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『極限の思想 サルトル』-他者におけるサディズムの成立、同時にまた「私」に関してはマゾヒズムの成立-



 前回、ヘーゲルの『精神現象学』の中で、「私」が真に満足に到達するのは、欲望の対象そのものが、自ら否定を遂行する場合に限る。とあった。

自己意識は他の自己意識おいてのみ満足に到達する」と。

サルトルが次のように語る。

P133
「私」は、ひとりの他のものによってのみ対自的に存在する一箇の対自存在である。それゆえ他の者が私に侵入するのは、私の核心においてのことである。

〈自己意識はそれが他のひとつの自己意識における自らの反響(自らの反撃)を知る限りにおいてのみ現実的である〉。

懐疑そのものが対自的に存在する一箇の意識を含んでいるのだから、他の者の存在がその存在について疑う私の試みを条件づけている。自らの存在において「私」は他者に依存している。私が一箇の対自存在でありうるとすればそれはただ他者によってのみである。

他者の存在は私自身の存在と同様に不可疑

・「対他存在が私自身にとって自分の存在の必要条件としてあらわれる」。

 ここで、「客観」という言葉を敢えて使わないのは(縛りかもしれないが)、「他の自己意識」をひとつの存在として存在させたいのだろうと思われる。

対自において、自己を客観視するもう一人の自己の存在が必要であり、そのもう一人の自己をここでは「他のもうひとつ自己意識」「他の自己意識」と言っている。

 「他の者」は所謂「他者」のことで、他者が私に侵入する場合、それは私の核心でもあり、他者によってのみ、自己の対他存在がひとつの自己意識となり、対自の必要条件として、自分のその存在があらわれるのである。


「相克」としての対他関係
   *サディコ=マゾヒズムの定立

・他者の視線の背後にまわり、他者というもうひとつの超越論的な視点から世界を見るということは不可能

・視線の先の現象において他者は原理的に対象ではありえないのである。

・他者とは、
私の逃亡の手の届かないところにある具体的な極。私にとってさまざまに可能であるところの他有化の極

・他者が私の世界を、その外部へと流出させる。他者が私の世界を融解させるとはこのことにほかならない。

他者の視線は、諸対象に対する私の距離を否定し他者自身の距離を繰り広げる

P149

 確かに、他者の視線の先の世界を見ることは不可能である。視線の先のオブジェが目に映っていたとしても、それを見ているのではない可能性がある。

 他者という認識において、私は曖昧な逃亡は出来ない。具体的にな対他存在となる。他者の存在により様々な可能性は外部に広がる。

他者との関係性とは、私の世界を融解させる、私とは対極の位置にあると言える。



 *「サディコ」という聞き慣れない言葉が出てくるが、調べると1960年代のフランス音楽(サルトルはフランスの哲学者であり劇作家)のひとつらしいが、ここでは以下でも出てくる「サディズム」という理解でいいと思われる。

本質的に他者によって認識されるものであった身体のこの存在様式とともに、対他存在は発見される

たとえば、鍵穴から窃視しているぶざまな存在として私はさらされ、私は一瞬身体ごと硬直し固体化していれば、即自化してしまう。

私は自由な超越、超越する超越を奪われ超越される超越となる。
「私は視先を向けられる者となる」

P151

 この場面は、私がアパルトマンにある他人の部屋のドアの鍵穴から部屋をのぞいているという設定である。

とても興奮する自由な超越を企てているとき、他者によって私が窃視するその姿を目撃した時、他者は私の自由な超越を超越される超越的存在となる。

続きを見てみよう。

私はしかし、他者に視先を向けかえすことが出来る。他者はそのとき主観-他者をやめて対象-他者となる。

原理的に他者との関係とは、超越し超越される闘争である

あるいは「相克が対他存在の根源的な意味である」

かくてまたサディコ=マゾヒズムだけが他者とのあいだでただひとつ可能な関係である。
他者によって、また他者にとって対自の追求する逃亡は即自へと凝固する。

P151

 他者はひとつの秘密を握っている。「私がなんであるか」についての秘密である。他者は私を存在させほかでもなく、そのことを通じて私を所有する。そしてこの所有は私を所有しているという意識以外のなにものでもない。

P153


マゾヒズムの成立
──あるいは他者の自由と「愛」の不可能性

他者はその意識において私を所有するのである他者におけるサディズムの成立であり、同時にまた「私」に関してはそのマゾヒズムの成立にほかならない。

P154



ここまでで一区切りさせてもらう。

 他者の侵入はどうしても免れることは出来ない。アパルトマンの部屋を覗かないにしても、親なる関係性を限りなく絶ったとしても完全に他者を断つことは出来ない。

また、侵入する他者は、ここで言われるように「私の核心」である。核心に触れない者は他者とはならない。対他と対自存在である他者は、私の深淵にあるなにかを解決するために存在していると確信する。

 そして他者という存在は、超越されたり超越したり、どちらかがサディズムを所有し、どちらかがマゾヒズムを所有する。それは時と場合によって立場がチェンジする。

 この容態が私は不思議でたまらなかった。ある時期より、それらを捨てたいと思った。しかし他者が資本主義社会に属している以上、それが逃れることは出来ず、私はその都度自然に対応するようになった。

この他者における上下関係は解決出来ないものかとおもう。私においては尊厳や自分の価値などミリもいらない。無意味の面白さを追求しながら、のほほんと過ごしたい。それだけである。

 他者とのこの関係性、その解決方法などが、このあとの本書に書かれていたら嬉しいが、、さて、またページを捲るとします。。




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