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ニーチェへの愛

 おもえば、自分の人生はいつもニーチェと共にあった。高校生の頃に読んだ『この人を見よ』の影響で、どれほどの本や音楽に触れるきっかけを得たかわからない。パスカルやスタンダール、モーパッサンなど、フランスの古典的な作家に関心を抱いた理由は、ニーチェにあった。彼が褒めていたから自分も読もうと思った。シェイクスピアやドストエフスキーにしても同じである。ニーチェが讃えていた、あるいは彼とゆかりのある音楽を知ろうとして、ワーグナーやリスト、ビゼー、ロッシーニ、シューマンなどの作曲家をはじめて聴いた。ドゥルーズの本を手に取ったのもニーチェがきっかけだった。古本屋で二つのニーチェ論を手にし、開いた時、人生は以前にはない水彩のごとき鮮やかさに染まった。ニーチェとの出会いは人生を変えた。自分にとって、ニーチェは美しい始まりだった。
 先日、久しぶりに彼の本を開いた。『偶像の黄昏』である。その時、ある不思議な印象を抱いた。頁を巡る手は止まらず、「背中に風を感じ、魔女の箒を跨ぐよう」であった。同時に、彼の多くの著作に共通する、ある独特な設計のされ方にも気づいた。ニーチェは自らの著作を舞台化するのだ。彼の独白によって一切が進行するが、それは決してひとり芝居ではない。論じる内容、概念が、まるで役者のような躍動感を伴って動き出す。実際、ニーチェの内には様々なキャラクターが潜んでいる。鷲、蛇、猿、魔術師、乞食、そして「最も醜い人間」までもが……。時折みずからを道化として扱うことはあれど、ニーチェは俳優というよりもむしろ劇場そのものである。
 けれども、彼が演じる者であるということはたしかに事実かもしれない。ニーチェは文体と身振りを同一視していた。彼にとって最も美しい文体は、声に出されて読まれることを意識されたものであった(よって彼は、ドイツ語で書かれた最も美しい本はルター訳の聖書であると考える。説教台の上で語る牧師は美しい発声法を心得ているからだ)。文体という舞台装置を駆使することで、彼は著作をひとつの演劇にかえる。そして、あらゆる概念、あらゆるキャラクターが、躍動感溢れる身振り、台詞を伴って、その舞台を盛り上げるのだ。彼の読者は、観劇しているという気がするだけではない。むしろニーチェの著作を通して、自分が一つ舞台に、同じ劇場に立っているのだという気がしてくる。彼は一切を自らの舞台の上に巻き込むのである。
 ニーチェはルサンチマンの両義性を指摘する。否定が勝利した、ルサンチマンの支配下における世界では、生に対する価値観の転倒が起こる。そこでは肯定ではなく否定が蔓延する。けれども、ルサンチマンがなければ人類の歴史は「これ程までに深いものにならなかった」。ニーチェはユダヤ教の発生源にユダヤ人による深い憎悪を見てとるが、しかし彼らの憎悪がなければ、「人間のすべての歴史は極めて面白みのないものになったに違いない」という。

……[ユダヤ教の]司牧者は無力であるだけに、彼らの憎悪は法外なもの、不気味なものにまで強まり、きわめて精神的なもの、有毒なものにまで成長する。世界史における最大の憎悪者はつねに司牧者たちだった。もっとも長けた憎悪者も司教者たちだった。司牧者の復讐の精神を前にすると、他のあらゆる精神はきわめて小さなものにすぎない。無力から生まれた精神が存在しなければ、人間のすべての歴史はきわめて面白みのないものになったに違いない。

『道徳の系譜学』光文社新訳文庫 p.49

 ニーチェは「自分が嫌い、不快感を抱いているものに特別な魅惑を感じてしまう」傾向にある。世から迫害され、隷属する身分として虐げられたユダヤ民族は、自分たちを苛むものどもに反発して、生の価値観を逆転させる。現行の道徳は、まさに生に傷つけられたもの、それを否定したいものを守るようにして形成された。ニーチェは語る、「強者は弱者から守られなければならない」と。キリスト教における「無償の愛」の観念は、古代ユダヤ人の憎悪を抜きにしては発生しえなかった。現世的なもの、地上の醜さ、その暴力性に傷ついた者こそ、十字架の上で血を流し人類の罪を贖おうとする宗教的な愛情に惹かれてしまう。無償の愛への理想は、まさに現実への憎悪がなければ発生し得ないのだ。

復讐と憎悪、ユダヤ人的な憎悪の〈原木〉── もっとも深く、もっとも崇高な理想を作りだし、価値を転換する憎悪、地上に比べるもののないような憎悪──から同じく比べようのないものが生まれてきたのだ。それは一つの新しい愛であり、すべての種類の内でもっとも深く、もっとも崇高な愛である。

同上 p.52

 現行の世界の道徳は、ルサンチマン抜きに、生を否定する価値観なしには考えられない。それは「神が死んだ」としても決して変わらない。「確かに神の死は騒々しい大事件であるが、それは決して充分ではない。なぜならニヒリズムは持続し、ほとんど形を変えないからである。」神は死んでも道徳は残る。キリスト教の価値観は今やキリスト教それ自体よりも人気である。理想へ逃れるプラトン哲学や、生への憎悪に燃えた古代ユダヤの司牧者、その二つの血を引いたキリスト教の面影が、「美徳」とされるものの内には多く含まれている。
 ニーチェが求めるのは、そのような否定的な諸力の支配を超克した存在、ルサンチマンなき者の姿、すなわち超人である。けれども、ルサンチマンを排除しようとすればそれが生まれるわけではない。もしルサンチマンがなければ、人類の歴史はこれほど深いものに、「面白み」のあるものにはならなかっただろう。旧約聖書の目を見張るようなおぞましい物語や、シェイクスピアの悲劇に登場するリチャード三世やイアーゴのごとき悪人は、ルサンチマンの用語抜きに考えることはできない。嫉妬、憎悪、不安がなければ、我々は人類の深淵を覗くこともないだろう。そして同情という、この世で最も奇妙な愛の形さえも、やはりそれら抜きでは考えられない。ニーチェは古代ギリシアとローマ、そしてルネサンスを賛美する。だからと言って、彼は人類がキリスト教以前の世界に戻ることを求めはしない。ニヒリズムの超克は、彼の哲学において一つの主題であった。しかし、彼は知っていた。それは同じニヒリズムを徹底することによってしか克服されえないことを。よって、ニヒリズムを徹底する者、「滅びを欲する人間」こそが、それを実現することだろう。

……ニーチェにとって、先に分析したニヒリズムのあらゆる形態は、極端なあるいは受動的な形態でさえ、未完成の、 不完全なニヒリズムを構成しているということがわかる。つまり逆に言うと、ニヒリズムを克服する価値変質はニヒリズムそのものの完全に完成した唯一の形態であるということではないか。実際、ニヒリズムは克服されるが、しかしそれは自己自身によって克服されるのだ。

『ニーチェと哲学』河出文庫 p.333

 ニーチェの著作において、「神の死」の主題はいくつかの変奏を経る。その一つとして、「最も醜い人間」による神の殺害が挙げれれるだろう。彼が神を殺した理由は、それが「一切を見る目」でこちらを眺めたからだ。「彼は少しも羞恥を知らなかった。彼は私の最も汚らしい隅々までもぐりこんだ。この好奇心の強い者、あまりにも厚かましい者、あまりにも同情深い者は死なねならなかった。」虚栄心の強い者が何よりも恐れているのは同情ある。醜い己の姿を見られることは屈辱だが、それより苛立たしいのは、憐れみ深い態度で、こちらの劣等感に馴れ馴れしく触れようとしてくることだ。それは自分が弱いこと、他より劣っていることを思い出させ、いっそう惨めな気持ちにさせる。「最も醜い人間」が神に復讐することを願った理由はここにある。「さもなければ、こちらが生きた気がしなかった。」
『ツァラトゥストラ』の第四部においては、「高人(ましな人間)」のひとりとして、「最も醜い人間」はツァラトゥストラや他の者たちと共に終宵の饗宴を過ごす。この場面が大変美しい。一度も居合わせたことがないのに、同じ洞窟で夜を過ごしたかのように、深くあの場面の映像が胸に刻み込まれている。思い出すと、ほんのり湿ったぬくもりが胸に呼び起こされる。

……たちまち、あたりは静かな、秘やかな気配になった。そして深い谷間から鐘の響きがゆっくりと昇ってきた。ツァラトストラは耳を澄ました。 「ましな人間」たちもこれに倣った。それから、彼はまた指を口にあてると、再び言った。「ついてなさい!ついて来なさい!真夜中は近づいた!」と。──彼の声音は変わっていた。 しかし相変わらずその場を動くことはなかった。あたりの気配はいっそう静かに、秘やかになった。すべてのものが耳を澄ました。驢馬さえも耳を澄ました。 ツァラトゥストラの象徴の動物たち、鷲も蛇も耳を澄まし、 またそれに劣らずファラトゥストラの洞穴も、大きな冷ややかな月も、夜そのものまでも耳を澄ました。 ツァラトゥストラは三度手を口にあてて言った。
「ついて来なさい!来なさい!来なさい!今は出かけよう!時は来た。夜の中へ出かけよう!」

『ツァラトゥストラはこう言った』岩波文庫 下巻 p.317

 ニーチェについて話そうとすると、自分自身についてを語ることになる。それはニーチェという作家の特性である。ドゥルーズもまた、その点について指摘したことがある。

私を窮地から救ってくれたのはずっと後になってから出会ったニーチェだった。ニーチェを他の哲学者と同列に扱うのは不可能だ。他人の背中に子供をこしらえることに、まさにニーチェの面目があるわけだからね。ニーチェを読んでいると、よこしまなことがしたくなってくる(これはマルクスにもフロイトにもできなかったことだ。この点で二人ともニーチェに遠く及ばない)。そのよこしまな気持ちというのは、ひとりひとりの人間がみずからの名においてごく単純なことを述べ、情動や強度、体験や実験によって語りたくなるということだ。

『記号と事件』河出文庫 p.18


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