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『極限の思想 サルトル』読了


 私たちの哲学者サルトルは、どんな時代に生きたのか、そしてどのように世界と関連していたかを少しここで取り上げておく。

P224
戦後のサルトル──コミュニズムとの関係

1945年10月29日「実損主義はヒューマニズムか?」と題して講演をおこなう。
このスキャンダラスな講演は(…)、講演者サルトルを一気にスターダムへと押し上げる。

同年冬が始まろうとする頃、サルトルはすでに発言する知識人の中心にいた。戦中「存在と無」を刊行、文学者としては「蠅」や「出口なし」を上演。長編「自由への道」、ジャーナリストとして月刊誌「レ・タン・モデルヌ」の編集長となっていた。

人間には本質が存在しない以上、人間はかえって「みずからがそれであるもの」に対して責任がある。それだけではない、

人間存在は自分に責任を負うことによって同時に全人類に対して責任をもつ。単独者は自らの選択において全人類を選択する

 40才にして知識人の中心人物となったサルトルは、一般的に言われる「成功者」なのだろう。

 本書冒頭にも書かれていた文章だが、サルトルのいう、自分に責任があるという発言は理解できるが、全人類に対してのそれはどういった意図があったのかわからない。

私の独自の考えではそれは納得出来る部分ではある。彼は「集合意識」という言葉を使いたくなかったのかとさえ思う。

しかし、集合意識=全人類という範囲であればわかるが。自分と自分以外の他者全てである全人類一人一人に対してのそれは不可能であると思うのだが、私の考えがサルトルの意図と同じだったかはわからない。

「唯物論と革命」から「コミュニストと平和」へ

実存主義はヒューマニズムである
→しかし、古典的な意味でのヒューマニズムではない。

・かつてのヒューマニズムは人間の内部に「目的」をみとめる。実存主義的ヒューマニズムはむしろ自らの外部にあり、「自らを投企して自らを自らの外部に喪失することで、人間となるからである。

・一方でまた「革命的思想も状況のうちにある」

・抑圧に対して反抗する限りで、被抑圧者が協働して形成し共同的にになう思想にほかならない。

・しかし他方、全ての人間が平等であり、平等であるべきだとするヒューマニズムが流れている。

・その古典的ヒューマニズムは、あらゆる人間に内在する神的な権利かあるいは人間の生まれながらの尊厳に訴える思想ではありえない。

その思想はむしろ支配階級のつまり抑圧者たちの思想であるからだ。

・実存主義は人間の尊厳にもとづくものではなくかえってその反対に人間になんら特別な尊厳をみとめない思想

P224、225

 サルトルのいう、人間としてのありかたは私も同じ想いであるしそれは正しい。
弁証法的理性批判」(存在するマルクス主義の落丁を実存主義の立場から補うもの)など、これらの主張も同じくして、時代に合っていなかったというだけであるし、また権威ある立場から正しさを主張して、果たしてなにを変えることができるのか。とも思う。

自由を追求し、人間には根本に尊厳も権利もないことを見いだして、自分と人類に責任をもつこと、それが正しいと私も思うし、私はこれからもそのように生きるしかないが、

しかし、だからなんなのだろうか。

きっとそれをサルトルは十分にわかっていた。

周りだけが「失敗作」だとか、「被い難いもの」だと、ただ時代に合わない、多数の意見が同意出来ないそれを、そのように評価して言っているにすぎない。

社会が勝手にサルトルを「成功者」と「失敗者」に仕立て上げたのだ。劇作家サルトルもそれを自らが演じ、自身の悲劇である喜劇を演じたのかもしれない。

世間は、世間の法と政治の法に支配されている。
利用されているだけの権威的識者の哲学や思想は、いわば、プロレスの相手方なのだ。

実存主義の思想は、どの時代においても合うはずがない。最も、この資本主義社会において実存主義者など、究極の思想の持ち主ではあるが、ただの可笑しな異端者である。


この思想は社会的に言えば縄文時代にのみその思想が通用する。


最後に書かれていた一文も私は同意する。

「私たちが生まれることは不条理であり、
私たちが死ぬということも不条理である」

P232





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