憂鬱について

 無数の雨垂れが打つ窓の底より、チェロの音色が浮かび上がった。ほの暗い部屋のなか、濡れた硝子を眺め、物憂く湿ったソファに溶けていく我が身を覚えながら、静かな安堵と、悲しみにも似た喜びを吐息に漏らし、耳を撫でる旋律に傾いた。灰色を下敷きにした薄いコントラストが降りて、カーテンを離れるにつれて、白い天井は陰りを帯びていく。
 曇天の底が白けていく夜勤帰り、しとりと濡らす水滴に顔を向けながら、日付も思い出せない少年時代の朝が浮かんだ。微睡んだソファに身を預け、頬をクッションに埋めながら、弓から引き出された弦楽の啜り泣きがよぎる。寂しげな並木道を歩く散策者が、霧の内に沈んでいく。辺りを見渡し、何処へ消えたかと探すうちに、歩みは古く細長い建物の前で止まるが、目を上げたかと思われた途端にそれは崩れ、瓦礫が頭の上に落ちてくるかと思うと、景色は元に戻っている。
 ぼんやりと憂鬱に酔う思春期は終わったものの、時折空間を開いたかのように、ぬっと死の誘惑が顔を出す。静かな雨に滴りながら、このまま消えてしまいたいなあ、と痛々しく若者らしい言葉を漏らすが、歩く横から大型自動車が突っ込めば、ああ死ぬのは恐ろしい、苦しみたくない、と誰に対するでもなく命乞いを始める。過去を思い出さずに生きる日はないが、未来を空想せずに過ごすこともなく、日常が不意に中断される可能性を知りながらも、それが実現するとは毛頭信じない。ただ存在することへの習慣が、生きる理由となっている。大体、死にたがる人間は身勝手である。精神病を自認する者の多くが常人より大胆な行動力を有していることは、死に魅せられたロマン派の世代よりよく知られている。常人の方が余程臆病で、病んでいる。
 甘く気怠げな憂いに瞑りながら、能動的に悲しむことには復活への意図が含まれている、とふらつく足取りに漂う。両手で顔を覆い、面から普段の表情が抜け落ちる時に覚える、虚無に似た安心のように、間接的に死を経験することで、雑多な感情の穢れを浄めたいのかもしれない。あるいは、悲しみがひとを復活させるならば、穴を掘り続けて地球の反対側に顔を出す滑稽な漫画のように、推し進めた末に反転が起きて、全く異なる生活を営む者が出現してもおかしくないはずだ。
 黄昏のような照明が舞台を照らし、複数の若い男女で編成されたバンドが、快活な汗を流しながら内気な青春の思い出を歌う様子を、大勢の客が酔ったような目つきで見守る最中、覚えた違和感が思い出される。青春の恋愛とその傷痕、過ぎていく夏の日々、金色に染まる夕暮れの坂。感傷的な気分にさせる一切の内省は、知的なようで主観を濁らせ、不都合な部分を布で隠し、自尊心を傷つけない程度の不幸に身を貶める悦楽を与える。実際には何らかの加害行為に加わっていたのに、記憶はぼかされて、好都合な登場人物だけ選び抜き、丁度いい痛みに胸を締め付ける、自慰行為と大差ない。わたしあなたのことが好きなの、と酔ったような眼差しで言われれば、信じ難いと感じるのは当然であり、おれは君のことが好きだ、と我が身を揺さぶる情動に興奮すれば、今日までに自分が苦しめた人間との記憶をなかったことにしている、と非難されても仕方ない。内気な自分に誇りを覚えるが、クラスメイトが不都合な立場で苦しんでいる様子に目をそらし、間接的であれいじめに加担した過去は暗闇に押し込められ、被害者意識だけ肥大化し、悲しみの与える特別な印象に股間を熱くする。
 夜勤帰りの道中、十年以上前の自分との同一性に戸惑いながら、どうしておれはこのような人間になってしまったのだろう、と灰色の朝に身を濡らしていた。チェロの奏でる物憂さに惹かれる以外、共通点らしいものがあまりないことは、記憶の数多が証明している。十年来魅せ続けた憂鬱な音色がそうさせたのか。あるいは、はじめからこういう人間であって、子供の頃はそれに気づかなかっただけか……。直ちに、今の状態で答えの出ない問いに悩むことは、自己憐憫以上の感傷を生まないと気づいた。朝雨の柔らかさに再び面をあげ、そういえばあの日はもっと地を打つ音が強く聞こえたなと思い返す。そこから紐を手繰り寄せ、記憶の一つひとつを手にとって確認しようと思ったが、振りかぶっても掴めない雨粒のよう、少年時代はただ漠然と浮かび、理解を逃れて立ちこめた霧の奥へと溶けて消えた。
 重苦しい弦楽の旋律が、記憶の暗闇に浮かんでいた。


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