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短編小説『誰かになりたかった』

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東京のとあるホステルでのアルバイト経験をもとに書いた短編小説です。 1. インド人のピアノ  2. アメリカ人のハイヒール  3. カタール人の海苔巻き
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記事一覧

インド人のピアノ #1

ホームの明かりが遠ざかる。
車両が暗闇へ溶けていく。

地下で鉄の塊が何人もの人を運んでいるというのに、暗闇からホームへ、また暗闇へとテンポ良く体を滑り込ませていく姿はどこか軽々しい。
 
塩が水に溶ける時、水は塩を構成しているものをバラバラに引き剥がしてしまうらしい。
今までみんなが手を繋いで、「塩」という一つのものとして存在してきたはずなのに、あの透明な液体にふわりと体を包まれた瞬間、その手は

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インド人のピアノ #2

夜が落ちてきた。

22時になったら、近隣住民への配慮で灰皿の位置を裏口から正面へ移動させることになっている。ブロック塀に腰を掛けて煙草を吸っていたカップルに、「夜だから向こうに移動してねー!」と軽く声を掛ける。まだ5月なのに顔で感じる風が生温くて、そんなに急いで夏にしなくてもいいのにと思う。

このアルバイトはインターネットの求人サイトで見つけた。「ホステルで働き始めた」と報告すると「ホステスじ

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インド人のピアノ #3

どういうわけかわたしは、誰もいなくなったカフェスペースで、乱暴にティーバッグを突っ込んだマグカップを2つ用意し、宿泊施設にピアノがないという当たり前の事実にひどく落胆しているインド人男性の前に座っている。

業務時間はとっくに過ぎていたが、今にも泣き出しそうになっている人を放って帰るわけにもいかず、従業員としてではなく同世代の友達として、終電の時間までは話を聞きましょうということになった。

まだ

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アメリカ人のハイヒール #1

ある朝出勤すると、長髪の男が盛大にラーメンをぶち撒けていた。

辛いタイプのラーメンだったらしく、床にもソファーにもテーブルにも、殺人現場のように赤い汁が飛び散っている。

「くそっ、最悪だ」

わたしは足早に受付の横を通過しながら、朝ごはん用に買ったパンの入ったコンビニの袋とカフェラテのカップをカウンターの上に滑らせて、カフェスペースの一番奥へ急いだ。

「大丈夫ですか?」

真っ赤に染まったチ

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アメリカ人のハイヒール #2

「So basically, I’m homeless and jobless」

晴々しい自己紹介。言葉に似合わない、朗らかな表情。

まあ言うたらホームレスで無職みたいなもんやけど、自分はどうなん?という目でわたしを見ている。

「いや、え、もうわたしの番?」

日本人は自己紹介で所属や肩書きから言いがちだけど、欧米ではまず自分がどういう人間かを話すのが基本だというのを、どこかで読んだ

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カタール人の海苔巻き #1

8月の夜、最後のチェックインのお客さんからは、甘ったるい香水の匂いがした。

「ほんとに来ちゃった。朝起きたら急にどこか遠くに行きたくなって、日本にしよう!って思ったの。すぐに飛行機のチケットを取って、荷造りをして、家を飛び出してきたわ。ここの宿はさっき飛行機の中で予約したんだけど、できてるよね?」

差し出された携帯の予約完了画面を確認すると、ホステル「Danro」の名前と、今日の日付、確かに数

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カタール人の海苔巻き #2

にわか雨みたいな人だと思った。

少し前からホステルDanroに泊まっている彼女は、朝急にどこかへ行こうと思い立ち、ドーハから東京へやってきたらしい。

日中は外に出て未知の世界の開拓を楽しんでいるようだったが、夜は早めにホステルへ戻ってきて、共有スペースで他の宿泊客と団欒するのが彼女の一日のようだった。チェックイン時にパスポートを差し出した彼女の完璧な赤い爪が記憶に強く残って、もっと眠らない街を

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