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はじめに

自分史的 M’s ゆるりばなし ショートショートリタイアし、適度な自由時間とお金がある人は、ときには『自分史』のようなものを作るとよく聞く。 私も今なら時間もあるし、まだボケもないので、最後のチャンスと思い、私なりの自分史を著すことにした。 70年以上もの我が人生を時系列的に正確に振り返るために、アルバムを開けたり資料をチェックしたりはとてもできない。そこで自分が気ままに思いつく過去の出来事を題材に、アットランダムにショートストーリー仕立として表すことにした。エッセイやショ

    • (27)見てはならぬ夢

      老人には本当に見たくない夢があった。 誰しもひとつやふたつはあると思うが、こればかりは本人でない限りその嫌悪感がわからない。 戦争体験なんてまったくないのに、戦闘機に追っかけられて機銃弾を浴びる夢や、大地震で住居が無残にも壊れて必死に逃げていく夢など、定期的とはいわないが一年に最低1~2回は見る『見てはならぬ夢』だ。 大学時代の話である。 大学は経済学部と決めていたので、経済学部のある大学を3つ受験した。そのうちの1校は有名国立大学であり、自分の実力では、どう考えても無理だ

      • (26)500円玉のご縁

        老人はウォーキングを日課としていた。 家近くの高台に建っているこじんまりとした神社がある。 正殿に行くには、幅が1.5㍍くらいの急な階段を135段上らないと辿り着けない。 階段以外にも道があり、少し急な山道で遠回りとなるが階段135段よりは歩きやすい。 老人は散歩に出かけるときには必ず、この山道の方を利用し、正殿で一礼してから135段の階段をゆっくり下って、歩きに出かけることにしている。 初夏の土曜日の午後、帽子を被りハンカチを持ちいつものように家を出た。 例の山道から本

        • (25)[実録]66歳と310日目の免許合宿(その8ー完)

          7月1日 自宅 雨 朝早く起きる習慣が身に付いてしまったので7時に起床。 午前中は、教習所から届いた荷物や記録などを整理。 記憶期限の短い頭脳となってきているので、苦労して苦労して覚えた「法規記憶」を無くさないためにも、明日さっそく最寄りの「免許センター」で「学科受験」することを決めた。 従って午後は、ほぼ終日、「法規記憶」作業を繰り返す。 「技能」は教習所で「合格」を貰っているので、免許センターでは「学科」のみの試験であり、それに合格すれば待望の「運転免許証」の獲得となる

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        はじめに

          (24)【実録】66歳と310日目の免許合宿(その7)

          6月29日(第15日目)晴 今日は遂に「卒業検定」の日。                    合格を前提に、帰りの荷物が嵩張るので学校から迎えの車がこの寮に8時には来るという。                           そして退寮の挨拶も終え、車に乗り込み教習所へと向かう。 9時から「卒業検定」の説明を受ける。  ・教官がブレーキやハンドルを補助したら一発アウト  ・何らかの事故を起せば一発アウト  ・停止線1センチオーバーでも一発アウト  ・交通標識を見逃し

          (24)【実録】66歳と310日目の免許合宿(その7)

          (23)【実録】66歳と310日目の免許合宿(その6)

          6月27日(第13日目)雨→くもり 朝6時半に起きて暗記作業をする。今日は4回目(最終)の「効果測定」がある。(本当にハードだと思いませんか?) 久々に梅雨らしく本格的に雨が降っている。 8時には寮を出て学習室でさらに暗記作業を頑張り、10時からの「高速道路運転」講習を待つ。 それは10時からほぼ3時間をかけて、3人の受講生(私と見知らぬ教習生2人)が交互に高速道路上を運転するというものである。教習所から高速の入り口まで約20分かかり、サービスエリアでの休憩もあるので、実

          (23)【実録】66歳と310日目の免許合宿(その6)

          (22)【実録】66歳と310日目の免許合宿(その5)

          6月23日(第9日目)晴 女子学生団体が教習所寮から退寮したということで、今日から私も遂に「寮生活」となる。 最初から寮泊まりが条件だったので仕方がないが、今日まで滞在していたこのホテルは繁華街にあり、買物や飲み食いする店には困らない。それどころか、地の魚を中心に提供する旨そうな店がまだ多々あり、免許獲得にも必死ではあるけれど、飲み食いにも俄然興味が湧いてきていたのに本当に残念でならない。 寮には教習所入所初日に既に案内されており大体の雰囲気や状況は理解していた。 教習所

          (22)【実録】66歳と310日目の免許合宿(その5)

          (21)【実録】66歳と310日目の免許合宿 (その4)

          6月20日(第6日目)くもり 10時31分のバスに乗り11時前に教習所に着く。 今日は6月18日(第4日目)に巨体女性教官からプレゼントされた「追加技能講習」の2時限のみだ。従って、たっぷり余裕時間もあり、学習室でこれまたたっぷり模擬問題に向かうことができた。この頃になると「学科」については相当の知識が、一時的だと思うが頭に入ったと感じるようになっていた。「学科」試験は○×方式なので、「質より量」と思い徹底的に模擬問題をやる。 「技能」の追加延長については、指示された時点

          (21)【実録】66歳と310日目の免許合宿 (その4)

          (20)【実録】66歳と310日目の免許合宿(その3)

          6月17日(第3日目)晴 今日は9時のスクールバスに、ヤル気ムンムンで乗り込む。 昨日の「誓い」を実践せねば男じゃない。 「学科」講習もただ聞いているだけではなく、ノートに走り書きしながら、ポイントをその場で覚える作業を取り入れる。 各教官は「学科」と「技能」の両方を指導する。 いまのところ、すべての教官は私には優しく接してくれている。 相当以前の話になるが『免許がない!』(1994年、主演;舘ひろし)という映画をテレビで見たことがある。そのストーリーはうろ覚えだが、ざ

          (20)【実録】66歳と310日目の免許合宿(その3)

          (19)【実録】66歳と310日目の免許合宿(その2)

          6月15日(第1日目)うすくもり 朝8時過ぎ新幹線、在来線と乗り継ぎ、約束の11時前には指定された駅に到着した。改札を出ると教習所の係員らしき人物が待ち受けており、声をかけてきて私を確認する。私以外にも若い男女3人が現れてミニバンに同乗し教習所に向かう。 11時15分には会議室に通され、この4人以外にさらに地元の若者2人が加わった。 「シニアプラン」にしていたので50~60歳代ばかりだと思っていたが、私以外はぴちぴちの20歳前後ばかり。 茶髪で腕にタトゥを入れた輩、度のき

          (19)【実録】66歳と310日目の免許合宿(その2)

          (18)[実録]66歳と310日目の免許合宿(その1)

          老人は東京駅から電車で30分ほど、さらにバスで10分ほどの郊外に住んでいる。 この辺りは、まだ下水道が完全整備されていなくて、すべての雨水や汚水は駐車場や庭に埋められたタンク(浄化槽)で、浄化して下水として流される。3ヶ月に一度、そのタンク点検・掃除に業者がやってくる。 まだ仕事をしていた頃のある日曜日の9時過ぎ。 「ピンポーン」とチャイムが鳴る。 「○○といいます。浄化槽の定期検査に参りました」 我家の浄化槽は駐車場の下に埋め込まれている。 駐車場は縦に細長く、幅が2.5

          (18)[実録]66歳と310日目の免許合宿(その1)

          (17)注文の多い奥さまたち

          老人は思う。 歳を重ねていくうちに、どうしても夫婦間で、意見の相違や行動の変化が生まれ、ときには齟齬をきたす場面が多々発生してくる。 その原因の大部分は、歳とともに変化していく個々人の価値観が赤裸々となり、相手とのズレをより大きく意識したり、感じることにある。違和感ぐらいで済めばいいが、拡大すれば闘いにもなる。 本来、出会いそして結ばれたときには、お互いを尊重し、お互いを認めるのが「当たり前」という心遣いが自然と身に備わっていた。つまり、無意識のうちに自分本来の価値観を表面

          (17)注文の多い奥さまたち

          (16)ご当地ソング

          老人は学校を卒業し、新入社員ながらも同時に「転勤者」という形で東京に住むようになった。 山と海に挟まれた細長い街から、建物だらけの大都会へ来た実感をひしひしと味わった。 中野駅から徒歩15分程度の6畳1間のアパートに住んだ。 家賃は確か当時5000円くらいだった。(初任給が35000円くらい) まだコンビニもなくスーパーでさえ珍しい時代であった。 仕事から帰っての夕食作りなんてあり得ないと、当然ながら毎日外食となった。 アパートへ帰る途中の少し小汚い定食屋、カウンターだ

          (16)ご当地ソング

          (15)しんどい年賀状

          老人は年も明けて落ち着いたある日の午前、再度ゆっくりと年賀状に目を通していた。 年賀状のやり取りをしてもう何年になるだろうか。 小学3~4年ぐらいから始めたのだろうか。 社会人となって上司や同僚宛に年賀状を出すことは、当時極めて普通だった。 東京本社に入社した頃、年始式が終わり、席に着くと同僚の女性が「あなたに頂いた年賀状、面白くて私の甥っ子が欲しいといって手離さなかったのよ!」と。 『よし、やった!』と心の中。 『年賀状は自己表現だ!』と考え、当時流行っていたギャグ漫画

          (15)しんどい年賀状

          (14)どういたしまして

          老人は、駅近くの本屋さんに頼んでいた本を受け取りに来た。 帰り道、ときたま入るセルフのコーヒーショップに入った。 ブレンドを呑みながら、買ったばかりの本を開き、タバコを一服大きく吸った。 飲み終えて、容器を戻そうと席を立っ。 バイト風の女性店員と目が合った。 「はい、いただきます」とトレイを受け取ってくれた。 「あっ、ありがとう。おいしかった!」 すると、そのバイト風女性がひとこと、 「どういたしまして」 「・・・・・」

          (14)どういたしまして

          (13)パリの妖精(あとがき)

          最後の最後で「彼女への愛」に気づいた自分が許せない。 恥ずかしい話だが、私が彼女と出会い、心が引かれていっているのは、自分でも明らかに分かっていた。 また彼女も私に好意を抱き、二人が日に日に強く結ばれていくことも自然の流れだと思っていた。 しかし、彼女と一緒のときは何も気にしなかったのに、別れたあと、どうしても彼女の障害のことを考えてしまう。 そこには一歩引き下がった卑怯な自分がいる。 『どこまで進んでいいのだろうか?』と打算的な考えも浮かぶ。 表面的には彼女に『偏見なん

          (13)パリの妖精(あとがき)