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27歳、子どもを持つ不安を分解する

子どもの頃の私は、「23歳で親になる」と思っていた。

だが20代後半になった今、「子どもがいる人生は幸せなのだろうか」「私なんかに人間を育てられるのか」「そもそもこんな世の中に産み落としてよいものか」なんて考えることが多くなった。

子どもが欲しいという気持ちが変化していった背景にはいろいろある。だが、理由にあえて名前を付けるなら、それは漠然とした不安だ。


12月8日の日本経済新聞社の社説は少子化対策がテーマで、そのなかに「水をまくだけでなく、根を阻む岩盤をなくすことが不可欠だ」という一文があった。

金銭面の不安が少子化の一因であることは確かだろう。ただお金だけあっても、労働環境が厳しかったり育児そのものの負担が重かったりすれば、解決にはならない。若芽がすくすく成長するには、水をまくだけなく、根を阻む岩盤をなくすことが不可欠だ。

[社説]給付は育児環境の抜本改革あってこそ

少子化が社会問題となっている今、子どもを産まない・産めない理由は一つではない。経済的な問題に加え、働き方や家事負担の問題はとても大きいだろう。それ以外にも、そもそも恋愛・結婚が面倒だとか、キャリア観の変化とか、家族観の多様化とか、影響の差こそあれ、出産・子育てを先延ばしにしたり、子どもを持たない選択をしたりする人を増やす因子はいろいろあるだろう。

私がまだ産んでいない理由を考える

じゃあ、私にとっての「岩盤」は何か?それは、冒頭にあげた「漠然とした不安」だ。私は少子化対策の専門家ではないし、一般論を語っても面白くない。ここからは、めちゃめちゃパーソナルな「岩盤」についての話だ。

私は既婚27歳。大学卒。今は正社員。私もパートナーも子供は好きなほうで、いつかは親になりたいと思っている。

だが、それは今ではない。「まだいいかな」という気持ちが靄のようにかかっている。もっとはっきり言うと、避妊をやめるのに二の足を踏む。産もうと思えば産めるけれど、いろいろ悩んでしまうなんて贅沢な話かもしれないが、同じような感覚の人は一定数いると思う。少なくとも、大学時代の友人や職場の同僚の女性の間では、「漠然とした不安」の話はまあまあ盛り上がる。

冒頭書いたように、私は子どもの頃の価値観が徐々に変化して今に至るわけだが、それは親や地域から離れることで「子どもを産むのが当たり前」というプレッシャーから解放されて「あれ、産まなくてもいいんじゃない?」と思えるようになったとも言える。

選択の自由と迷い

「私」という個体を中心に見たら「出産・子育てって、かなりリスクだよね」という考え方もできるようになった。年配の知り合いからは「子どもが楽しみだね」「子どもは早く産まないと駄目だよ」と言われても「はははは、そうですね~」ととりあえず笑って流す。歴史を振り返れば「女性は産み育てることが当たり前」という時代のほうが圧倒的に長いことを考えると、目くじらを立てて個人を批判する気も失せる。正解はない。ただ私は、子どもを持つ・持たないの選択ができることはとてもとても大切で、この先も奪われてはならないことだと思う。制度的にも、文化的にも、迷う余地がある世界に生きることができて本当によかったと思う。

一方で、選択の自由が与えられ、迷う余地があることで、覚悟と決断が求められるようになった。本当は親になることに憧れがあるのに、ビビりである私は、覚悟を決めきれず子どもを持たない理由を並べてしまう。

不安の一つの原因

ただ、ここで意識しておきたいことがある。自由と思っているときほど、人は自分を縛っているものに無自覚だ。決断のための材料は適切だろうか?どんな情報に触れるかで、出産や子育てに対するイメージは変わる。私は普段、どんな情報に触れているか?それはどんな形で得ているものか?そこに偏りはないのか?

今はSNSやネットの記事で、簡単に人の子育て話が目に入る。いろんな赤ちゃんの写真も見られる。だが、人はネガティブな情報のほうに強く反応しがちだ。

「医療が発達した現代でも出産で命を落とす可能性はあるし、マタニティブルーをこじらせるかもしれないし、自分の赤ちゃんを可愛いと思えるかわからないし、シングルマザーになったら、子どもに十分な教育機会を与えられなくなる可能性が高いし、子どもとうまく関係を築けなかったら家庭崩壊するかもしれないし…」

ニュースやコラム、子育てマンガなんかを読んで感じた小さな恐怖心が、ぼわんとした不安となり、岩盤というよりも、暗雲、いや低気圧のように私の決断力を鈍らせていた。

私に不足していた「体験」

もちろんネガティブな情報も知ることはとても大事だ。上げづらかった声を勇気を出して発信している人たちには、心から「教えてくれてありがとう」と伝えたい。大事なのは、受け取る側のリテラシーやバランス感覚だ。

私が自分の認知のゆがみに気づいたのは、子育て中の友人とその赤ちゃんに会ったときだった。

本来、良いことと悪いことは裏表。大変なこともあれば、幸せなこともある。解釈の問題も大きい。子育てには楽しさと苦しさと両方あって、親も子も笑ったり泣いたりしながら日々を積み重ね、それが人生になっていく。そうしたことを腹でわかるには、授乳する姿を見、赤子の声に触れ、彼ら彼女らの体温を感じながら、言葉を交わす必要があった。

複数の家族が協力して暮らしている社会では、こうした風景はきっと当たり前だろう。子育ての大変さにも、人生のしんどさにもグラデーションがある。そういう当たり前の視点が、仕事に追われ、都市の小部屋に籠っている私には完全に欠けていた。感染症の影響で奪われていたものに気づいた瞬間でもあった。

親予備軍の背中を押すもの

年齢、性格、キャリアなど、近しい属性を持った人が子を抱いている姿は、「自分も親になれるかもしれない」という根拠のない自信を与えてくれた。

「子どもは欲しいけど、いろいろ不安」という人たちと「いろいろ大変だけど、子育て何とかなってるよ」という人の接触の機会が増えれば、それだけでも子育てに一歩踏み出せるカップルが増えるのではないか。場合によっては、経済状況とかキャリアに不安を持っている人も、何らかの解決策を見出して子どもを迎える選択ができるようになるかもしれない。そんな簡単な話ではないかもしれないが、そう思わずにはいられなかった。それくらい、生の体験には不安を無効化する力があった。

若い芽を成長させるために「岩盤」をどかすことは必要だ。しかし、私みたいな親予備軍の根のぐらつきは、岩盤をちょっとどかしても解決しない。自分から岩盤に向かって根っこを伸ばしているようなものだから。そういう岩盤に絡まった根っこをほぐすという目的においては、親予備軍の交流機会を増やすのは結構効果的なんじゃないかと思う。

私の根っこをほぐして、向かうべき方角に向けてくれた友人親子たちには心から感謝を伝えたい。私もいつか誰かの根っこを導ける存在になれるといいな。

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