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生活の中の小説

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日々、心を通り過ぎていく一瞬の風景を切り取って、小説にしていきます。小さな物語を日々楽しんでいっていただければと思います。
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2020年6月の記事一覧

小説 井戸のある家

小説 井戸のある家

 その家には井戸があって、女がよく水をくみ上げていた。庭の端っこに古びた方円形の井戸が据えられており、女は滑車をゆっくりと引き上げて、水をくみ上げた。

 水はどこから来ているのか。村の背後に連なる山々から地下水が流れてくるのかだろうか。

 もう村に井戸は少なく、女の家を含めても数軒しかない。もちろん、村にだって水道が普及していて、井戸水を使うにしたって、もう少し便利なくみ上げ型をする方が便利だ

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小説 トルルカ半島の灯台

小説 トルルカ半島の灯台

 トルルカ半島は、ミラスコ北西部に位置する小さな半島を指す。地図上で見ると、マルユノ海に角のように飛び出していて、地元では「鹿の角」と呼ばれている。なぜ鹿なのか、それは誰も知らない。

 マユラバは、星を見ていた。
 マユラバはトルルカ半島の、ヒュカ村出身の男だ。若くて、強い村の男だ。
 昨晩から、星の光が鈍くなった。毎夜、星空を見ているマユラバだからこその気づきだった。
 空が落ちてくるのかもし

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小説 時計技師

 円城は、いつも時計を直していた。来る日も来る日も。その店には、毎日多くの客がやってきて、壊れた時計を円城に預けていった。よくもまあ、これほどまでに時計が壊れるものだ。

 俺は自分の時計を壊したことなんて一度もない。いや、壊れるほどに物事に執着したことはないのかもしれない。

 電気を時計に応用したのはイタリア人のツァンボニだという。それが定かではないが、以来様々な技術発展が時計を支えてきた。

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小説 渦

 巻き込まれた。その渦に。
 不意に襲ってきた、その激情。恋なんて、捨てたのだ。
 燃えるゴミに紛らせて。なのに。

 蟻地獄だよ。底であなたが待っている。泡沫、春の夜の夢。
 体も麻痺しちゃってさ。
 私を特区にして、他人を介さないでほしい。
 
 夜のポエマーかよ。指先で、温もりを探る。
 海の底で、息もできないまま、口づけを交わした。
 
 乾いた唇を、言い訳で濡らす。吸い込まれてはいけない

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