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強権的思い込み (この世界のDeath Etaer)

これこそが正しいというその絶対感が悪を作る。こうしたあり方こそ全てというそうした考えが、社会的悪を作る。

これこそ全て、これこそ絶対。こうした考え、思い込みは非常に危うい。この世界には絶対的なものなどない。でも、私たちは何かとこれが絶対的だとか、これが正しいものだと決めたがる。

そういったものを決めそれにすがり、自分の正しさを証明したがる。正しさなんてものは、相対的なものであり、その都度変わる。

絶対的だと言われるものを信奉し、そしてそれに依存する事程恐ろしい事はない。これこそが絶対的であり、正しい事だという思い込みは、私たち人間が持つその倫理観すら奪い取る。

私たちは自ら罪を犯しても、それが罪だと認識する事が出来ない。私たちは何かを絶対的であるとか、正しい事だとそう信じ込んだその時に人間としての倫理観を失う。

これが、これこそが絶対だとそう信じた時、私たちは自らが働くその罪でさえも絶対だとそう信じてしまう。

これこそが絶対的であり、これこそが正しいとそう強く思い込めば、人間はどんなに卑劣な事であっても、それが正しい事であり、絶対的な事であるとそう思えば、どんなことでもその絶対的であるというその思い込みによって、どんな罪でも犯す事が出来る。人間というのは、何かを絶対であるとか、これこそが正しい事であるとそう思えば、どんなに惨い事でも平気で出来てしまう者なのである。そして、そう言った強い思い込みは、自分が犯した罪でさえも正当化する。

私たちは、この地球に生まれてこのかたずっと、これこそが正しい、これこそが絶対、これこそが真実であるというそうした言葉の裏でとんでもない罪を沢山犯してきた存在なのだ。

これこそがという思いは、人間に絶対的な力を与える。これこそが真実。これこそが絶対。これこそが正しい。そう言った強権的な考え方が、これまで多くの人の命を奪ってきた。

この世界とは相対的なものであり、何処にも、絶対的なものはない。これが絶対だ!という時、その人間には、支配的な力が宿る。人間というのは、自分に絶対的な力が宿ると、その自分こそが、他のものを支配しなければいけない。その自分こそが、多くの者を監督すべきだ!という思いを抱くようになる。自分には、そうする権利があるとそう信じる様になり、こうした思いが更に大きくなれば、自分こそが絶対であり、その自分が何もかもその全てを決め、他を導いていかなければいけないといったそう言った強い使命感の様なものを持つ様になる。

何もかも自分が正しいと思っていれば、人間というのは、どうしても傲慢になる。そして、周りにいる人間を支配しようとする様になる。自分には、その様な権限があるとそう信じる様になり、そうする事こそが、自分の使命であるとすら思う様になる。

私たち人間はこうした思いを持たない様にするためにも、何故、自分たちがこの絶対的なもの、正しいとされるものに、これほど依存的になるのか?という事を考えなければいけない。

何でもかんでも、これが正しい、これが絶対的だ!これこそが真実だ!とそう言ってしまう私たちとは一体何であるのか?それについて私たちは考える必要がある。

私たちというのは、いつもこうした絶対的なもの、正しいとされるものを作り、それにすがる事でしか、自分を肯定出来ないのだろうか?

自分というものを肯定する為に、私たちは、毎日、これが正しい、これが絶対、これが真実という神話を作り上げる。そしてそれを信じる事で私たちは今日もこの身を維持している。

絶対とか、正しいとか、真実とか、そう言ったものを自分の盾にする事でしか、私たちは生きていけないのだろうか?それほどに私たち人間の精神というものは弱小なのだろうか?

何かを支えにしなければ、私たちは自分のこの足でこの世界に立つ事も出来ないのだろうか?何故、人間というのは、いつの時代もこのように醜いのか?



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