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『20年後のゴーストワールド』第1章・私のシーモア(15)夢のダイナー

時は2024年の夏。
仕事の休憩時間、勤務しているビルのレストラン街でパスタを食べた。明太子と海老のクリームパスタ。見るからに美味しい。村井と別れてからずっと治らない頭痛に加えて、めまい、耳鳴り、じんましん、ここ半年間で今までなかったストレス症状に悩まされている。ストレスから遠く離れるのに一番安易な方法として好きなものを食べた。

パスタを二口ほど食べてから、突然心のステージの緞帳があがって目の前が開ける思いがした。

「目の前にある、いま食べているパスタが美味しければそれが全てだ」

そのお告げのような言葉が早口で脳内に駆け巡った。
その声は筋肉少女帯の「暴いておやりよドルバッキー」の猫のドルバッキーの声で再生された。

今食べているパスタは美味しい。
しかし、このパスタを作った人の人格まではわからない。ここの厨房はカウンター席の前で、料理人が見えなくはないが特に見る必要もない。それを作った人は別に凄腕のシェフではなくて、草臥れたおじさんかもしれない。昨日悪びれもなく不倫していた人かもしれない。今すぐ死んでしまいたいくらい思い悩んでいる人かもしれない。ただこれが仕事だからと、目の前の仕事をレシピ通りにやったまでの人が作ったパスタかもしれない。

このパスタを作った人の人格を知ったら、思い込みで味覚は変わってしまうかもしれないが、今この瞬間それを知る必要もない。
いま食べているパスタが美味しい、それが全て。それ以上もそれ以下もない。
極論を言ってしまえば、世の中に存在する作品の価値は全てそうなのかもしれない。

おじさんが組み立ててきた音楽に感動したならそれが全て。

今まで音楽そのものを表で体現してきたバンドやミュージシャン本人よりも、裏方として、パスタで例えるなら厨房に居たおじさんはその人格まで聴衆に問われることはなかった。パスタを作った人がどんなに他人の気持ちがわからなかろうが、口が悪かろうが、語彙力がなかろうが、どれだけ人をドン引きさせようがとりあえず美味しいものが仕上がれば関係なかったのである。厨房の人間関係がスムーズであれば。そこにどれだけの他人の我慢とか歩み寄りとか諦めとか、うまくやる工夫とかあったんだろうと思うと気が遠くなる思いがするが。合わなくて辞めた人が多かったという事実を今回知ったということだ。

「自分はずっとこの感じだから」

とおじさんは言ったけど、本当にそうなんだと思う。
おじさんの仕事は美味しいパスタを提供できればそれで良かった。それをたまに褒められたらそれで良かったということだ。新メニューを考えるとか、流行りの情報を調べてみるとか、他店に食べに行ってみるとかそういうことはしない、自分の確固たるレシピ以外の情報は要らない、そんな感じで仕事も人間関係もやってきたのだろう。アップデートされずに時が止まったままだし、ずっと(笑)も取れないままだ。たまたま自分の昔からのレシピのパスタに感動した私という存在は都合が良かったのだろう。自分のレシピは間違いないと思いたかったんだろう。

そんな感じだから私が好きな他店のパスタに興味は持てないし、話を拾うことを一切しなかったのだろう。故意にしてなかったのではなく、別に私に対してだけでなく、誰に対してもそうだった可能性が高い。
たまたま私が一番好きな趣味が音楽だったから、余計にその情報は要らなかったのかもしれない。そういえば、おじさんは自分が関わったバンドの大切なイベントに出ている対バンさえも興味がないから観ないと言っていた。

自分を立ててくれる相手しか好きじゃない。
しかし、それではコミュニケーションは破綻する、というかそもそも成り立たない。
行く末は目指さなくても孤独死しかない。

度々SNSでも話題にのぼる「作品と人格の問題」
私はなるべく作品とその作者の人格は別ものとして考えなければならないと思いつつ、その議論が起こる度に「とは言っても」の思いが拭えなかった。

大学の時に、近代文学の授業で主人公は作者の人格が投影されているというバイアスを解き、作者と作品の主人公は全く別のものとして、読む訓練をした。

例えば『人間失格』の主人公の葉蔵と太宰治の人格とは別、『舞姫』の主人公の豊太郎と森鴎外の人格とは別、として読者の知っている作者の人物像を勝手に盛り込んでバイアスをかけて、物語の主人公に投影させることなく文章そのもの、そこに描かれていることを読むということをした。

太宰治の人格をなるべく、脳から排除して、文章そのものを読む。思い込みで読まず、文章から受け取る。バイアスがかかっている時より、ストーリーにおいて作者の描く人物像や言いたいことが明確になって、結果的にどうしようもなく作者像を思わずには居られなくなる。しかし、太宰治に関しては作者の人格に人非人なところがあろうと作品の素晴らしさが揺らぐことはない。性格がアレだからと作品の価値が下がるケースにはならない。むしろ性格がアレだからこそ、強烈な個性となって誰にも書けない文学になった。

今までおじさんのパーソナリティを知らずに、携わった音楽を好きでいた。
どんな人なのか気になってはいたけど、実際に知って、おじさんが作ってきた作品に対する長年にわたる確固たる好きの橋脚がぐらぐらした。

知らなくて良いことを知って、その確固たる価値が揺らぐこと、幻滅の悲哀とはこういうことだろうか。

おじさんの人格は作品とは別、おじさんの人格と作品は別、と思い込ませてバイアスを打ち消した。作品が素晴らしければそれが全て、と思わないと、私の好きなものの系譜が全て否定されてしまう気さえした。

出された目の前のパスタが美味しい。
おじさんの携わったバンドの音源が格好良い。

結果だけ見ればオールオッケー。
しかしその美味しいとか格好良いとかがどうしてそうなかったのか、その過程や背景に少し気を向けてみることが、その人の面白みになっていくような気もする。

話せば話すほど、おじさんの違和感が揺るぎないものになり私はヤバいやつウォッチャーをするしかなくなったけど、私も心に余裕がなかった。言葉を飲み込まずに冷静にもっと対話がしたかった。昔話の答え合わせをした上で、私が違う畑に行って備わった価値感によって生じたズレを咎め合うのではなくて、すんなりとわからなくても話し合ってみたかった。

私としても、おじさんのことを中学生の時から「ブックレットの中の人」として見ていたから、おじさんに対して「良い人であってほしい」と勝手に過剰な幻想を想像にとらわれていたのが悪かった。ずっと見かける名前、それはまるで『耳をすませば』で主人公の雫が、図書館で借りて読む本の貸し出しカードのほとんどに書かれた「天沢聖司」という名前が気になったように。そんな夢物語、とは言い切れない似た現象だった。私もその時は同じく中学生だった。

ジブリの映画版の『耳をすませば』は最後、天沢聖司が雫に「結婚しよう」と言うシーン、あれは、集英社の少女漫画雑誌「りぼん」の柊あおいの原作にはない。あのセリフを足してわかりやすさを出した映画を観た当時、子供ながらになんてバカで浅はかなんだろうと思った。最後のあのシーンのイメージが強いから、映画として記憶に残るものと考えれば成功だけど。りぼんを読んで育った感覚で言うと、あれはりぼん読者の感覚を持ち得ない男の人が、足したセリフだろうと違和感しかなかった。純真さとバカは紙一重だけど。おじさんが最初にDMしてきた「結婚するしかないね(笑)」はたとえ冗談だとしても、映画版の方の子どもっぽい天沢聖司が頭をよぎる地雷ワードであった。

おじさんと時を経てから、わざわざまたこのタイミングで再会するのは、どこか救いがあるかもしれないと心のどこかで思ってしまった。マッチングアプリで出会って数回飲みに行って、合わないから自然消滅するのとは重みが違うと思っていた。中学生の時から四半世紀に渡って私が勝手に作り上げていたおじさん像は、ディズニーシーのタワーオブテラーばりの絶叫アトラクションの落下速度で幻滅の地に落ちた。幻滅の地の果て、そこはマッチングアプリで合わなかった人と結果的に同じ場所、もしくは幻滅の度合いが大きい分、もっと遠くの最果ての地だ。

全てを開く鍵なんてものはやっぱり無いのだ。どれだけ泥水をすすっても浴びても安易な心の依存で心が救われてることはない。おじさんと再会して、私は村井の傷から逃げ回って、執念なんかとっくにかなぐり捨てたと思っていたけど結局は全く消えないまま心にあって、今も苦しいということが突きつけられた。ずっと気持ちが追い詰められている、その根本にはまだ村井が居た。

パスタを食べ終わって、職場に戻る。
私はメンズ服も扱うアパレル販売員だ。
おじさんと同年代くらいの男性のお客さまの接客をした。
ご夫婦かカップルか、女性のお連れ様を連れていた。

男性客が服を試着して、お連れ様に意見を求めるものの、相手から返ってくるその意見を全く聞いていなかった。
鏡の中の自分を見て酔っていた。
だだ俺が自分で選んだ服を着て、格好良い俺を見てほしい、間違えていない俺を認めてほしい、とにかく褒めてほしい、他人からの「あれ似合うかも」のアドバイスは要らない。俺は間違えないから、絶対だから。試着室のカーテンにその心の文字が浮かびあがって見えるようだった。

お連れ様の女性は空気と化して、その男性に見えていないようだった。
そういう人は大抵販売員の話も聞いてないし、威圧的なので、私は存在感を消して遠目に様子を伺いながら召使いに徹するしかない。

女の人は壊れかけた椅子に座るのに必死そうに見えた。肘掛けはもう取れてしまって椅子の脚もグラグラの椅子。この二人の二人でいる意味とは……当人しかわからないこともあるけれど、その女の人は少し前までおじさんに話を合わせていた私自身にしか見えなかった。心の負債で身動きできなくなって、蜘蛛の糸にすがっていた私に。

女の人の手を取って逃げたくなった。
大きなお世話だけど、大きな尻もちをついて大怪我する前に。それでも壊れかけた椅子に座りたいから邪魔しないで、と言われるかもしれないけど。
椅子は自分で作るしかないと思った。
今は自分に向き合うのに精一杯で、地べたに座っている。

先日、年明けにおじさんが制作に携わったバンドのCDが発売されてレコ発ライブがあった。私が大晦日に顔が浮かんだバンドだった。ライブにおじさんも来るかもしれないと思ったけど、来なかった。

そのライブにクリスマスイブ、村井のバックバンドを務め、おじさんと打ち上げに行ったバンドマンが来ていた。その話し声が聞こえてきたので、こっそり耳をそばだてて聞いた。今日出演しておじさんとCDを作ったバンドの人たちと話している。

「今日もここ来る前にスタジオ行って、あの人(おじさん)にもっとロックっぽい音にするにはどうしたら良いか相談してたところなんですよ。次プロデュースしてもらおうと思っていて。今日も良いアドバイスもらえました。新譜あの人の録音なんですよね、間違いないですね」

「そうそう、村井さんもずっとあの人と組んでやってるでしょ。そこからして信頼できるよね。今回も良いのができたよ。にしても今日来てくれたら良かったのに」

「今日も野球観るから行けないって言ってました」

少し前まで私もおじさんに対するパブリックイメージはそんな感じだった。
そう思っていたかった。
そう思っていられるバンドマンたちが羨ましかった。
仕事では逆ワードセンスは封印できているのだろうか。

レコ発ライブで買ったCDを聴いた。
一聴してわかるおじさんの音だった。
とても良かった。ギターもドラムもベースも。歌が下手なバンドが嫌いというだけあって、歌は楽器に埋もれることなくとても聴きやすい。
ブックレットにはしっかりとおじさんの名前があった。
何のわだかまりもなく、素晴らしいよ、最高じゃんと大声で叫びたかった。私の部屋にまたおじさんの作品が増えた。

昨年(2023年)のクリスマスと大晦日より前、12月の頭におじさんから連絡があった。

「ダイナー、いよいよオープンしますね。一緒に行きませんか(笑)」

あまりに映画『ゴーストワールド』的すぎるけれど、12月の初旬におじさんと私の共通の知り合いの店長さんが、港町でダイナーをオープンさせた。もともと飲食店をやっていた方だったけど、夏に超大型の台風で元の店舗が壊滅的な被害を受けて閉店に追いやられてしまった。コロナ禍もつぶれずに踏ん張って営業していたのに、あんまりな話だった。

私にとってもおじさんやその周りのバンドマンにとっても店長さんのお店は大切な場所だった。一番つらいのは店長さんだろうに「また楽しいことするからさ、待っててよ」と気丈に話していた。そして目を見張る行動力で新店舗をオープンさせたのだった。しかも、映画に出てくるようなダイナー!

おじさんのことや、おじさんと関わってより傷の根が深くなってしまった村井のことで、SNSに病んだ投稿していた私にも店長さんは心配して声をかけてくれた。自分のことで精一杯だろうに。

「クヨクヨしちゃうのはわかるよ。でも、俺気づいちゃったんだよ、クヨクヨしても元のお店の雨漏りは直らないんだよ。クヨクヨして雨漏りが直るなら、俺もずっとクヨクヨする。けど、そういうわけにはいかないから、俺はまた楽しいことをする」

人を救うタイプの自虐だ。
根本的にはすぐに解決できないかもしれないけど、それを言われたら私も立ち直るしかないと思った。店長さんには店舗の負債があっても、心の負債が全くない。私と全く逆だ。心の負債がなければ、窮地に追いやられても強く居られるものなのだと思う。クヨクヨしだすと今もこの言葉を思い出す。

このことをおじさんに話したら
「俺のことは話してないよね、俺の話はNGだから。俺が関わっているバンドのライブ行っても俺のことは話題に出さないで」と言われたのだった。なんなんだろう。私の気持ちより俺俺俺俺。オレオレ詐欺師より俺俺俺俺。しかしかつて村井と居た時も、村井からおじさんの話は一切聞かなかったなぁと今さら思う。その時は他人の噂話をするよりも自分たちのことに夢中だった。おじさんはこんな感じだから、過去にとても痛い目に遭ったのかもしれない。

私はおじさんに誘われたダイナーのオープンの日は、好きなバンドの自主企画ライブがあって行けなかった。前にそのバンドの話もおじさんにしてみたけど、全く言葉ひとつも拾ってくれなかった。

名古屋のバンド6EYESの曲で「おっさんは知らないおっさんがのことが一番嫌い」というのがあるけどとても言い得て妙だ。知ろうともせずに嫌い、興味が持てない。話を聞かないし、拾わない。

今さら村井と比べるのも野暮だけど、村井は私の好きなものに興味を持って好きなCDの貸し借りで好きが倍々ゲームで増えていった。今ならサブスクのリンクを貼って送るだけのことが、CDだと記憶の残り方が違う。パソコンにCDを取り込んで、ジャケットや歌詞カードとともにその記憶が刻まれた。思い出としては遠目で見れば美しい瞬間かもしれないが、それがまた今の自分を苦しめている。好きな音楽は、生きる力をくれた音楽は、もはや身体の一部で嫌いになれない。しかし好きなものから好きで広がった世界で私は地獄を見た。

私が小学生の時はじめてCDを買ったバンドで、今でも大好きなバンドがある。そのバンドのヴォーカリストは何年も前に死んでしまった。私が気がおかしくなって村井に「死ね」と言った年に、村井ではなくてその人が死んでしまった。大きな悲しみが積み重なってショートして、私はこの時の記憶がない。

昨年、村井に白羽の矢が立って、その死んだヴォーカルの代役をやることになった。私はかつて村井にその人のCDも貸していたのだった。死んでしまったけれどこの世で一番大好きなミュージシャンの代わりを村井がやること、昨年はそれがショックで死にたくなった。

おじさんは村井がそれをやることに反対していたけど、私の気持ちを慮ってというわけでもなく、村井の負担が大きすぎるからということだった。死んだ人はとてつもない天才で、その人のファンはとても熱心な音楽ファンばかりだからだ。村井のやることは無謀な挑戦にも思えた。

おじさんは
「死んだ人には勝てないよ」
ととても最もらしいことを言っていたが、村井は相当頑張ったようで私のSNSのタイムラインは村井の賞賛で埋め尽くされたのだった。

村井は私がはじめてCDを買って、はじめてライブを観たバンドのヴォーカルの代わりをやったのだ。そのバンドのファンの人と私はSNS上でももともと交流があったから、村井への賞賛のポストがぞくぞくと流れてくるタイムラインは地獄絵図になった。私のずっと大切にしていた心の居場所をさらに村井に取り上げられてしまったのに加えて、ずっと村井の才能に気づかないでいた人々が一斉に褒め称えているのもどこか腹立たしかった。好きな系譜は同じなのに気づくのが遅い、でも今知ることができたからこの人たちは何のわだかまりもなく、村井の才能を楽しめるのだとぶつける先のない痛みに襲われた。

大好きなヴォーカリストが死んだ時、一緒に涙を流して悲しみを分かち合った人たちが、今は村井の応援をしているという地獄に居る。私の気持ちは誰も想像がつかない。救世主が登場して歓喜している裏でこんなに苦しんでいる人がいることを。死んでしまった人の意を継いで、歌を歌い継いでくれる人が居るのは嬉しいことだけど、なんでよりによって村井なのだろう。ここまで壮大なギャグ展開は思いつかない地獄だ。

村井が代役に大抜擢された理由は
「音楽に命かけてるやつにしかできないから」とのことだった。
死んでしまった人のことも、村井のことも私が好きなところはそこだった。そこだったから、何事もなければこんな嬉しいことはないのに、私はまた村井に殺されたのだった。もともと幽霊みたいになってたけど、心が空っぽになって死んだように生きるゴーストになった。ずっと消えてしまいたい思いに襲われている。

昨年はおじさんと再会し、思いがけない村井の活躍を知って病んで、ぼんやりと失恋をしておじさんとも変な別れ方をした。心の負債が自己破産した。冷静から一番遠いところに居た。情けなくて人に合わせる顔がなくなった。大人になっても現実を直視することから逃げまわって、軽蔑と恐れに満ちたゴーストワールドに私はいた。

まだ胸が押しつぶされるように痛い。
色んなことがうまくいかなすぎて、これ以上ダメになりたくなくてとても気を張って生きている。息をするのを忘れている時があるくらい、過緊張の日々。情けない自分と向き合うのはとても心が削れる思いだけど、心の負債を減らして、人と深いところでのコミュニケーションを取ることをあきらめたくない。

ドン引きしたり、びっくりしてつい飲み込んでしまった言葉はここに書いたけれど、おじさんといつか話せるだろうか。おじさんとの再会は、私の心の負債をこれ以上増やさないようにするための最終通告だったのだろう。おじさんの発熱も、これ以上私が醜態をさらして不毛な時間を過ごすなというお告げだったのかもしれない。

女性が自分の意見をはっきり言えば「ヒステリー」呼ばわりされ、「女子ども」と男に見下されて、機嫌を取るには「頭ポンポン」しときゃいいんだろというあまりに残念な地獄の価値感が今も蔓延る世の中、そういう人たちから、自分の心を守ってゴーストから人間になって息をして生きていかねばならない私にとって、おじさんの言動にドン引きしたあれこれはリアルに体験して考える元になった。

おじさんとはもう会えないのかもしれないけど、行けなかった港町のダイナーに行きたい。
ここまで来てダイナーに行きたいという私はバカだ。でもバカじゃないと小説の主人公として成り立たない。
胸につかえていたことはここに書いたから、あとは笑うだけだ。
『ゴーストワールド』のダイナーの店員のブキミくんみたいに頭モジャモジャの店長さんのところで、美味しいものが食べたい。気分爽快にビールを飲みたい。あのCD最高でしたと伝えたい。

結果的にこの半年間はこれを書きながらずっとおじさんのことを考えていた。夏になってドラッグストアの店頭にボディーシートが大々的に売り出されているのを見る度、頭におじさんの顔が過ぎる。
悲しみで全ての記憶がなくなってしまう前に、本当の私たちで話がしたい。今も部屋にあの日、渡せなかったクリスマスプレゼントが残っている。


第一章、完。


脳内BGM
左右「ファイト」

「Fight for not Fight」
そう思いながら書きました。

作中に出てきた
筋肉少女帯「暴いておやりよドルバッキー」

6EYES「おっさんは知らないおっさんのことが一番嫌い」

安食美緒 on Instagram: "6eyes 「おっさんは知らないおっさんのことが一番嫌い」 昨日2024.4.6 早稲田リネン "Newest Punk Hero"より この現象あるなぁ〜とわかりみ深い… おっさん、話に知らない(自分に関わりない)おっさん出てくると話広げない、まるで拾わない、なんなら不機嫌になるの何…というの体感してきました。 この現象について、考えていたのでこの曲聴くの楽しみにしていたのですが、うっかりしていてとっさに撮りました。DEATHROさん越しの6eyesです、かっけー!リネンでまた良いライブ観ました◎配信でまたおかわりします #6eyes #ツチヤチカら #deathro #早稲田リネン #ほいさー #ライブ動画" 45 likes, 0 comments - 30aji on April 7, 2024: "6eyes 「おっさんは知 www.instagram.com

この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
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