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教育とは果たして私たちを幸福にしたのだろうか?

私たち人間というのは、新大陸を発見する為に、皆海へと出た。そしてそこで次々と新しい大陸を発見してきた。未踏の地に踏み入り、そして、その地を次々と開拓していった。

私たち人間というのは、新しいものを発見し、そして拡大する為に、多くの犠牲を出してきた。

自分達が望むものを手にするために、私たち人間とは今では考えられないほどに簡単に人を殺してきた。私たち人間は、本当に残忍な生き物なのだ。

何もかも殺して、そしてそこにあるものを何もかも奪う。そこに生きている人間たちの大切にしているものすら奪い取る。私たち人間が拡大するにあたって、色々な人間から奪ってきたものは測り知れない。

拡大する為に、人を殺す。その場所を自分の物にしたいから、そこにいる者たちを殺す。こんな事が平気で行われていた。今考えるとぞっとする。

何もかも奪い取り、そして、そこにある生活スタイルさえ奪い取り、そして新しい在り方を強引に教育という名の元に行う。

私たち人間というのは、本当に大切にしていた人間としての在り方を奪われ、そしてそこに、教育を施された。そしてその教育によって得た知識こそが素晴らしいものだとそう思い込まされた。そして、その教育というものが、私たちに強い競争心を抱かせた。ここに教育格差というものが生まれた。

教育というものによって、私たちの生活は確かに豊かにはなった。でも、この教育によって、私たちの心の中には強い競争心が生まれた。人間としての格差というものが生まれた。そして私たちはこの教育というものによって分化してしまった。もっと言えば、この教育格差により、私たちの心に火が付き、教育というものが益々発展していったという事も考えられる。

教育というものは、私たちを本当に豊かにしたのだろうか?それとも私たちを貧しくさせたのだろうか?こう考えていくと、教育というものが、私たち人間にもたらしたものはとても大きいと言える。

教育によって、私たちはさらなる知識を獲得し、そして、その教育によって、私たちは分化した。ここに人間としての差別が生まれたと言っても過言ではない。

学ぶことが出来るものと、学ぶ事が出来ないものに私たちは分けられ、ただそれだけの事で、私たち人間には、格差というものがつけられた。学ぶことが出来るものは人間として価値高きものとされ、学ぶという事が出来ないものは、価値がないものとして分けられた。学びがあるかどうか、学というものがあるかどうかで私たちの人間性が図られる事になった。学があるものは、優れていて、学のないものは人間として劣っているとそう決められた。

私たちとは一体何で人間性を図っているのだろう?その人が優れている、優れていないという事を、一体何で判断しているのだろう?学があるか、ないかで本当にその人の人間性等測れると言えるのだろうか?

私たちは一体何を基準にして人間性を図っているのだろう?本当に学がある者だけが優秀なのだろうか?

これまでは、学がある人間がこの世界では重宝されたかも知れない。でも、この教育というものがきっとこれから、その意義を大きく変えることになるのではないかと私は考えている。

学があるという事、これがこれまではとてもいい事の様に語り継がれてきた。でも、この学がるという事が、私たち人間にとっては害だという事がこれから少しずつ明らかになっていくのではないかと私は考える。

学ぶという事を通して、私たちはこの世界に分断を生んだ。学ぶという事を通して、私たちは、自分達人間こそが一番素晴らしいものだと思い込んだ。つまり、学びというものが、人間というものを退廃させてきたと言えるのではないだろうか?

私は、学びというものが人間に幸福を与えたとは思っていない。学びというものは、ただ私たち人間に分断を生んだだけであり、世界の悲劇というものは、この教育制度によってもたらされたものであると私はそう考えている。

私は今一度、この教育というシステムが、本当に人間の幸福の為に在るものであるのか?という事を、もっと多くの人に考えてもらいたいと思う。

教育というものは、私たちにもたらされた福音ではない。教育というものはもしかしたら、私たちにこれも又ただの苦しみしか与えていないのかも知れない。


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