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シャープでスマートな世界が本当に人間としての幸せか?

何でもかんでも合理化して、不必要なものは、切り捨てていく。そう言った生き方は、ビジネスという観点に立てば有効かもしれない。でも、人間という観点に立った時には、こうした考え方は果たして本当に有効なのだろうか?

ビジネスにおいては、いらないものは確かに潔く切り捨てていくというそう言った考えが出来なくてはいけないと思う。でも、この考え方をこの社会や、私たちの生活に組み込むとなると、それは別の話の様な気がする。

何でもかんでも、合理的に考えて、理知的に考え、判断し、そして排除していく。これは、こういうものだから、ああいうものだからと難しいロジックで語り、何でもかんでも合理的に決めつけ、それを一方的に押し付ける。

私たちは、こうしたありかたに本当に人間として満足する事が出来るのだろうか?

もっと、シャープでスマートに生きるという事を、今現代に生きる私たちは日々追い求めているけれど、そもそも、何故、そこまで人間はシャープでスマートになる必要があるのだろうか?

そんなにスマートに美しく生きなくたって、めちゃくちゃで、綺麗に整っていないというのが、意外に美しかったりするのではないだろうか?

何でもかんでもシステム化し、そして綺麗に美しく形作ったものだけが、全てではない気がする。でも、今この社会に生きる私たちは、利便性に長けたものを美しいといって賛美するそんな傾向にある。

私は、こうしたありかたにあまり賛同できない。私個人の考えとしては、混沌の中にこそが本当の美があるとそう思うからだ。

色々なものがごちゃ混ぜになっている。その中にこそ、美しさがある。何もかも作られたものの中に等、本当の美しさなどない。

あれも、これも色々なものがごちゃごちゃしているからこそ、その中に美というものが現れる訳であって、何もかもが全て整備され、綺麗に整っていたら、そんな中からは本当の美というものは生まれてはこないそんな気がする。

作られた美というものに、私はあまり興味がない。美というのは、作るものではなくて、混沌としたこの世界の中から見出されるものであるとそう私は思うからだ。

いらないものを排除して、スマートな世界を作ろうとしているけれど、本当の意味でのスマートな世界を作ろうと思うのなら、いらないといって切り捨てたものにこそ、価値を見出すそんな必要があるのではないだろうか?

秀才と言われる頭のいい人というのは、何をどうすれば一番自分の望む利益を上げられるか?を考える。つまり、こういった人間は、この人生を一つの成金ゲームとして生きる。何もかも理知的に考え、頭にあるのは、収益の事だけ。それだけで、こういう人たちは、自分の事を満たす事が出来るのかもしれない。成金ゲームの中で、自分が誰よりも効率よく金を稼ぐことによって、多くの収益を上げる事によってその心を満たす事が出来るのかも知れない。でも、そうした生き方はただこの成金ゲームの中のキングになったという結果しかもたらさない。人間としてグレードアップした訳ではない。

頭のいい人間というのは、お金を稼ぐ事には長けているかも知れない。でも、人間であるという観点から見たら、彼らがとても長けているのか?と言われればそれは違う気がする。

何でもかんでもスマート化して、何でもかんでも切り捨てていく。こうした在り方はビジネスという世界においては有効に働くかも知れないが、人間社会というものを作っていく際にはあまり良い結果をもたらす事はないと私は考える。彼らは、人間という観点に立って物事を見ているのではなく、あくまで彼らはビジネスの観点に立ってものを考えているに過ぎないのではないだろうか?

秀才とはある意味、創造性も高く、そして再現性も高い。だから、とても素晴らしい人材ではある。でも、彼らは自分が人間であるという事を忘れてしまっているそんな気がしてならない。

私たちはどんなに進化し、そして頭が良くなっても、自分が人間であるという事を忘れてしまっては絶対にいけない気がする。何を考えるにも、まず人間であるというその大前提を外すべきではない。自分が人間であるというその大前提を外し、物事を考えたり、議論するという事を始めれば、私たちは確実にこの社会に悪影響しかもたらさない。

世界を、そしてこの社会を変えるのは、秀才ではない。この社会に大きな変革をもたらす事が出来るのは、秀才ではなく、天才であるべきだと私は考える。

天才というのは、自分の思考を何処までも広げては行くが、絶対に自分が人間であるといったその大前提を外して物事を考えたりはしない。

秀才が、お金を生み出すロボットであるならば、天才とは、社会を作る人間であるとそう言えるのかもしれない。


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