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『極限の思想 サルトル』-「ねばねばしたもの」苦悶する液体と世界の感触-





おわりに──サルトルという夢、その後

p215〜
「ねばねばしたもの」
 ───(一)苦悶する液体と世界の感触

・どす黒く節くれだった、まったく野生そのままのかたまり。

・『存在と無』の著者にあっては、およそ、「ねばねばしたもの」が止めようのない嫌悪の対象であって、隠しようもない嫌悪感を呼ぶものである。

・しかも、たとえばねばねばした握手
(あるいは、握手したときにねばねばする掌)、
ねばねばした微笑、ねばねばした思想
ねばねばした感情のように、
いたるところに存在しており、
いつでもひとを待ち伏せしている。

・それは(子どもはともかく成人にとっては)なにほどか直截的に感じとられる「特殊な性質厭わしく感じられる性状なのである。

ねばねばしたものを問題としてゆくに際し、サルトルはまず「根源的な投企に立ち戻り」「根源的投企とは領有しようとする企てである」と宣言する。

ねばねばしたもの」の存在を顕示させるとすれば、ねばねばしたものとはここで「所有されるべきねばねばしたもの」であることになる。

「ねばねばしたものとの接触がつづくかぎり、私たちにとってはあたかもねばつきが、そっくりそのまま世界の意味であって、すなわち即自存在の唯一の存在様式であるかのような観を呈する

〈ここから先は無駄な「ねばねば」削除〉

わたしたちに与えるのは世界そのものの意味であり、むしろその感触である。

P216

 三年前からこの質感には特に敏感になってしまった私だが、ここに書かれるように、それは、
世界そのものの意味であり、むしろその感触」であり、現在の世の中もまさにその感触である。

 そのときから結界なしではこの三次元の世界の空気を吸うことが困難になってしまった。初めのころは結構辛かった。

その原因はここに書かれているものと同種のものであり、つまりそれは、普通(フツー)であるごく一般的なこの世界であり、リアルなこの現状なのだ。

あらためて、それでは、
「ねばねばしたもの」とはなにか?である。

 ねばねばしたものにより象徴されるありかたは等質性であり、また流動性の模倣である。
変則的な流体である。〔中略〕けれどもそれと同時に、本質的に曖昧なものとして自己を顕示する。流動性は緩慢に存在するからである。ねばねばしたものは液体性のねばりである。

すなわち、それ自体において液体に対する固体の勝利の兆しをあらわし、たんなる固体のしめす無差別な即自が液体性を凝固させようとするひとつの傾向、つまりそのような無差別の即自がこの即自を根拠づけるはずの対自を吸収しようとする、一箇の傾向をあらわしている。ねばねばしたものは水の苦悶なのである。

P217

 今、私には、“それ”は容易には入って来れないようになっているが、形状的には今も上記のそのままである。

 確かに、それは至極曖昧なものであり、曖昧ではっきりしないものが絡まり続けるからこの形状なのだ。いや、彼らははっきりさせたくないのだ。固形体には負けるとうすうす気づいているが故に、曖昧という変化する液状や気体である幻想、または清廉・清楚のような純粋さ、高貴さや威厳、またそれらをひっくるめた、美しさという虚構であり虚飾に包んで凝固体で挑もうと、自身をそれらで正当化させ、またはブランディングするのは、即自の“それ”が継続させたものである。

 また「水の苦悶」という表現は正しい。水というとサラサラとしているイメージだが、「水=湿気」という意味であり、私のイメージするものは、水飴をもう少し軟化させドロドロさせたものが絡まって膨張しているイメージ。他の感情より湿気があり、若干甘ったるい。

 “それ”は無差別で野放しの即自だ。対自しても固体にはきっと負けるとわかっている故に、これまでの“それ”を正当化して愛などと言っているのだ。ここまでくると、“それ”がガイストに変容している可能性が否めない。

「ねばねばしたもの」
 ───(二)即自によって吸収される対自

・ねばねばしたものは、一方で「流動性の模倣」である。他方ではしかし「本質的に曖昧なもの」なのであって、そこで「流動性は緩慢に存在する」

・「液体性のねばり」であるとも言うことができるが、とはいえそこには「液体に対する固体の勝利の兆し」があらわれていると語ることも可能である。「ねばねばしたものは水の苦悶」である。

・あるいは苦悩する液体なのである。

P218

 「流動性の模倣」とは、模倣の連鎖であろう。既に“それ”が正しいとされる世の中になってしまっている。数が多い方を信頼し、また信頼され、そこに“それ”が絡まり膨張していることに気づかず、模倣している権威をさらにまた模倣をして自らの“それ”をより鈍化(軟化)させる。

 また対自しているのか知る由もないが、手放せない所有への固執だろうか…行き詰まっていてもこれまでの努力と継続を無化させることができない状態を執着という。

 嗚呼、絡まり続ける一方のsns。

 他方ではその騒々しさに嫌気がする方もいるだろう。私は吐き気がする(ツァラトゥストラ風)。まだ今だに覗くにさいし勇気がいる。


P220
「ねばねばしたもの」
 ───(三)アナーキズムとテロリズム


 対自は即自を領有しようとする。それぞれの人間存在は「自己自身の対自を即自―対自に変身させようとする直接的な企て」であり、同時にまた「即自存在の全体としての世界を領有しようとする企て」である。

世界がねばねばしたものであるかぎりで、この企ては挫折してしまうねばねばした世界は人間の企図を座礁させ、人間存在の自由は世界のねばつきのなかで暗礁に乗りあげる。

ねばねばした世界とは、

たとえばヴェルサンジェトリクス通りで物乞いをするしかないおとこが、マドリッドに行こうとして結局は行くことのできなかった世界である。

それでいていつまでも「あすこに行きたかった。ほんとうだ。ただ、そうはいかなかった」と悔やみつづけ、繰り言を呟きつづける世界である。

ねばねばした世界とはまた、恋人が望まない妊娠をし、子どもを闇から闇へと葬るために金策に走りまわる世界、友人であったはずのダニエルも、そればかりか兄のジャックすら借金の申し出に耳を貸さない世界である。

ねばねばした世界とはくわえてまた、クラブでとなりのテーブルに座った婦人が咎めるような視線を送ってくる世界であり、とつぜんイヴィックが我が身をナイフで傷つける世界であり、憤激のあまりみずからの掌にナイフを突きたてる世界である。

ねばねばした世界とは、ボリスに煽られて、ローラの部屋から五千フランを盗みだそうとして、しかしいったんはすごすごと引きさがってしまった世界であり、

イヴィックとの不愉快な会話のあと、みっともなくもういちどローラの部屋に忍びこんだ世界であり、五千フランを手渡してマルセルに面罵された世界であり、

「おまえもスペインに行きたかったというわけか?」とダニエルに問われて、「ああ、まあすこしは、な」(Oui. Pas assez)と答えてしまう世界である。

それはまた、ポン・ヌフの欄干に腰かけてセーヌの流れを見つめ、漠然と自死へと思いを馳せながら、なにひとつとして行動に移すことのできなかった世界である。

ねばねぼした世界とは、いうなればまたオデットに好意を抱きながらキスひとつできず、本を書きおろすことも旅行に出ることもできなかった世界なのであった。

要するに、マチウがゆくりなく殿軍の一員となり、ドイツ兵に追いつめられ友軍の兵をつぎつぎと失って、教会の鐘楼から銃を撃ちつづけたとき、銃の一撃一撃で破壊しようとした世界こそねばねばした世界であり、自由がつねに卑小で矮小なものとなってしまうほかはない、この世界なのであった。

「〈自由〉、それは〈テロ〉だ」(la Liberté, c'est la Terreur)、とマチウは考える。

そのとおりなのである。

世界をねばねばした世界、自由な人間存在に執拗に絡みつく泥薄として嫌悪して、ひたすら銃口を向けることで世界を破壊しようとする衝動はアナーキズムに固有な衝動であり、そこから帰結するものは、純粋なテロリズムにほかならない。

マチウは、たしかに純粋で全能、くわえるに自由であった。ただしほんの十五分だけ自由だったのである。

人間存在は「即自存在の全体としての世界を領有しようとする企て」であった。人間存在はそのため「あえて自己を失うことをくわだてる」(elle [=réalité humaine] projette de se perdre)。

その点で「すべての人間存在は一箇の受難である」(Toute réalité humaine est une passion)

先にも引いたところによれば、それはしかも「ひとつの無益な受難」なのである。

P221、222


 サルトルが描くねばねばした世界はどこかオシャレである。なぜだろうか。きっと舞台がフランスだからだ。フランスのねばねばだとしたら私は嘔気が込み上げないのかもしれない。

私のねばねばドロドロした世界は、

歴史上の架空の人物を演じた俳優を一目見るために前日から沿道に敷物で場所を確保し寝泊まりしている世界であり、

風俗街の一角のパチンコ店を目指し、早朝から軍人のように綺麗な列をなして並んでいる世界であり、

一月一日の午前0時に神社参りをして鳥居さえくぐったかどうかわからないくらいの人混みだったのよという話を聞きながら、私は三が日中にはお参り出来そうにないわと嘆く友人がいる世界であり、

たまにふと涙が溢れるんです、体調が良くなかったせいもあるけど、でもみんなが励ましてくれて、私は元気を取り戻すことができました、いつも感謝してます、だから私もみんなのために何か自分が出来ることをしたいです、というアイドルの世界であり、

私は選ばれた人間です、高次元に導かれていると、とあるシャーマンに言われました、魂の勉強を続けて祈りを続けている限り私はいつか幸せになれるし実際今も幸せです、奇跡はもうすぐやって来ますと、重い病気の告知をSNSに投稿する世界である。が、

面白くもなんともないし、吐き気というより下らなさが増し、サルトルの文章を穢すだけなのでここでやめようと思う。

 この終わりの章に以前から気になっていた嘔気の理由が隠されていたのは知らなかった。私はそのことを忘れて、サルトルの哲学に自分のこの数年を投影していた。

実は、既に本書を読了している。

もうひとつ短めの記事を挙げて本書に別れを告げようと思う。一冊でこんなに記事を上げた本はこれまでなかった。中だるみもなかった。

本書の原本である、『存在と無』はいつか時期が来たら読んでみたい。

 久しぶりに厭世観を書いたな。
思わずサルトルに乗っかってしまった。
今は目にしなければこのような思いは殆どありません。侵入は欲の意識の絡まりだけではなく、今となってはねばねばドロドロはごく僅かである。


4477字
誰もここまで読まないでしょ。
読まれた方、お疲れ様でした。





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