尤なる愚者
人生の軌道はどこで転じるか分からない。その各所はいわば点であり、それが線を成して未来へと伸びてゆく。今の私へと繋がった起点の処は数年前の東京だった。
当時の私は高層ビル群に本社を置く商社の営業としてノルマに追われる毎日を送っていた。変事があったその日は常習化した上司の同輩いじめが特に酷く、私は我慢できずに弁難したのだ。
我が部署の皆は性悪な上司に一太刀浴びせた私を称賛して、その晩に飲み屋で急遽祝賀会を設けた。私は皆にヒーロー扱いされて拍手喝采を受け、ほろ酔いの中で余韻に浸った。
だが帰結、その流れから私は都会を離れて、亡き祖父母が住んでいた高松のあばら家を自分で修理して住み始めた。平穏な日々だったが金はなかった。
無職だった。
彼女との出逢いは高松に来て一か月ほど後の玉藻公園になる。
毎日が退屈だと感じていた私は、刺激をもとめてなぜか城を観に行こうと決めたのだった。もしそれがなければ彼女との出逢いもなかっただろう、それが運命というものだ。
玉藻公園は日本でも稀有な水城のひとつである高松城を整備した公園となっている。公園内へ入った私はまず鞘橋を渡って天守台へ行き、高台から城内を眺めた。そのあとは当てどもなく園内をぐるぐる歩き回った。厳めしさを感じる石垣、古くから現存する櫓、広い堀に揺蕩う豊かな水、その下で泳ぐ鯛やボラ。高松城の堀は海とも通じていて海洋魚類も棲息している。歴史的建造物はそれそのものが芸術作品のようで、そこから得られる情動は非日常を跳ね飛ばして新鮮な気持ちにさせてくれる。
やがて城内散策から一時間は経った頃、疲れた私は一息つこうと桜の馬場南の石垣に座って堀に足を投げ出し、ぶらつかせていた。
こういう時にふと思い出してしまうのが、東京の職場での散々な記憶だ。あれから一か月経って些少でもあの悪夢は薄れはしたが、この復習が繰り返される限り、きっと無になることはないのだろうと私は思った。
私は精気なくぼんやりと水面を眺めて往事の場面を回想した。
憤然たる形相で罵倒する上司、目を潤ませる虚弱な質の同輩、彼を庇う私に上司は昂奮し、数多の紙を激しく宙に舞わせた。泣く同輩の頭に書類が降り注ぐ酷い絵面だった。それが私の脳裏に次々と映し出された。
あの時、私は「もうそのぐらいでいいでしょう」と声高に言って、上司と同輩の間に体を入れた。すぐに「なんだ、おまえは」と低くドスの利いた声で上司が私の胸倉を掴んで揺すった。その時点でもう完全なパワハラなのだが、そこではそれがまかり通っていた。その上司は部長職で取締役、大株主の血統親族だった。
上司は続けて「こんな出来の悪い奴を庇う必要があるのか」と私に詰め寄った。
「いえ、職務の成績に関してどうこういう権限は私にはありません」
「じゃあなんだというんだ? 文句あるのか」
その上司の今までの醜行に堪忍袋の緒が切れた私は、引くこともなく躊躇なく言った。
「叱責する方法、行為は感情的ではなく理性と節度を保った誠意のあるものであるべきでしょう。人の上に立つ者ならそれをわきまえて頂きたい」
それにぐうの音も出なかったとみえ、上司はたちまち気色ばんだ。
「誰に言ってんだ!」
「言わなくてもわかるでしょう」
そこで上司は怒るのを止めて不敵に微笑んだ。
「貴様、わかってるだろうな」
上司はそう言い放って営業部フロアから去っていった。
私はあいつの声を一生忘れないだろう、その三日後に私は北海道へ転勤を命ぜられたのだ。
「あんたなにしょん」
急に背後から声を掛けられた。私が振り向くと妙齢の女性だった。
私は考え事だとは言えず、丁度近くに水鳥が寄って来ていたことから「水鳥を見ている」と答えた。彼女はすぐ「ちゃうわ」と言い、思慮の内容を訊いた。
私はもう面倒だと思って回想した内容や東京でのことを全部ぶち撒けた。
彼女は初対面なのだが真剣に耳を傾けて私の話を聴いてくれた。でも話が終わると笑いもせず、「愚かじゃ……」と言った。続けて、もし上司が短慮な殿様ならあなたの命は危なかったと。
私の吐露は、半分は鬱屈を晴らすつもりであったが、別に同情をもとめたものでもなかった。しかし初対面から僅か数分で愚者呼ばわりをされて私は辟易した。
ここは現代じゃないかと言い残し、私は去ろうとした。でもそういう人は嫌いじゃないと彼女は言い、私に歩みを合わせて恰も伴侶の如く離れなかった。
不承不承話をすると、彼女は地元の人で歴史好きなのか、高松を領としていた生駒家のこと、日本の戦国時代のことを語りだした。
私は東京出身で高松の歴史はあまりわからず、ただ静聴した。話が関ヶ原の戦いになった時には話も弾んで、彼女と心の糸が少しづつ繋がるような気がした。
話しながら歩いて桜の下に着いた時、彼女は表情を一変させて戦乱の世を指して言った。「お金や武力、力の論理でみんな支配する。ほんまに理不尽な世の中やね」と。
それは何百年経った今も変わっていないと私は思った。今でも金や暴力、権力がこの世界では大きな力を持ち、それを駆使する最たる所業が為政者の下命による武力行使、弾圧、侵略、支配というものだ。
言葉を切った後、桜花を嗅いで瞑し、哀感に満ちた面持ちで息を吐く彼女の横顔を、私は今でも鮮明に憶えている。
以降、彼女とは城研究の会合と称して数日おきに会って親交を深めていった。研究のお題は毎回変え、別れ際に次のものを決めた。然るして私と彼女は傍目では恋人同然となったが、三か月ほど経っても彼女の住居は知らされず、待ち合わせ場所はいつもコトデン瓦町駅だった。高松でも南に位置する田舎に住んでいた私は移動に不便を感じていて、そのうちに車を買った。しかし待ち合わせ場所は変わらず、私が瓦町駅で彼女を乗せることから会合ははじまる。
それから数回の会った日のことだった。車での帰路で彼女は言った。
「今日は駅じゃなくていいわ」
そのあと彼女の案内通りに私は車を走らせて、あるアパートの下に着いた。
「ここが私が住んでる所よ」
私はそのアパートを観たが、それはお世辞にも新しくて綺麗とはいえないワンルームを詰め込んだ長方形の建物だった。私はかける言葉が浮かばず、「うん、わかった。覚えておくよ」とだけ言った。
彼女を見ると周囲をきょろきょろ見回していた。
「心配やけん、教えられんかった」
彼女はそう言い、沈鬱な面様で事情を話しだした。
彼女は若くして両親を亡くし、奨学金で通っていた大学在学中に生活費を稼ぐ為に夜は居酒屋で働いていた。そこで悪い男に目をつけられて付き纏われたのだ。
後にその行為が増長してからは警察が介入して直接的なものは収まった。だがその後もその悪漢は彼女が親しくする男性に致命をも危惧させる暴力を仄めかし、私以前の男性二人を畏怖させて追い払った。
それを聞いてふつふつと怒りが湧いてきた私は覚えず拳を握って、「許せない……」と言葉を漏らしていた。
でも彼女はそこまで言っておきながら、涼しい顔をして言った。
「心配しないで。今は用心してるだけ。実際わたし達は恋人ってわけでもないでしょ。もしそいつに会っても、お城研究会のサークル仲間だとか言って誤魔化してくれればいいわ」
「あ、ああ……そうだね」
恋人ではない――事実はそうだが、彼女にそれをはっきり言われて私は落胆もした。それはこの先もそうなる可能性がないと言われているようなものだ。
憤慨と落胆の両方をした私だったが、その家路で私は彼女がいう悪漢と思われる男の車に追跡をされてハザードとパッシングで煽られた。その車の運転者はまず間違いなくその男だろうと悟った私はおとなしく車を停めた。私はなぜか逃げたくなかったのだ。
その男は車から降りると、つかつかと歩いてきて窓外から私を詰問した。
おまえはどこのどいつだ。おまえは彼女といつ知り合った。なんで彼女を乗せているんだ。彼女とどんな関係だ。まさか手を出しちゃいないな。彼女は俺の女だ。わかってるのかと。
それは想定外のものであったが、情けないことに、その時の私は奴の醸出する威圧感に恐怖を感じて足がすくんでいた。過去に二人の男が彼女から離れたのも、ああこういう事かと悟った。
しかし最後に私は声を震わせながらも、彼女は私の恋人であり、愛し合っている、別れないと断言した。それは嘘であったが、その時の私は彼女を救いたいと思ったのだろう。
男は捨て台詞で「後悔するぞ、よく考えろ!」と言い眉根を寄せて唾を飛ばした。なおその件を私は彼女に隠した。
後に彼女と三回ほど会った時に事件は起きた。
私が夜に近くのスーパーで買い物をした帰り道、見知らぬ若い男二人に「おまえ、わかってるのか!」と言われて私は数回殴られた。私は必死に両腕で防御したが、そのうちの二発ほどが顔面に強く当たった。
街灯を眺めながら薄れゆく意識の中で、これは警告を無視した私への更なる脅しなのだと思うと同時に、自分の手は汚さぬ奴の卑劣さ、死の想像で私は戦慄を覚えた。言葉を失い、悚然としながらも這うように帰宅した私は酒をあおって今後のことを深慮した。
私の気掛かりはまず彼女の淡泊な態度にあった。
やっと彼女の住むアパートを知らされたとはいえ、彼女は私を恋人として今後選ぶことはないと示唆し、また私を心の深奥に寄せまいとする気色も窺えた。屈託ない笑みを固く見せず、お互いが恋情を意識する雰囲気は回避する。つまり彼女は一緒に行動する男女であっても愛情で繋がった人であるとは言い難い存在だった。
私は今彼女に好意を抱き、正式に交際する期待もあるが、彼女からは迂遠にそれを否定されている。それ故に自分は彼女を愛してもいいのか、また在る想いは本当の愛なのかが分からず、私は自分に問うた。
私は今、彼女を心底愛しているか。また、彼女が私を愛することがなくても、私は彼女の為に死んでも悔いはないかと。
一夜かけての思惟の至り、結論は私の頭になかったが、仰臥した寝床で天井を見上げて、今日も彼女に会いたいと思った。
その日の夕刻、約束の時間に彼女は私の車に乗ると表情を曇らせ、その顔はどうしたのかと聞いた。青あざを隠そうと大きな絆創膏を二つ貼っていたのでそれは想定内だった。
階段で転んでしまって、と私は言い、頭を掻いて苦笑いした。彼女は嘘だとすぐ見破って、大粒の涙を流して泣き始めた。
「もううちと関わらんで」
彼女が少し落ち着いてから発した最初の言葉がそれだった。頭を垂れ、頬の涙も拭わず、膝に置いた手を震わせる彼女を見て、私はそこで初めて彼女がもつ私への愛情の深さを知った。その想いが一瞬に私の心を満たした。
思索すると、彼女は私から深く愛されぬよう図っていたと確信した。交際で生じた突然の奇禍により、私が彼女から逃げても私の心に傷が残らないように。
通夜のような逢瀬でも、私は彼女の涙を見て精神の熱量が太陽ほど膨大になった。恐怖を考えで抑えて消すというより、熱でそれを焼き尽くした。
もし私が三人目の潰走した男になったら彼女の心情は如何なるものか。また彼女の今後の人生はどうなるか。私の脳裏にそれが映された時、選択の余地はなかった。
私は彼女を恋人であると奴に告げてしまったことを謝罪し、これから身命も賭してこの状況を打破する為に抗うと言明し、私の足がこの高松の地に根付いた時には結婚してくれ、あなたを愛していると告白した。それは正義感だけでは到底成せない心志の構築であって、私は既に彼女を心底愛していたのだとその時にわかった。
交際過程を遥かにすっ飛ばして求婚した私に彼女は黙って頷いて、私の胸元を涙で濡らした。
やがて顔を上げた彼女は、私が奴に反抗心を示した恋人である告知や、命を賭すとまで言ったことで不安になって私を諫めた。
「お願いやけん、相手にしたらいかんで。うちよりあんたを大事にせな」と彼女は最後にそう言った。
翌朝、私は被害届を高松南警察署に提出し、私を殴った男二人は街路カメラの映像からすぐ逮捕された。私は署に呼びだされて話を聞くと、容疑者の男二人が口を割らずとも、状況や人脈を手繰ると首謀者はおそらく奴だという。
老齢の刑事は奴を、冷静、狡猾、利己的な人間だと言い、また犯罪行為は手下に命じる為、裁きの木槌まで奴を送るのは至難の業だと言った。とにかく今後は気をつけて、と最後に注意を促されて私は警察署を出た。
以降、彼女は私と会うことを憂慮したが、私は首を縦に振らなかった。私と彼女が行動を制限される謂などないのだ。
それから幾日か経ち、私が職業安定所に行こうと家を出ると、派手な外車が私の車に並走してきた。横を見ると運転者は奴だった。
私と奴が側道に車を停めると、奴は降りてきて窓越しに「お話がしたい」と紳士を装い丁寧な口調で言った。私は快諾して近場の喫茶店を指定した。
奴との接触、彼女はそれを心配するが、私はそれを望んでいた。奴がそのまま引き下がる訳はなく、長引けば彼女の心の疲弊も懸念され、ならば早く接触して転機を作ろうと私は考えた。
店に入ると奴は注文の品も待たずに口を切った。「もう彼女と会うな」
警告に全く耳を貸さない私に奴は苛立っているのが見て取れた。
貴方に何の権利があるのかと私が質すと、彼女には自分が相応しいのだと奴は返してきた。自分には金も度量も権力もあると。
それを聞いて私は内心呆れてしまった。
話すうちに奴は本性を現し、今の彼女の意思は必要でないとまで言った。奴は古くの婚姻の慣習を挙げて持論を展開した。彼女は今怯えているだけで一緒になれば理解する。愛は幸せな環境が育んでいくものだと。
対し私は、それは所有欲だと突きつけた。
奴は平然と返す。受け容れる気持ちこそが愛であり、また愛と呼べど物質的充足を伴わなければ泡沫でしかない。過去の男二人が俺には財力で勝てないとみて逃げたのが証左だ。お前は今無職で彼女と付き合う資格もない。高級外車を買ってみろと言い及んだ。
それを聞き、一体何で得た金だと私は思いながら唇を噛んだ。「逃げた? 脅したからじゃないのか」と私が逆上を覚悟で正鵠を射ると、奴は流暢に言葉を繰り出した。
人聞きが悪いな。俺は脅してなどいない。助言だ。もし仮にそういう誤解があっても、それで愛する人を見棄てるようならそれは真の愛とはいえないと。
私は最後の言説には同意したが、議論そのものでは解決しそうもないと直感した。
もう話すことはないと私は言い捨て、千円札をテーブルに差し置いて私は出口へ向かった。数歩歩くと後ろから「大金じゃないか、奢ってやるのに」と揶揄する声がした。
私は返答をせずに店を出た。
次に彼女に会った時「ばか」と言われた。話にならない相手と対話しても無駄で危険なだけだという。私は異を唱えるべく、しかし黙して彼女に我が目の輝きを見せた。
ただ避けて逃げまわるのでは奴の姑息な攻撃が続くだけだろう。話が出来ない相手を振り切るには「力に非ず」と知らしめて得心させる必要があると私は考えていた。
人間は現在の軌道から重要な岐路に立たされた時の切換には強い動力を要求する。それは自己を説得できるだけの相当な理由であり、その転換装置の操作桿は本人にしかないのだ。
その後も私は拒むことなく奴と一対一で会ったが、そのうち彼女以外の話もするようになった。
ある時、奴は都会に興味を持っているのか、東京はどんな所だ? などと私に尋ねた。日本の首都である東京の情報は、全国どこでもテレビなどのメディアからいくらでも入る時代になったが、生の声を聞くことはそうはないのだ。
私は思ったことを言った――建築物がやたら高くて巨大で、それが群れをなし、人が驚くほどそこら中に溢れかえり、それでも人情を感じられる場所は少ない、だから私は生まれた場所でありながら好きじゃない、と。
情熱はあるのか、という奴の問いに私は、それはあるだろうと答えた。すると奴は、俺がいう情熱はなにを指しているかわかるか、とまた問う。わからないと私はすぐ返した。奴は微笑を浮かべて口を切った。
「金だ……大きな商圏には金が集まる。俺はまだまだ金を集めたい。それでもっと俺は大きくなる」
「うん、なるほど。いいんじゃないか」
私は他人事のように言った。
「おまえは金がほしくないのか」
「俺もそりゃ、ある程度はほしい。必要だから」
そのうちそんな会話が出来るほどに私と奴はなった。それも私と奴が同い年だと互いに判ったからだった。
「なんか……おまえは欲がないな」
奴は私の表情を観察した。
「いや、金はあるに越したことはないが、代償を払ってまで拘泥して集めようとは思わない」
「金を集めるにはなにかを失うってことか……」
「ああ、おまえも都会へ行けばわかるよ」
今は奴を『おまえ』と呼んでいる。最初は口論の中でそう言い合っていたが、それが当たり前になり、信頼や愛情ではないが、互いにひとりの人間として認めるなにかが湧いてきたのだ。でもそれがなにかはわからない。
「金がなければ見下されるぜ」
奴はそれが核心とばかりに言うが、私は平然としていた。
「俺は金が増えても人間が大きくなるとは考えてないから」
「なんともないというのか」
「ああ、自分より金のない者を見下す人間を、俺は人として尊敬できない。だから俺はそういう人間に見下されようが、意に介さないね」
奴は数秒固まったあと感嘆して言った。
「おまえは面白いやつだ!」
その後、奴は幼少期の話をしてくれた。
彼の家は極貧だったと俺は知り、当時の境遇も聞かされた。別にそれを不憫に思って同情や友情が芽生えることもなかったが、私は奴の持つ思想や行動原理を知った。それは決して褒められる事ではなかったが、奴が学歴中卒として苦慮しながらも、それを乗り越えてこの社会を生き抜き、今は大金を掴んでいる。その事実に私は奴の人間としての強さを感じた。
「お前、仕事決まったのか。なんなら雇ってやろうか」
「余計なお世話だ。だいたい何の仕事だ」
私は奴が偽ブランドを売りさばいて収入を得ている事実を知っているが、あえてそう訊いた。
「受けるなら教える」
「出来るか、そんなもん」
そんなやり取りの後、私は初めて無邪気に笑う奴の顔を見た。まるで少年のようだった。だが彼女の話に戻るとまた厳めしい奴の顔に戻った。
「今は彼女をおまえに貸しといてやる」
「いや、彼女はモノじゃない」
奴は鼻息を鳴らして話題を逸らした。
それから数週間ほど経った時だったが、私は高松の第二地銀に就職が決まっていた。それを奴に言うと、奴は儀礼上祝いの言葉を述べた。だがその話題や少しの雑談が終わるとまた彼女の話に戻った。いつものパターンだ。
「彼女は俺の為に諦めろ。解らないのか」
「就職は決まった。彼女と結婚の約束もしている。すまんがそれが答えだ」
私はもう頃合いだと思って王手をかけた。
奴がどう出るか分からなかったが、すぐ奴の精神が詰んでいくのが痛いほどにわかった。奴はすぐ目を閉じて暫く何も喋らず、次に目を開くと黙ってテーブルに多めの金を置いて店を出た。
天空の瓦解を案ずるほど黒雲が垂れ込めた初夏のある日。今思えばその日が突然訪れた決着の日だった。私が通うコンビニから出ると、和の装いで未来を遮るように大股に構えて立つ奴の姿があった。腰付近に構えた右手に三十センチほどの細長い物を包んだ手拭いを血管が浮き上がるほど強く握っていた。
状況から中身は刃物だと自明だった。
奴は私の傍まで来ると耳元で「最後通告だ」と低く重い声で息を吹きかけた。
私は瞬時に動悸に襲われて身体が固まった。だが奴の瞳を見た時に不安は消えた。
私はゆっくりと息を吐き、奴を見つめて言った。
「お前はそこまでやるような男じゃないだろ」
私は奴の精神の根幹にその念を伝えるべく自然体でその場に立った。
十秒ほど目を合わせただろうか、奴は驚くほど柔和な顔になった。
「俺を信用するとは……おまえは本当に馬鹿な男だ」
降り出した雨の中、奴は手拭いから扇子を取り出して傘とし、路地裏へ消えていった。それが奴に会った最後の日だった。
あれから数年が経ち、私と彼女は玉藻公園を再び訪れた。少し風が吹くたびに、散った桜の花びらが私の頭に乗っかった。
「あんた、そこが好きやね。でもいつかは落ちるわよ」
私は堀を覗き込んで笑った。「大丈夫さ」
彼女は「ねえ、あれ見て」と言い、私の横にしゃがんで背中の方を指さした。
私が振り向くと、我が息子が自分の倍の背丈ほどの小学生の上げた手に飛びついていた。その子が持っているのは数日前、私が息子に買ってあげた電車の玩具だった。
返して、返して、と遠くから聞こえていた声が、息子の声だと私は今頃わかった。
「助けてやれよ」と私が言うと、彼女は「どないするか見よ」と言う。
やがて息子は業を煮やして、その子に自分の足を掛けて押して転ばせ、怯んだ隙に玩具を取り返してこっちへ走った。
「おお、やるじゃないか」
私が小さく拍手をすると、彼女は「あかん」と言う。「なんで?」と聞く私に、「どっちからでも力づくはあかんよ。正しくは、彼の両親を見つけて戻してって言うか、冷静に本人を粘り強く説得するんよ」
彼女は腕組して言った。
「面倒くさいな」苦い顔で私は首を振る。
「あほいわんで。彼には生駒親正のように聡明な人になってもらわな」
妻である彼女から、馬鹿とか愚かだとか既に言われる愚直で迂闊な私だが、あの決着の日の仔細はとても彼女には言えない。
私のとった行動が最善だったかは疑問だが、私は奴が根っからのワルではないとどこかで信じていたのだ。
奴は要領よく悪事を働く男だが、彼女に暴力を振るうことも、そうするぞと言って脅しに使うこともしなかった。
奴の中に良心を探す私はやはり愚者なのだろう。
しかし桜花の下で息子を抱擁する彼女の笑顔を見ていると、そんなことはどうでもいいように私は思えた。
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