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メディアの炎上が他人事に感じられない

最近、いくつかのメディアで炎上が続いている。

ここのところ見た炎上記事の中でも、特にこれはと思ったのが、「これからは、キャリアウーマンの時代!女も働き続けて、キラキラしようよ!えっ、子供が欲しい?そんなのさぁ、代理出産すればいいじゃーん!」という妊娠出産や代理出産を軽いノリでウェーイと語っちゃった記事と、

「えっDVを受けてる?はぁ?女の人って、いつも大袈裟ですよね。なんでいつも女の人って、話をわざわざ大袈裟に盛って、悲劇のヒロインになりたがるんでしょうか?どうせあなたの話も、嘘なんでしょう?」と、相談コラムなのにまさかの相談放棄、

「ホームレスってどんな生き物なの?おじさん達は、なぜ河川敷で過ごしているの?それって、本当に豊かなの?豊かさってなんだろう?そうだ!ボク、自由研究するっ!おじさんの生態が知りたいなっ!ワクワク!」という記事だった。

なお、ホームレスの記事に関しては、以前とある人気女優が「どうして大道具さんになったんだろう?どうして照明さんがいるんだろう?」と答え大炎上した事件を彷彿させた。

無邪気とは、時として狂気になる。相手に悪気がないから、狂気の勢いもストレートで躊躇がない。まともに読むと眩暈がしそうなので、ロバート秋山さんが演じる生意気な子供「みちくん」の声で脳内再生しながら記事を読んだら、少し怒りが和らいだ。

きっとこの話も、cak○sではなく、もっと他の切り口で紹介したら受け入れられていたかもしれないと思った。どうせやるなら、その人自身も隣でホームレス生活を送って、「1ヶ月おじさんとガチで過ごしてみた」というところまで振り切るとか。

「僕はおじさんのように過ごしたくはない。テクノロジーの世界で生きたいんだ」と、あくまで傍観者のまま観察している姿が、読者には馬鹿にしているように感じたのだろう。おそらく、当本人はそのつもりがないのかもしれないが……。

そもそも、なぜ人がこういう記事を読んで怒るのかというと、1人の人間として対象者を尊重していない背景が見えるからなのではないだろうか。

こういう記事を書くならば、代理出産側、DVに悩む女性側、お金や生活に困ってる側に多少なりとも寄り添って物事を考える必要があると思う。

好奇心で近づいておきながら「私はおまいらとは違うから」とジャッジするくらいなら、いっそ無言で通り過ぎてくれ。

ただ、誰にでも自分以外の人がどんな背景を抱え、何を思っているかを想像するのは難しい。

だから、この3者が炎上したのもメディアで記事を執筆する私としては、正直他人事とは思えなかった。

私も、自分の経験や目線で考えてしまう所がある、もしかしたら、知らぬ間に似たような記事を書いているかもしれない。そして、今後そうする可能性はなきにしもあらず。気をつけなければ、と改めて思った。

もちろん、これは私だけでなく、メディアで記事を書いたり、ブログを書いている人は全員該当するのではないかと。

なお、この3つの記事が炎上したのは、影響力のある大きなメディアで公開されているという背景もある。逆に、この記事がPVの少ない個人ブログであれば、そこまで注目されることはない。

ホームレス記事の方は、過去にnoteでホームレス人生ゲームという記事を書いているが、正直こっちの方が炎上臭キツい内容だった。しかし、個人のnoteでひっそり書いていたから問題なかった。

つまり、公開メディアによっては炎上する可能性を孕んでいるということ。執筆するメディアの影響力が強い方は、より気をつけた方がいい。

人は、自分の経験値や環境によって価値観を持つ。自分以外の視点や価値観を見つけるためには、他者の意見を聞き、相手が何を考えどう生きてきたかを知っていく必要がある。

そういう意味でも、色んな人が理解を求めてSNSやブログに思いを発信するのはいい時代だ。色んな人の思いや考えが知れるいい機会だから。

しかし、結局のところ意見を聞くだけでは本当の意味で相手を理解できないだろう。

だから、思いや考えを発信した側は、必ずしも自分の意見を多くの人が受け止めてくれるだろうと考えない方がいい。受け止めてくれる人が1人、2人でもいてくれたらそれで充分だ。

世の中にはいろんな人がいて、いろんな考え方の人がいる。1〜2人でも共感してくれる人がいたら書く価値はあると思うが。どうだろう?

また、共感には想像力も大切だ。相手の話を聞いたら、その人の立場を想像して考える。しかし、結局その人ではないから完全には理解できない。

では、同じ経験をすれば相手を理解できるかというと、それも違う。なぜなら、その人と私は考え方も、心の持ち方も違うから。

たとえば、同じ苦しみを味わったとしても、ホリエモンみたいな人ならネタにして書籍化し、より人生の糧にしてしまうだろう。

気にしない人なら、腕に止まった蚊をパァンと叩く程度の痒さしか感じないだろう。気にする人なら、死ぬまで忘れられずに苦しんでしまうかもしれない。このように、心には個人差がある。

そのため、自分の価値観で話してしまうと、そうじゃない人から見て理解されなかったり、反感を買う時もある。そういう意味でも、共感とは実に難しい。

例の3つの記事を読んで、自分の当たり前を押し通すのは怖いと感じた。

自分が当たり前だと思っているものは、必ずしもその人にとって当たり前ではない。常にそう考えた上で、これからは言葉を発信していきたい。

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