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本当の自由

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「無」、実存主義、サルトル、ツァラトゥストラ、グノーシス
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文学・哲学小説『嘔吐/J・Pサルトル』をまったりと読む。

文学・哲学小説『嘔吐/J・Pサルトル』をまったりと読む。

 なんら変哲のない、ただ老婆が窓の下を通り過ぎて行くだけの描写だが、面白くて仕方がない。熟読してしまい文章が進まない。

是非にと思うのだが、最初の「………。」のところに、「彼女は関節跛行なのだ、もしかしたらパーキンソン病を患っているかもしれない」という文章を入れていただくと、もっと面白さが増すかもしれません。

「未来はなんの必要があって実現されるのだろう、実現されて何を得るのだろう」
という一

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『極限の思想 サルトル』読了

『極限の思想 サルトル』読了

 私たちの哲学者サルトルは、どんな時代に生きたのか、そしてどのように世界と関連していたかを少しここで取り上げておく。

P224
戦後のサルトル──コミュニズムとの関係

 40才にして知識人の中心人物となったサルトルは、一般的に言われる「成功者」なのだろう。

 本書冒頭にも書かれていた文章だが、サルトルのいう、自分に責任があるという発言は理解できるが、全人類に対してのそれはどういった意図があっ

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『極限の思想 サルトル』-「ねばねばしたもの」苦悶する液体と世界の感触-

『極限の思想 サルトル』-「ねばねばしたもの」苦悶する液体と世界の感触-



おわりに──サルトルという夢、その後

p215〜
「ねばねばしたもの」
 ───(一)苦悶する液体と世界の感触

・どす黒く節くれだった、まったく野生そのままのかたまり。

・『存在と無』の著者にあっては、およそ、「ねばねばしたもの」が止めようのない嫌悪の対象であって、隠しようもない嫌悪感を呼ぶものである。

・しかも、たとえばねばねばした握手
(あるいは、握手したときにねばねばする掌)、

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『極限の思想』終盤

「ねばねばしたもの」

(一)苦悶する液体と世界の感触
(二)即自によって吸収される対自
(三)アナーキズムとテロリズム

所謂「欲望」の説明が10ページに及ぶ。その言語力が素晴らしいが2ページ程でドロドロねばねばしたものが私に絶賛侵入中。

それなのだ。

『極限の思想 サルトル』-それを見るとはすでに所有することである-

『極限の思想 サルトル』-それを見るとはすでに所有することである-

べつの形で領有すること
──サルトルからマルクスへ

サルトルの『存在と無』より、哲学書でありながら文学的表現で「領有」についての一節。

マルクス『経済学・哲学草稿』「第三草稿」

 このサルトルとマルクスの文面は、美しさがある。自身ではこれが思想の境地かもしれないが、人間全体としては理想郷であり、また大義にも使われそうだ。

きっとこの型であろうと、どんな型であろうと型というものに完全に嵌める

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『極限の思考 サルトル』-ひとは自らに相応した戦争を手にする。人間存在は自由という呪縛のもとにある-

『極限の思考 サルトル』-ひとは自らに相応した戦争を手にする。人間存在は自由という呪縛のもとにある-

 前回までの内容では、
「いっさいの行動に不可欠な根本的条件」とは「行動する存在者の自由」だった。

 しかし、自由とは何か?を、まだここで発見していなかった。

 「自由とは何か?」の答えではなく、自由とは何か?という問いにも懐疑的である。
さすが哲学だ。曖昧な答えは出さず、問題の中で派生したコトに対して「それは何か?」と永久に追求することこそ哲学だ。

 明記されていないが、「私の本質はなんだ

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『極限の思想 サルトル』-行動における「二重の無化」とは空からの発想と自由意思-

『極限の思想 サルトル』-行動における「二重の無化」とは空からの発想と自由意思-

 本書を読んでいると、一方と他方がよく出現する。然し、これらは大概「こちら側」の一方と他方である。

反対側や相手側の一方と他方も存在するだろう。ということを念頭におけば、相手の意も汲める。

自分の正しさはそれはそれでこちらに置いておくと、相手の言わんとする正しさが見えてくる。
それは、社会的正しさか、自身の性(さが)的正しさか、盲目的正しさかを見極められる。

それを踏まえて、自分はどう対応し

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アートエクリチュール ルミノーゼ&直進遠近法(不明瞭版)

アートエクリチュール ルミノーゼ&直進遠近法(不明瞭版)

・ヌミノーゼ(聖なるもの)は、ルドルフ・オットーによって洗練されて定義された一方、アカデミズムとしての不足さにも晒されている

・他方、折口信夫は造語を援護する。思うに、造語とは方法であり、言語を解体することで、意味自体、というおそらく、情報と近似するもの、アート性に、直接、触知や効果を為す行為に思う(ひとつ段階を上げれば、霊、という言葉になるだろう。つまり、別分野では、魂、という言葉で呼ばれる)

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『極限の思想 サルトル』-運命は知と非知のはざまに潜んでいる。選択が非知の深淵を運命というかたちで引きよせる-

『極限の思想 サルトル』-運命は知と非知のはざまに潜んでいる。選択が非知の深淵を運命というかたちで引きよせる-

 サルトルを読み始めたのはいつだったのか、遠く昔のように感じる。本書を読みながら身の回りに日々何かが起こる。サルトルの文章が変化を齎すのだろうか。

私の気質に変化はないが、私は少しもの圧迫や重力の絡まり、その侵入を瞬時に感覚する。故にそれらを消滅させたり、緩ませ、ほどいて、その場から逃げたいと思うのだ。

 他者のそれらで自分は苦しみたくはない。
 私自身に苦はない。わたしである故の苦。

 私

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『極限の思想 サルトル』-恋する者による誘惑─それ自体、哲学書中の話題として例外的…言語そのものの本質-

『極限の思想 サルトル』-恋する者による誘惑─それ自体、哲学書中の話題として例外的…言語そのものの本質-

昨日の続きから。

マゾヒズムの成立
 ──あるいは他者の自由と「愛」の不可能性

ヘーゲル自身はやがて愛の理想を手ばなし、「精神現象学」においてはむしろ「主人と奴隷の弁証法」について語りだす。

ヘーゲルの「主人」も奴隷の自由を要求する。
だがそれは暗黙のうちに要求されるに過ぎない。

サルトルの所論では「恋する者はなによりもまず恋する相手の自由を要求する」

誘惑することば、もしくは言語の本質

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行為の企図が生まれることで、意識は、初めて充実した世界から身を引き、存在するものの領域をはなれ、「非存在の領域」へと接近することができる。
行為するためには、非存在つまり、「無」が必要であり、無が出現するためには、意識がその自由が、現前していなければならない。-サルトル-

-自然すら与えられたもの、自然を謳歌する不自由-

-自然すら与えられたもの、自然を謳歌する不自由-

自然を謳歌する。
つまり、花の可憐さ、野山、渓谷の絶景、
太陽の恵み、満ち欠けの月と、季節の星の神秘。

その自由さえも不自由なのだ。

それらを私は自分で獲得しておらず、与えられた物。

ちょうど半年前になるが、私はスピノザのように自然の支配に気がついた。

自然が在るという不自由さを知った。

最後に物質である自分を切り離したときだった。そのとき、「無」に到達できた。

以来、自然が美しいと思

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「永遠の相のもとに」見られるならば自由そのものも、一本の枯れ枝に過ぎない。じっさいスピノザのもとでは自由が神、すなわち自然のふところの中で枯れ果てている。だからおよそ「与えられた自由などというものはない」自由とは獲得されるべきなにものかである。-サルトル-