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好きな本からの書き抜き一覧

序 孤独のために本を読むのか、読書を重ねるにつれて孤独になるのか。恐らく、どちらもあるだろう。悲観して言うのではない。ただ、規則正しい日常の形成に努めている最中、ふと音もなく建物が崩れ、憂鬱、無気力、やるせなさに奪われた我が身を猫のように丸め、うずくまる。一つずつ組み立てた煉瓦も完成半ばで置き去りにされ、もう何度も経験した計画の頓挫を反復しながら、長い間、もしかすると一生涯、同じ砂漠を歩いてきたような気がする。死ぬまで同じ更地が続き、何処へ行っても何も見えないまま、落ち着き

    • 読書と日々 五

      「多少でも慣れた事例なら、今更深い印象を覚えることもなく、省略の技術を用いて語るだろう。しかし未だ拭い難い印象を覚えるエピソードには、丁度今日起きた出来事を親に報告する子供のように、つい無邪気に語ってしまう。得意げで、誇らしい満足さえ思わせる口調から、もしかすると普段はこういう経験をしないのかもしれない、と憶測する聞き手もいる。実際、他からすればどうでもいい内容を、さも面白いことが起きたかのように話すのは、ひとが不慣れなことほど好んで語りたがるからに他ならない」  正確な年月

      • 読書と日々 四

         胃を締め付ける空腹を覚える頃、時刻は零時三〇分を過ぎ、出勤してから四つ目の作業場となる一〇一号室を清掃していた。  喘ぐように息を漏らし、顎を斜めに持ちあげながら、ほとんどうわの空で着せ替えていたベッドの上に目線を向け、生温かく溶ける照明の黄ばんだ色彩を見つめる内に、へその辺りから、じわり、じわりと心地いい衰弱感が浮かびあがる。我を失うほど疲労は深まり、次第に強まる気だるさより、思考の対象を持たない喜び、悩むべき焦点からの解放がもたらされ、うっとりとしたやる気のなさを伴いつ

        • 読書と日々 三

           駅に着いて間もない頃、二二時二五分発の電車が現れた。  堅く滑らかな座席にどすんと座り込んで、どれを読もうかなとバッグを漁りながら、突如、おもむろに開いた一頁が、甘い痛みに震える共感を呼び起こした。荒々しく抱かれるような痛みと快楽に悶えながら、残された種は、やがて来たるべき思考の萌芽となるが、読書の醍醐味とも言えるこの瞬間を、本を読むひとは必ず経験する。  ── 今のように、これまでに幾度も、感じていることを感じて苦しんだ。ただ感じるだけで苦悩し、存在することに不安を覚え、

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        • 読書と日々
          5本

        記事

          読書と日々 二

           衰弱に伴う陶酔、というのはあるに違いない。  少しずつ自分を失えば、無駄な想いを馳せる余力も剥がれ落ち、我を忘れる疲労にうっとりしながら、じわり、じわりと満たされた感覚が、身体の内奥から染みわたる。心持ち斜め上に傾く顎に伴い、視線は天井を見つめ、装飾によって遮られたオレンジの照明は、星のように拡散し、汗ばみ湿った部屋へ物憂げに溶けていた。風通りが悪いのか、換気扇が壊れているのか、肉体の交わりが数多に繰り返されたせいで、体液のにおいがこもり、壁にしみついたのかわからないが、ラ

          読書と日々 二

          読書と日々 一

           まだ疲れていない、むしろ脚が軽いくらいだと思いながら駅までの道をたどり、間もなく薄明の底から唸り声をたてて現れた電車に乗り込んだが、柔らかくも反発性の強い座席に腰かけた瞬間、どろりと垂れる気だるさが圧し掛かり、椅子の直角に吸い込まれるよう、腰から尻辺りの感覚が物と一体化し、何の動作も起こす気が起きず、ただ茫然と窓の外を眺めていた。夜明けを告げる曙光は曇り遮られ、震える窓の向こうに広がる灰色は、何処となく昼下がりの終わりを思わせる明るさで、五時一三分の車内に似つかわしくない。

          読書と日々 一

          『ブッデンブローク家の人びと』 概要と見取り図

          序 たった一語を置き違えるだけで、文全体の雰囲気が異なり、言い尽くせていない気がする。推敲を重ね、書けたと思えば、細部への執着が視線を逸らし、誤字脱字を見落としている、脈絡が矛盾している。書くという行為はひとを神経質にさせる。作家とは言葉に苛立つ者である。  他言語に移し替える以上、翻訳家は原作者と同じかそれ以上に神経をこわばらせる必要がある。ニュアンスを大事にすれば、原文にない表現を付け加えて、言葉の硬質な美しさを汚してしまう。文字通りに訳せば、細やかなニュアンスを汲み取

          『ブッデンブローク家の人びと』 概要と見取り図

          ラブホ日記 23/09/25

           共感するというより感情が芽生える、作品に奪われる喜びのために音楽を聴く、そんなこともあるだろう。  明言し難かった心情を作品の内に見出し、共振し、のぼせる内に、元来の自己同一性を疑い、今日までの人生は嘘偽りだった、無理をしていた、これこそ本当のわたしだと、楽曲に似たキャラクターの演技に没頭する。次第に演じる前の記憶が朧げとなり、仮面を外せど、かつての自分の立ち振る舞いを取り戻せない。  クロイツェル・ソナタに唆されたポズヌイシェフに働いていた心理も、これに近かったかもしれな

          ラブホ日記 23/09/25

          退屈な青春

           二〇一五年二月一四日の授業は午前中で終わり、正午頃の教室では、帰る支度をしたクラスメイト達が、鞄を肩にかけ、机にもたれたりしながら、各々の雑談に興じていた。着席したまま、ぼんやりと正面に掛かった時計を眺め、購買のチョコパンを頬張る自分は、帰宅後の予定について考えていた。  ふと、視界の隅に見覚えのあるふたりが映り、目線を向けると、扉の前でやいのやいのとじゃれ合っていた。  一人は小学校時代からの知り合いだが、特別仲がいいわけではなく、すれ違えば言葉を交わす程度であるものの、

          退屈な青春

          読書について

          ── わたしは読書ほどのよろこびを知らないが、ほとんど本を読まない。書物は夢への導入である、しかしごく自然と日常より夢と交われる人間には必要ない。わたしは心の底から夢中になって本を読めた試しがない。 知性や想像力が絶えずコメントして、物語の筋を折ってしまう。いつの間にか本を書いているのは自分になり、しかもその書物は何処にも存在しない。  面白いと思う数行に触発されて、はたと頁をめくる手が止まる。書物の両端を掴んだまま、向き合う姿勢は崩さず、硬直を保ち、視線がほんの少し上に逸れ

          読書について

          憂鬱について

           無数の雨垂れが打つ窓の底より、チェロの音色が浮かび上がった。ほの暗い部屋のなか、濡れた硝子を眺め、物憂く湿ったソファに溶けていく我が身を覚えながら、静かな安堵と、悲しみにも似た喜びを吐息に漏らし、耳を撫でる旋律に傾いた。灰色を下敷きにした薄いコントラストが降りて、カーテンを離れるにつれて、白い天井は陰りを帯びていく。  曇天の底が白けていく夜勤帰り、しとりと濡らす水滴に顔を向けながら、日付も思い出せない少年時代の朝が浮かんだ。微睡んだソファに身を預け、頬をクッションに埋めな

          憂鬱について

          日記23/06/17

          「芸術作品は無限に孤独なものであり、批評程これに達するに不可能なものはなく、ただ愛のみが引き留め、公平に接することができる」というリルケの言葉は、ベルクソン的な意味で捉えなければならない。追憶する際、動きのない過去に身を置き、やがて記憶は現在の要求に合わせて形を変える。作品を愛するとは、それに内在する世界に身を置くことであり、潜水するに等しい行為だ。大気に顔を出した人間が、肩で息しながら海中で見た景色を語る。感動はひとを疲れさせる。傑作と呼ばれるものは、いかなる形式であれ我々

          日記23/06/17

           彼女が六歳の頃の記憶になる。  呻く度、粘っこい運動が湿った身体の細部に伝った。両腕を伸ばし、枕に沈み、寝台に埋もれ、存在が徐々に後退していく。二つの赤い風船が浮かんだ。遠くから声が聞こえる。しかし、大きな壁に遮断されているよう、輪郭を掴むことが出来ない。やがて映像が流れた。水平線に浮かぶ一艘の船が、煙を上げながら少しずつ掠れていき、途切れた。  目を開いた。靄のかかった視界の奥から、ぼんやりと浮かぶ子供の顔が、不安そうに彼女に呼び掛けていた。 「何があったの」  長く伸び

          『カントの批判哲学』を通してドゥルーズにおける時間/自然について考える

           ドゥルーズはカントが『純粋理性批判』の内で発見したものを「時間の蝶番が外れている」というハムレットの台詞に紐付けて考える。「時間はもはや時間が測定する運動に関係付けられはしない。そうではなく、運動が時間に従属し、時間の方が運動を条件付ける」。これは「第一の偉大なカント的逆転」であり、「哲学において、ひとつの転回が、ギリシア哲学者たちからカントへと至る数世紀にわたって起きた」という。  八十年代以降に書かれたこれらの文章に対して、六三年に出版された『カントの批判哲学』では、『

          『カントの批判哲学』を通してドゥルーズにおける時間/自然について考える

          鼠になった男

           奇妙な事件がS市を騒がせていた。鼠の死骸が、街に住む者の家前に置かれるようになったのである。断続的に、けれども着実に、被害者の数は増えていたが、不思議なことに、彼らの共通点は同じS市に住む以外に何もなかった。犯行に使われるのは、決まっていつも白いハツカネズミである。ふっくらとした腹が裂かれ、絹のような毛並みは傷口から溢れた血で朱殷に染まっていた。事件後、家の表札も同じ黒みがかった赤で汚れていた。刃物で切った鼠の身体をそのままこすり付けたのだと思われる。表札がない場合、腹を裂

          鼠になった男

          ニーチェへの愛

           おもえば、自分の人生はいつもニーチェと共にあった。高校生の頃に読んだ『この人を見よ』の影響で、どれほどの本や音楽に触れるきっかけを得たかわからない。パスカルやスタンダール、モーパッサンなど、フランスの古典的な作家に関心を抱いた理由は、ニーチェにあった。彼が褒めていたから自分も読もうと思った。シェイクスピアやドストエフスキーにしても同じである。ニーチェが讃えていた、あるいは彼とゆかりのある音楽を知ろうとして、ワーグナーやリスト、ビゼー、ロッシーニ、シューマンなどの作曲家をはじ

          ニーチェへの愛