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『極限の思想 サルトル』-恋する者による誘惑─それ自体、哲学書中の話題として例外的…言語そのものの本質-


昨日の続きから。

他者は私を存在させ、ほかでもなく、そのことを通じて私を所有する。そしてこの所有は私を所有しているという意識以外のなにものでもない。

他者はその意識において私を所有するのである。他者におけるサディズムの成立であり、同時にまた「私」に関してはそのマゾヒズムの成立にほかならない。

P153


マゾヒズムの成立
 ──あるいは他者の自由と「愛」の不可能性

マゾヒズムに陥りながらも、自分の「責任者」である私は、自分の存在を取り戻そうとする。そのために、私はほかでもない「他者の自由」を手にしなければならない

「それゆえ私自身を取り戻そうとする私の試みは根本的にいって他者を再吸収しようと企てとなる」私は他者を「その他性のままに私と合体させようとする」そのため私はつまり他者に対して愛をこころみ、愛を企てる。この試み企て、すなわち愛はけれども必然的に挫折する

愛は不可能である。愛が他者との合一であるなら愛は他者が他なるものであることをを否定する。愛において「他者の他性という性格」が必然的に消滅してしまう。

愛という合一の試み、他者との一体化の企てが帰結するのはかえって他者との相克であり、愛こそがむしろ「相克の源泉」となる。

この実現不可能な理想こそ愛の理想

P154、155

愛は本来「生きたもののあいだでのみ生じる」とすれば愛は身体の個別性をも乗り越えるものでなければならない

だから各人が身体において分離可能であること、各人による身体の「所有」が愛しあうものたちを困惑させる。身体という「個体性に対して愛が覚える焦燥が羞恥である」

羞恥とは不安であり、「恐れ」であり愛という合一を喪失することへの恐れ

青年期ヘーゲルの断片 P156


ヘーゲル自身はやがて愛の理想を手ばなし、「精神現象学」においてはむしろ「主人と奴隷の弁証法」について語りだす。

生死をめぐる闘争の果て、それだけで存在し、対自存在としての主人主人に対してのみ存在し、対他存在であるほかない奴隷が生まれる。

奴隷は主人のために労働し、それゆえ事物の自立的側面は奴隷に委ねられ、主人は加工された事物を純粋に享受する。

この労働という契機が主人と奴隷の立場を逆転させて主人という「自立的な意識はほんとうは奴隷の意識である」ことがあかされる。

──ひとは他者を支配して他者を所有しようとする。それは他者の自由に働きかけ、他者の自立性を剥奪しようとする試みである。けれども、所有され支配されて対象となった他者がもはや他者ではない。支配し所有しようとする企てがかえって他者の自立性を開示する。「主人と奴隷との逆転

P157

ヘーゲルの「主人」も奴隷の自由を要求する。
だがそれは暗黙のうちに要求されるに過ぎない。

サルトルの所論では「恋する者はなによりもまず恋する相手の自由を要求する」


誘惑することば、もしくは言語の本質

ことばは「精神の現存在」であり、ことばは「他者にたいして存在する自己意識」である。ことばはすぐれて一箇の対他存在である。
-ヘーゲル-


 恋がひとつの企図であるとすれば恋するとはそれゆえ相手を誘惑しようとする企てとなる。

誘惑する者はひとまずことばを尽くして相手を誘惑するからだ。しかしサルトルに言わせれば「むしろ誘惑の企てこそがことばなのである。


『存在と無』の対他存在論は、恋する者による誘惑という──それ自体、哲学書中の話題として例外的であるかもしれない。
むしろ、言語そのものの本質をめぐって語っているのである。

P159

 愛とは、生きているもの同士のサディズム、マゾヒズムの所有と他者の身体自体を所有しようとする実現不可能な理想、それが愛の理想である。

その理想が現実となった場合の状態とは、「相克」である。と、ここで五行を思い出していた。「木火土金水」左のモノに殺され、向かいのモノを殺す。自然の摂理も恐ろしいが、人間となると、その恐ろしさは倍増する。血肉の闘いだ。

それが愛である。


「主人と奴隷」で思い出すエピソードがある。

 去年の夏、私が某スーパーマーケットの駐車場で車の中でアイスを食べていたら、白塗りの厳つい外国産SUVが駐車場に音もなく入って来た。目の前の駐車スペースに停めたのだが、助手席からとてもスタイルのいい質素な感じの若い女性が急いで車から降りて、SUVの後ろをまわり、運転席側のドア横でお行儀よく、ご主人(彼)が降りてくるのを「待て」の姿勢で待っていたのを思い出した。
 Tシャツ、キャップ、スニーカー、パンツ、全て真っ白なブランド服で身を包んだスタイルの彼が運転席から降りて来たのだが、Iカップはあるだろうし、しかしながらウエストは細っそりとした悩ましい体の彼女の、手を繋ぐでも腕を組むのでもなく、彼女の前を素通りして行った。彼の背後に彼女が尻尾を振りながら後に続き、スーパーの入り口へ向かって行ったのだった。お行儀のいい犬と横柄なご主人の構図を想起させた。

一年前のノンフィクな出来事です。。という余談はさておき。

 ヘーゲルのいう、主人と奴隷の逆転は、支配しようと奴隷の自由を奪おうとする主人だが、かえって奴隷が対他存在となり主人が自由を奪われている(相手の自由を手にしたい側が逆になる)が、普段はそれが暗黙のうちであるため気が付かない。これもよく見かける光景。

また、「恋」や「愛」と書かれているが、恋愛に限らずの「誘惑」に関しても当てはまる。筆者の言うように言語の本質をここでは語っている。

 この後、劇作家サルトルの短編と長編の切り抜きが用意されていた。人間の血肉の争いと戦いの様子が面白かった。が、映画さながらのおフランスものはどこか品のある争いに見えた。しかし時代を背景に取り込んだ思考や思想の見せ方に戦慄がはしった。

おかげでページをかなり進めることができた。本書だけで、全てを網羅出来る気がする。
哲学、文学、各識者の思想、小説、悲劇、真理。
それぞれのダイジェストが盛り盛りである。

そのあたりを取り上げるのは飛ばさせてもらって、次の記事は、

「獲得されるべき自由、状況のなかの自由」

から書きたいと思う。つぶやきで取り上げた、本書P180に一気に飛びます。

↑え、スピノザさん、私と同じ領域よそこ。
唖然とし、スピノザとシンクロニシティがおきた瞬間でした。

永遠の否定。与えられる自由の否定。

与えてくれる神がいない、救世主を!と嘆く人間には決して理解できないコアな領域だと思います。

 因みにサルトルの嘔吐(吐き気)の原因はやはり「欲望」である。セクシャルな文章も苦手ですし、この部分は読んでいて私の吐き気がそこまで来ていたのでその辺りも飛ばさせていただきます。


続く。。




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