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『カントの批判哲学』を通してドゥルーズにおける時間/自然について考える

 ドゥルーズはカントが『純粋理性批判』の内で発見したものを「時間の蝶番が外れている」というハムレットの台詞に紐付けて考える。「時間はもはや時間が測定する運動に関係付けられはしない。そうではなく、運動が時間に従属し、時間の方が運動を条件付ける」。これは「第一の偉大なカント的逆転」であり、「哲学において、ひとつの転回が、ギリシア哲学者たちからカントへと至る数世紀にわたって起きた」という。
 八十年代以降に書かれたこれらの文章に対して、六三年に出版された『カントの批判哲学』では、『純粋理性批判』の主な発見とされるコペルニクス的転回に「主体と客体の調和という理念(合目的的な一致)に代えて、客体の主体への必然的従属」という説明を加える。何かを認識する際、我々は一つの表象だけでなく、「それとは別の表象を、それに結びつけられたものとして再認する」必要がある。よって認識とは「諸表象の総合」である。そのため「対象それ自身が表象の総合に従属せねばならず、対象それ自身が我々の認識能力に準拠しなければならない」。
 ドゥルーズがカント哲学における時間を重要視した理由は、コペルニクス的転回をベルクソン的な持続を考慮して解釈すると理解しやすいかもしれない (時間の流れ = 表象の総合の中で対象を認識するため、必然的に客体は主体に従属する)。一方で「時間の蝶番が外れている」(「時間が逆上する」と言い換える訳者もいる)という台詞に否定的な印象が含まれている点も間違いない。『批評と臨床』に収められた短いカント論が書かれたのは一九八六年のことだが、近い時期に書いた『時間イメージ』の中でも、カントにおける〈時間〉の発見を指摘しており、どちらもやはり同様の印象を読者に与える。「身体すらも、もはや厳密には動くもの ── 運動の主体であり行動の道具 ── ではなく、むしろ、時間を〈啓示するもの〉 (révéliateur) となるのであり、その疲労と待機によって時間を証言するものとなる」「主体という狂気は、蝶番のはずれた時間に対応しているのだ。それはまるで、時間における〈私〉と〈自我〉との二重の背き合いであり、時間こそが両者を関係づけ、縫い合わせている」。これらの文章を眺めると、時間による〈私〉の転倒とでも表現したくなるような現象についての記述が試みられているように思える。これは『カントの批判哲学』第三章で展開される「否定的な仕方」によって理性と構想力が一致する議論を踏まえてのことかもしれない。
 ドゥルーズは『ディアローグ』の英語版序文で自らを「経験論者である」と称していたが、『カントの批判哲学』の冒頭では、カントが経験論と独断的合理論に対して「二重の闘い」を挑んでいると指摘する。彼が前者とカントの比較により多くの言葉を費やしているのは明白で、『カントの批判哲学』にて経験論の名で語られるものの多くは、恐らくヒュームを念頭に置かれ書かれている。周知の通り、ドゥルーズの処女作『経験論と主体性』はヒューム哲学によってカントのそれを転覆しようと試みた書であり、『カントの批判哲学』の第三章では、カントの言う「共通感覚」あるいは「諸能力の一致」が経験的に発生する過程について言及される。
「これが美しい」と言うものに出会った時、我々はそこに「ある種の客観性、ある種の普遍性を当然のものとして要求している」が、「その必然性と普遍性は主観的」であり、「伝達可能で、万人に妥当なものであると仮定し、誰もがそれを感じるはずだと推測」された美への快は、しかしそう仮定すること自体「悟性が何らかの仕方で介入しなかったら不可能であった」。が、「一定の概念(幾何学図形、生物学上の種、合理的な観念)が介入する度ごとに、美は自由であることをやめ、同時に美的判断も純粋であることを止める」ため、構想力は「悟性の無規定な概念に関係」し、それは「概念なしで図式化する」と言い換えが可能である。悟性概念の拘束から「自由なものとしての構想力と、無規定なものとしての悟性の一致」が生じる。この「主観的調和」あるいは「諸能力間の、それ自身で自由で無規定な一致」が「美的共通感覚」として、「他の二つの共通感覚を補うのではなく、むしろ基礎づける、あるいは可能にする」のである。『純粋理性批判』以来カントが突き当たったとされる「諸能力間の関係の起源にまつわる問いを解決することができない」という「恐るべき難問」がここから崩れ始める。
 上記の議論に留まっている限り「理性はいかなる役割を果たさぬようにも思われる」が、後に続く〈崇高〉への考察が疑問を解消する。「これは美しい」は快の高次形態だが、〈崇高〉では不快の高次形態が問題となる (『カントの批判哲学』第二章で道徳法則への尊敬の感情が「快よりも不快に近い」と記述されたことが想起される)。『カントの美学における発生の観念』という短い論文では以下のように言及される。「理性と構想力は、緊張、矛盾、苦痛をともなう分裂の真っ只中でしか一致しない。一致が、しかし不協和の一致 [accord discordant] が、 つまり苦痛のなかでの調和が存在するのだ。そして、こうした苦痛だけが快を可能にするのである。カントは、構想力が暴力を受け、その自由を失うことさえあるという点を強調している」「構想力が理性の暴力のもとでその自由を失うように思われるときでさえ、構想力は、悟性のすべての拘束から解放されて、理性との一致のなかに入っていき、悟性が構想力に隠していたもの、つまりその超越論的起源でもある超感性的使命をあらわにするのである。自己自身の〈受動〉において構想力は、そのすべての活動の起源と使命をあらわにするのだ」。ドゥルーズはカントの美的共通感覚が「想定され、前提されることしかできないように思われる」が、この「諸能力の無規定的で自由な一致」がなければ「他のすべての一致の基底、条件」がなくなることを指摘している。よって、「これは美しい」という感覚の発生源、悟性と構想力の自由で無規定な一致が「何処から来るのかという問い」を発さなければならない。そして、それこそが〈崇高〉による構想力と理性の一致、「不一致の中で生み出される」一致である。『カントの批判哲学』第三章では「崇高の感情に対応する共通感覚は、その発生の運動としての「文化」から切り離せない」とされ、「崇高の感覚は、それがより高い合目的性を準備し、我々自身に道徳法則の到来へと備えさせるという仕方で、我々の中に生み出される」と書かれていた。これは「〈理性〉の諸目的は、〈文化〉の体系という形をとる」という当書の冒頭を彷彿させる。理性が用意する理念が経験的に発生するとも捉えられる文章だ。
 一体何が起きたのか。ドゥルーズはカント哲学をそれ自身によって転倒しようと努めているのか。「偉大な作家達ならめったに思想を改めることのない」老境に至りながら、カントは「一つの問題にぶつかり、その問題が彼をある途方も無い企てに引きずり込む」。その際、「カントの壮年期の書物のなかでは、あれほど注意深く固定されていた限界」が乗り越えられる。これがドゥルーズの解釈であり、彼は『判断力批判』を「後継者たちが追い続けてやまぬ解き放たれて猛り狂った作品」として讃える。
『カントの批判哲学』第三章の後半から徐々に現れた合目的性の問題が、結論部分において明確化される。『経験論と主体性』の結論部分もまた「合目的性」という名前通りの内容を記述している。「人間的自然 [人間本性] 」と「自然そのもの」の合致について説明されたヒューム論に対して、『カントの批判哲学』の冒頭ではそれに対する否定ともとれる記述がなされているが (仮に自然が理性的な存在の中で自らの諸目的の実現を望んだとしても、自然が理性を頼りにしている時点で「自然は誤りを犯している」こととなる、自然は「それを本能に任せた方がよかった」はずだ、という「帰謬法による論証」を参照)、結論部分では「理性の諸目的」という題名のもと「感性的自然」が「超感性的自然」に合致すると書かれている。かつて財津理はドゥルーズにおける〈自然〉そのものは何であるのか疑問を付したことがある。『経験論と主体性』の結論は、経験の所与が「依存しながら我々が認識していないもろもろの隠れた力」について言及しており、それと自然の合致については「思考されたもの以外ではありえない」。これを「思考が自然と合致する隠された力能を明らかにする」と言い換えることが可能ならば、「人間はただそのひとが為しうることからずれてしまっているだけ」であり、「倫理の問いは問うこと以外の何ものも対象としない」という『基礎づけるとは何か』に残されたスピノザにまつわる素朴な表現を想起せざるを得ない。
〈自然〉の問題は、ドゥルーズの読者の間で度々議論の的になる。一九八〇年一○月二一日、彼の鋭い読者であったアルノー・ヴィラニがその点を指摘した際、ドゥルーズは自身の作品の中で自然が大きな役割を果たしていることを認める一方、それについて未だ上手く説明できないことも明らかにしている。「私は〈自然〉のある種の観念の周囲をめぐっているように思います。しかしこの観念を直接考察するにはまだ至っていません」。
 では、彼は存命の間に自らにおける〈自然〉の問題を解決することができたのか。確かなのは、ドゥルーズが〈自然〉をテーマにした本を書くことなく飛び降りたということだ。


※参照
『カントの批判哲学』ちくま学芸文庫 p.10-12、16-18、34-36、51-53、81、100-107、141-152
『批評と臨床』河出文庫 p.64-67、70、77
『狂人と二つの体制 1983-1995』河出書房新社 p.163、239、241
『無人島 1953-1968』河出書房新社 p.125、127-129
『哲学とは何か』河出文庫 p.8
『経験論と主体性』河出書房新社 p.213-214、256
『基礎づけるとは何か』ちくま学芸文庫 p.60-61
『書簡とその他テクスト』河出書房新社 p.111


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