてきて、気付いた。


私にとって「書くこと」は、自分が本来持っていた感性や感覚を使えるという喜びを体感できることでもあるのだと。


そんな風に考えていくと、過去に感じてきた寂しさも切なさももどかしさも、

今の体感を味わえる自分になるために、大切な感情であり、経験だったとも思える。


人生には無駄なことなんてひとつもなくて、どの出来事も自分の物語の一部なんだと捉えられる。


まぁ、その渦中にいる時は本当に嫌だったけどね!!

大切な人と分かり合えない寂しさも、想いを受け取ってもらえなかった切なさも、溢れてくる感情や感動を誰かと共有したくなるもどかしさも、どれも心の底から悲しかったから。

経験しない人生でも良かったと思うのが本音だったりもするんだけれども!笑


それでも、私にとっては書くことによる解放感や幸せを感じさせてくれた孤独な状況は、ありたがたい経験だったのだとやはり思うのだ。


ただ、今はもう、当時ほどの孤独は無くなった。

にも関わらず、書きたい想いは溢れるばかりだ。

今の原動力は何なのだろう。

私が書きたい、発信したいと思うこの欲求は何なのだろう。

今年はさらにここと向き合っていきたい。

いずれまた、この記事を引用して記事を書くだろう。

その時を楽しみに待とうと思う。

#熟成下書き

【追記】
2023年7月に書いていた記事に少しだけ付け加えて書き上げました!!

5ヶ月経った2024年1月現在、この記事が響くなぁ…としみじみ感じながら読み直しました。

皆さんも眠っている下書き記事があったら見直してみてくださいね!!

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