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石化した大人になる前に(私たちが欲しいのは生きているという強い実感)

何でもかんでも楽しきゃいい!!ってのはある意味とっても危険。

ただ楽しきゃいいでよく考える事もなく、その場のノリだけで物事に突っ込んでいく事ほど危険な事はない。でも、実際問題、今はこのノリというか、その時のテンションだけで危険な事の中に落ちていく人が少なくない。

楽しい事だけしていたい。自分のテンションが上がる事だけをしていたい。苦労はしたくない。楽して生きて行きたい。そう言う事を言う人が最近富に増えた気がする。

とにかく楽しくしていたい。楽しく、そしてキラキラと充実していたい。そう言いながら、そういう子たちを見ていると、その心が本当に楽しいとそう感じているのかは定かではない。

とにかく楽しく、そして面白くしていたいという彼らをいていると、彼らはそうやって、馬鹿騒ぎをして楽しんで、今のこのくだらない現実世界の中から出ようとしている様に見える。

楽しくして、我を忘れるまで酒を飲む。道端でけんかをして、その相手を意識がなくなるまでボコボコに殴りつける。そうやって、何が日々の鬱憤を晴らそうとしている様にみえる。

彼らは今自分たちの生きているこの現実世界を受け入れる事が出来ずにいるのではないだろうか?この現実世界を充実していて、楽しいものであるとそう感じる事が出来ない。だから、その現実世界を批判するかのように、楽しい事の中に溺れていく。

この現実世界の中にいると、彼らは息苦しくてたまらない。息をする事すら、彼らにとっては苦しいのかもしれない。そんな彼らが楽しい事に没頭する時、そこではたっぷりと息を吸う事が出来るのではないだろうか?

私たちは、この現実世界の中で言ってみれば今まさに呼吸困難の状態にあると言えるのかもしれない。息をしたい。でも、この現実世界があまりにも、辛く、厳しいものであり、何も息をすることが出来ない。自由に息をすることが出来ない。その為に苦しくて苦しくて仕方がない。

楽しくてノリがよくて、そういった世界の中に身を置く事で私たちは呼吸困難な状態から解放される。ただ楽しいに没頭する時、私たちは自分の生きているこの息苦しい現実世界を抜け出せる。

私たちは自分たちの生きるこの現実世界を何も肯定する事が出来ていない。この世界に嫌気が指しているし、この世界にある何も肯定し受け入れる事も出来ない。それほどにこの私たちの目の前にある現実世界というものは味気ないものになってしまっているという事になる。

生きていても面白くない。何の味気もない。だから、いくら噛んでいても、何の旨味も出てこない。そんな現実世界の中で私たちは生きている。だから、ほんのひと時でもいいから、そんな世界の中から飛び出したくなる。

私たちはもっとこの世界を味わいたい。生きているという事をしっかりと噛みしめて、その味を味わい尽くしたい。

大人は皆、楽しい事に我を忘れて、没頭したり、その中で発狂して、自分をコントロールする事が出来ずに自制の外れた私たちを見て、哀れだとそういう。でも、味気のない世界に生きて、もうその味を味わってみたいという欲求も持たなくなった大人よりも自分たちの方がまだましだと思う。

私たちは、ただ単に楽しいという事に没頭している訳じゃない。ただ楽しいというだけにのめり込んでいく危険性も、そしてこうした事が持っているその毒性についても本当はちゃんとわかっている。ただ、私たちはそれでも、そうした危険があるとわかっていても、生きるという事をどうしても味わいたい。

何も感じなくなる大人になる前に、私たちは危険を冒してでも、生きている事を味わいたいだけ。ただそれだけ。楽して生きたいとそういうけれど、それも本当は嘘。楽をしたいんじゃない。私たちは忙しく我も忘れて働いて、石化した様な大人になりたくないだけ。そうなる前に一度でいいから強く生きたという実感をこの人生に刻みたいだけ。それが一つでもあれば、それを支えに私たちは何とかこのくだらない日常を超えていける。

私たちは何も考えていないんじゃない。むしろ何も感じなくなり、考える事もなく社会に流されるままに生きている大人なんかよりもずっと色々な事を感じ、そして考えている。考えているからこそ、この社会に私たちは逆行するのかもしれない。考えているからこそ、Noと言われる事の中に私たちはあえてYesといって突っ込んでいくのかもしれない。それほどに私たちは、生きているという強い実感を必要としている。

これからの世界を生きて行く支えを今必死になって私たちは自分の中に作っているのかもしれない。



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