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『百年の子』を高齢者介護の視点から考えてみた。

古内一絵さんの『百年の子』という本を読んだ。

出版社勤務の女性主人公とその祖母の若かりし頃の物語。
主人公の女性が生きる現代と、祖母が若いころ、戦時中に働いていた頃の話、コロナ禍の令和と戦中の昭和の時代、二つの時代を舞台にしている。

主人公、母、祖母。
3世代の登場人物が出てくる、女性、そして母子の視点で描かれた作品で、様々な視点からの感想が出てくるけれど、
私はあえて、日々高齢者に関わる人間の視点から感想を述べてみたいと思う。

「高齢者」というカテゴリーにくくってひとまとめにしてしまっている私の浅はかさに気づく

昭和の戦時中には生き生きと働き、多感な女性として描かれている祖母スエだが、令和の現代では、自分では寝返りも打てない、ほとんど反応もない、寝たきりの老人として描かれている。

高齢者施設で働く私としては、このような人は見慣れていて、すべての人を「高齢者」というカテゴリーでくくって見ている自分に気づかされた。

つい先週、私が働いている施設の職場で、
昭和一桁生まれの女性が、東京の空襲を逃れて、着の身着のままで電車で仙台の方まで行った話をしてくれた。
別の女性からも、戦時中に女学校で軍事工場で働いていたときの話を聞いたりしたこともある。
当然だけれど、今、高齢者として私が勝手にくくっている方たちにも、
それぞれの人生があり、若い頃の体験があり、物語がある。

『百年の子』に出てくるスエの物語にはその時代を生きた人にしか分からない苦労や喜びや力強さがあるけれど、スエだけでなく、私が直接話を聞いた高齢者の方たちの人生だって、一つ一つが『百年の子』のような物語になりそうなくらい、たくさんのエピソードや思いが詰まっている。

私は普段の看護師としての仕事をするときは、そんな一人一人の背景をほとんど顧みることなく、「ただの高齢者のお年寄り」として接している、そんな自分に気づいて、はっとした。

自分は、高齢者の役に立っている、お世話をして、感謝されて、いい気になっている。
目の前の人がどんな人生を歩んできて、どんな青春時代があって、年を重ねて、そして今私の目の前にいるのか、そんなこと、何も想像することなく、ただただ自分の仕事優先で日々接していることか。
それを思ったら、泣けた。
何もわかってなかった自分に泣けた。
今週もたくさんの高齢者に接してきたけれど、
だれの人生にも寄り添えてなかったと思うと、泣けた。

***
『百年の子』の編集担当の方の記事が載っていた。

古内さんのこの作品への熱量はすごかった。ご本人があまりに考えすぎて鼻血を出したり、胃炎になったり、全身全霊で取り組んでいることが痛いほど伝わってきた。
「ありがとう」と思った。この作品を読むことが出来て、幸せだと思った。涙はきっと、女性であり、かつての子どもであり、母であり、娘であり、労働者であり、担当編集者である自分の心からの涙だと思った。

作者の古内さんが鼻血を出すほど考え抜くほど、一人の女性の人生には重みがある。
それを忘れずに、関わっていきたい。
それを忘れてしまうような働き方はしたくない。
それを忘れさせてしまうようなかかわり方は間違っている。

目の前にいる人は、目の前にいる姿だけがその人ではない。
その人が生きてきた背景や思いを、いつだって想像しながら接していけるように、
自分を鍛錬させないといけない。

文学を読むことはその助けになる。
『百年の子』は、私にこの大事なことを教えてくれた。


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