【小説】にわとりたまご🥚 第1羽
🥚高橋さき
「おはようございます」
9時に会社に出社するとすでに黒田部長はパソコンを開いていて、モニターの向こうから「おはざす」という声が聞こえてくる。学校の給食の時間に机を合わせていたように、私は彼と向かい合うような形で席が割り当てられた。
「昨日の資料、レビューしておいたよ」
モニターからひょっこりと顔を出して言う。くっきりした二重の澄んだ瞳と力強い眉毛が、おずおずと席に座る私の背筋を伸ばす。うまくやれただろうか、期待に応えられただろうか、不安がぐるぐると頭にうずまく。
「今回は多少表記が正確じゃないところがあったけど、それ以外に関して言えば取り立てて言うべきところはなかった。新人として許される範囲内!完璧!」
親指を立てて、白い歯をむき出して笑っている。
野球のベースを尖らせたような輪郭は、しっかり固められたセンター分けの髪の毛を天使の羽みたいに受け止める。私よりも十歳年上とは思えないほどにぴちぴちしている。
「ありがとうございます」
ひとまず、部長の手間をかけるようなひどい出来ではなかったようで、安心した。しかし、褒められているものの、どうも実感が湧かなかった。
一歩先まで、一足先に、入念に準備しておく──。
今回も、いつものように自分の考えすぎてしまう癖が発揮されただけな気がしていた。結局は、いつもそれを発動させて、能力もカリスマもない自分の「何もなさ」を隠しているだけなんじゃないか?
「やっぱり若手がいると刺激されるねえ」
「若手ですか……。黒田部長のほうがよっぽどお若く見えますよ」
「いやいや、俺は若く見せようとしてるだけだから。そしてまだ若いといわれるうちに退職するぞ」
彼の夢はアーリーリタイヤらしかった。
飲みの場だけでなく、オフィスでもこの調子だから最初の一か月はひやひやしていた。しかし、この部署の中だとずば抜けて意欲も高ければ仕事ができるので、退職に対して意欲的な姿勢に対しては、誰も何も言えないのだった。
でも私のような新卒が部署に三年に一人二人入ってくれば収穫祭だ、とでもいえるくらいの小さな会社でどうやって早期退職するだけのお金を手に入れるのかは不明だった。とはいえ、やる気がある人がいるのは純粋に仕事がやりやすくなる気がしたし、悪くない気もした。
「あ、資料直しといてね」
わかりましたー。
また一つ小さなタスクが増えたから忘れないようにとメモを取っておく。これを皮切りに、怒涛の一日が始まっていく。
朝にまずタスク整理をして……とかそんな新卒採用サイトみたいな優雅なことはもちろんできなくて、昨日の深夜にきたメールやチャットツールからの急ぎの連絡に対応して、そんなことをしているとの時間になるから出席する。
会議がまた数件続き、あの会社のシステムの現在の開発進捗がどうなっているのかとか、今度はこの会社のシステムどうするんだみたいな話をする。
IT業界大飽和時代にちゃっかり採用された商学部の学生には厳しい、手加減のない質問が飛んでくるのがまた苦しいところだった。
そんな簡単にふんわりととんでもない要求を言わないでよと思いつつ、会社から提供された一か月のなんちゃって技術研修では正直答えられないから、仕方なくいったん確認しますと言いつつ、クライアント企業に実際どんな仕様にしたいのか、技術的にはどれくらい可能かをいろいろと会話する。
今回の予算と期間ならばどれくらいのレベルの実装が可能なのか。
提案していただいた機能を実現するにはどのような設計にすればいいのか。新しく追加する仕様は、現在の仕様と依存関係はないのか。
整理しなければならない点が多いから、関係者を会議に招待しなければならないが、そもそも会議自体を調整することは、5000ピースあるジグソーパズル級に難しいカレンダーをいじくり倒す重たい仕事だった。
会議の設定を繰り返していくと、なんとかわずかな隙間がカレンダーに生まれるから、その合間に次の会議のための資料を作成する。
そうやって、とにかく目の前の仕事を無心でさばいていたら、
「高橋さんはできそうだし、これもおねがいー」と部長から言われ、入社数か月のうちから開発スケジュール管理をするプロジェクトマネージャーを担当することになった。
イケイケベンチャーでもないただの中小SIerなのに、とんだ抜擢人事と大きすぎる裁量権である。
でも、それを断れないのが私だった。
適性検査も「人に意見を合わせるほうだ」に「よくあてはまる」と打っているくらいには。
でも、私なりに軸を頑張って持とうとしている部分はあった。
黒田部長には、アーリーリタイヤするという目標があるように、私には毎日みいあちゃんの動画をみるという目標があるのだった。
「お疲れ様です」
仕事を終え、パソコンの隅っこに表示されるデジタル時計を見てみると、もう20時近かった。明日ちゃんと動けるよう準備しておこうと思っていると、すぐ残業をしてしまう。
「はいおつかれー」
黒田部長はまだ帰らないようで、パソコンを見入ったまま、手を私のほうに向けて振っていた。
人のぬくもりが肺まで浸透してきそうな満員電車を耐え抜く。
汗がワイシャツにくっついてべたべたしてくる。水風呂のないサウナを無限に歩くみたいに苦しい、最寄り駅からの5分間もまた耐え抜く。
家について、エアコンをつける。
乾燥して、冷え切った25度の空気がシャツの隙間を駆け抜けていった。ベランダに吊り下げている風鈴も室外機の空気を受けて鳴っている。そういえばあれは一緒に元彼とつくったものだったっけ。
化粧を落としながら、頑張った自分への褒美として動画を再生しようとした。……が、その手が少し止まった。
最新動画が何か異様な気配を醸し出していたからだ。
タイトルは「あ」。
サムネイルは真っ黒。
おそるおそるタップしてみると、突然、地面が映った。
アスファルトの地面が映されたまま、カメラはどんどん進んでいく。どうやら走りながら地面だけを映しているようだった。どたどたという激しい足音が鳴り、みいあちゃんが息を切らしながら小さな声で言う。
『……です、もう、すみません……もう、やめます、ゆーちゅーぶ。もういや、』
私の唯一の救いが、いなくなってしまう。
🐣プロローグ
🐣第2羽目以
好きなお寿司はなんですか?