(15)しんどい年賀状

老人は年も明けて落ち着いたある日の午前、再度ゆっくりと年賀状に目を通していた。
年賀状のやり取りをしてもう何年になるだろうか。
小学3~4年ぐらいから始めたのだろうか。

社会人となって上司や同僚宛に年賀状を出すことは、当時極めて普通だった。
東京本社に入社した頃、年始式が終わり、席に着くと同僚の女性が「あなたに頂いた年賀状、面白くて私の甥っ子が欲しいといって手離さなかったのよ!」と。
『よし、やった!』と心の中。

『年賀状は自己表現だ!』と考え、当時流行っていたギャグ漫画の主人公を模し、蛍光ペンやクレヨンを駆使し、フルカラーのものを作っていた。もちろんすべて手作りであり、1枚完成させるのに10分くらいかかったのではないだろうか。
(せいぜい20枚くらいの作成であり、今も想い出にと当時のものを1枚保管している)
「いい大人が」と思うこともあったが、見る立場で考えれば少々異質な年賀状の方が絶対楽しい。単純な決まり文句の年賀状なんて本当に義理だけではないか、と考えていた。

大阪勤務時代は百貨店を得意先とするアパレル営業の課長をやっていた。
守備範囲は京阪神地区をメインに、さらに山陽道の百貨店まで広範囲である。
百貨店取引で好業績を上げるには、第一に自分たちのブランド商品をいかに好立地に置いて貰うかである。確かに商品力の差異による影響もあるが、販売場所の差こそが命取りとなる。
当時は「委託販売」(売れ残りはアパレルメーカーに返品され、販売員はアパレルが派遣する)が基本取引であり、販売場所を決める百貨店のバイヤーやマネージャーの気分により、その売り上げが大きく左右される。


そして次に重要なポイントは、女性販売員の販売力である。
仮にまったく同じ条件(商品、販売場所など)で販売されたとしても、販売員能力の優劣で売上高はおそらく40~50%の違いが発生すると思われる。

「百貨店バイヤー(マネージャー含む)」と「女性販売員」、百貨店営業職にとっては絶対的な存在なのである。

この絶対的な存在に毎年「年賀状」を出すのである。
営業的センスなんてまったく持ち合わせていないので、少しでも自分を印象づけようと思い、真面目に取り組んだ。販売員さん達には、心からの感謝を表そうと思った。
個人情報など問われない時代であり、バイヤーの自宅住所を手に入れ、販売員は一応部下となるので自宅住所などは履歴書などで承知している。
バイヤーを中心に約70~80枚、販売員宛に約120~130枚、社内関係者に約50~60枚、友人やお世話になった人、その他含めて約50~60枚、ざっと300枚前後か。ピーク時は300枚を遙かに超えた記憶もある。
その後、虚礼廃止がようやく叫ばれ、社内関係者にはほとんど止めたが、バイヤーと販売員宛は営業職を務めた7年間はずっと出し続けた。(もちろん、その後も続く人が結構会ったが・・・)

問題なのは年賀状を作る時間がなかなか取れないことだ。年末になると業務も忙しくなり、さらに忘年会など飲む機会も増え、夜遅くの帰宅となる。
会社が提供してくれる年賀状もあるが、そのデザインは富士山の写真を配した一般的などこにでもあるデザインだった。もちろん「お年玉抽選付葉書」ではない。それらは自宅住所が判らないバイヤーや得意先の部署宛(個人宛てではなく)などに使用した。

重要なのは、自宅宛てに送ることであり、しかも、きっと数多く受け取ると思われる年賀状の中で、異質な光を発しながらも、それなりに「めでたさ」もなければならない。で、なければ出す意味がない。ただの1枚になってしまう。

だから手作り風で多配色にこだわった。(当時の年賀状は色数が少なかった)
本来なら1枚1枚すべてを手書きに、と思うが不可能なのは明白だ。もちろんパソコンなんてまだ姿もなく、まして印刷会社に頼むと会社の既製品のような味気ないものになってしまう。そこで大変重宝したのが「プリントゴッコ」(簡易な印刷機)であった。これも印刷ではあるが、デザインの主要部分をこれで印刷する。その後、手書きでかすれを修正したりしてから、金や銀、黒など強い色をアクセントや陰に使い、全体の強弱をつける。
ユニークで目立つデザインを狙い、可能な限り多配色として、裏面を完成させる。デザインは3~4種類を考え、宛先別に使い分けをする。

次にやっかいなのが「宛名書き」である。約300枚の宛名を、汚い字だが真面目に一生懸命に手書きせざるを得ない。しかし、これは後々結構役立った。何年間か続けていると、相手の住所が町名も含めて頭に記憶されてくる。バイヤーや販売員と話すときに、さりげなくこの知識を出す。相手は「えっ!」と少しびっくりしながらも打ち解け易くなる。
宛名書きが終わると印刷された裏面に、何かひと言を、可能な限り手書きで付け加える。

12月は基本的に休日返上で業務に就くが、半日程度の休暇は取れる。2回の貴重な半休を夜遅くまでこの作業に没頭する。そして必ず元旦に届くように投函する。

投函する年賀状が多ければ当然、受け取る年賀状も多くなる。
バイヤーからは出したうちの一割くらい受け取るが、それ以外の方からは、ほとんど出す枚数に匹敵する枚数が来るので約200~250枚前後が届く。


元旦こそ家で家族と一緒に過ごすが、31日の大晦日も得意先である百貨店への挨拶回りで出勤する。さすがにこの時期、コンペチターはほとんど休んでいるので、バイヤーも年末はそれほど忙しくなく、コーヒーなんかを御馳走してくれてゆっくりと話ができる。
販売員も大晦日まで来てくれてと恐縮してくれる。年末の出勤は苦であったが、その効果は大きなものであった。
そして正月2日には、上司や部下達と5~6人のグループを作り、京阪神の主要得意先に「年始の挨拶」に出かける。翌3日は前日回りきれなかった得意先へ。4日は自分の会社の「仕事始め」となり、年始の儀式的なものを終え、その脚で郊外の得意先に挨拶回り。5~6日は地方へ出かける。
結局、主要得意先バイヤーとは、年末に1年間のお礼を、元旦には年賀状、2日には店で年始挨拶と、ほとんど連日挨拶をしているということになる。
営業能力に劣る人間には大変酷な時代であった。

年が明けて10日前後にようやく3連休が取れる。これが本当の「正月」である。
一杯飲みながら年賀状をゆっくり読み、恒例の「年賀状ベスト3」を選出する。この作業が結構私には楽しいイベントである。「ベスト3」はもう40年近くやっており、選ばれた年賀状は「殿堂」入りし「永久保存」となっている。
不思議なもので、選ぶ方のセンスか、作成した人のセンスか、毎年同人物の年賀状が「ベスト3」候補になってしまう。
凄く筆が達者で風格のある年賀状、木版画の3面刷りで正月らしい年賀状、「謹賀新年」は芋版を使い余白に手書きのフルカラーのイラストをあしらった年賀状、これらが常連となっている。
近頃は、差出人のライフスタイルや1年間の出来事などを、面白おかしく箇条書きや短文にまとめた年賀状も楽しく「ベスト3」候補になっている。徐々にPC作成が増えてきたが、当初は選外としていた。近年はそういうわけにもならず、一応候補作品として取り上げるが、「ベスト3」には今現在まだむつかしい。

お年玉抽選番号の発表も終わり当たった葉書や「ベスト3」作品、喪中通知葉書も加えて「あいうえお」順に整理する。いちおう3年間は保管している。従って4年前の年賀状は「ベスト3」を除いて申し訳ないがこの時期に処分する。その「ベスト3」がようやく「殿堂ファイル」に収まり「永久保存」となる。

余談だが毎年家族分併せてピーク時300枚以上の「お年玉抽選葉書」を頂き、当選番号と照らし合わせていた頃でも、切手シートが最高で6~7枚当たったくらいである。
これで冷静になり「宝くじ」を買うのを止めた。

その後、退職時の挨拶通知と同時に、本当にお世話になった人、親しい友人、親戚などを除き、大部分の人々に「年賀挨拶の中止」を一方的に連絡させて頂き、今では何とか40~50枚にまで減らすことができた。それなのに妻のものと合わせて、せいぜい100枚ほどなのに、裏面は印刷会社に頼み、宛名はPCで印刷する。すべての作成時間は30分もかからない。

今は時間もたっぷりあるので、版画などを駆使した本当の手作り年賀状を数少なく、と思っているが・・・。


さて今後は裏面のデザインをどうしているか、皆さま、予測して下さい。
 ① 現状どおり裏面印刷(印刷会社の図柄セレクト)を頼む
 ② PCのデザインを利用する
 ③ 木版画などで芸術性を高める
 ④ 毛筆を猛練習し風格あるものに
 ⑤ 昔のようにギャグマンガを使う
 ⑥ 年賀状自体をやめる
答えは、1~3年後です。

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