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書くという行為の先にある偉大なる力

書いて書いて書きまくる。そうすると、自分ってものが段々と消えていき書くという行為をしている私という主体が消えていく。

するとある瞬間から、その自分で書いていたはずの言葉がどんどんと自分から離れていきそして、自分で書いているはずの言葉や文章が自分のものではなくなっていく。今まで自分が主体だったのに、いつの間にか客体になって、言葉自身が勝手に語る事を自分が聞いている、受け取っているという奇妙な関係性が出来上がる。

文を書く事で私が消えていくという事はつまり、その中にある力の位置関係が変わるという事だ。自分が文章を書くときには、自分に力がある。でも、その力が文章を書く事でその文自身へと移行されて行く。力関係がここで一気に変わる。

これまで自分が主体であったのに、今度は言葉が、文が主体となり、私はその言葉を受け取る側の存在になる。

文というものは、生き物であり、その生き物は自分の意思を持ち、そして勝手に動く。でも、私たちはそれを尊重せずに、彼らの自然な動きを封じ込め、そこに自分の思いや考えを上乗せする。

私たちは自分たちに主導権を持ちたいがために、文に尊厳を認めるという事を忘れた。文、そしてそれを構成する言葉、それらに尊厳を認める事を忘れた。

書くという行為、それは我を滅する行為。我を減じるなどという甘い言葉で表現できるようなものでは決してない。

言葉を使って文を書くということ、自己表現をするということ、それはその表現の中で自分(我)を滅する行為なのではないだろうか?

我を滅したその先に本物、真実というものが自らの力を持って立ち現れてくる。この力は人間をはるかに凌駕した力。

この力によって表現が成される時、始めてそこに魂というものが宿るのではないだろうか?

私たちは、表現という燃え盛る大きな火の中でこの身の全てを焼き尽くしてしまわなければならないのだ。

その中で何もかも全て焼かれ、実体としてあったその全てがなくなった時、そこに本当の意味での力が、そして言葉が、文章が、表現が生まれる。

私たち人間は自分自身にではなく、こうした自分を超越した所にあるものに、力を認めなければいけないのではないだろうか?

真の表現というものは、我を滅したその先に自律的に立ち現れてくるものであり、それは私たちとは全く別の異なった力であるという事を私たちは認めるべきだ。





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