読書と日々 五

「多少でも慣れた事例なら、今更深い印象を覚えることもなく、省略の技術を用いて語るだろう。しかし未だ拭い難い印象を覚えるエピソードには、丁度今日起きた出来事を親に報告する子供のように、つい無邪気に語ってしまう。得意げで、誇らしい満足さえ思わせる口調から、もしかすると普段はこういう経験をしないのかもしれない、と憶測する聞き手もいる。実際、他からすればどうでもいい内容を、さも面白いことが起きたかのように話すのは、ひとが不慣れなことほど好んで語りたがるからに他ならない」
 正確な年月は覚えていないが、『エセー』第一巻第一七章を、長らく感銘を受けた箇所として記憶し、以上のように要約し、話したことがある。が、いざ該当する章を開くと、モンテーニュはただ「各人は自分の職業よりも他人の職業を論ずるのを好む場合が実に多い」と書いた上で、名医としての評判を捨ててへぼ詩人になり下がったぺリアンドロス、同じく詩のことは何もわからないにもかかわらず詩人として名声を残そうとした武勇大ディオニュシオス、歴史的な名将にもかかわらず、勇気や戦略については簡潔に語り、その他を長々と話して「優れた技術者として専門外の素質を持っていることを見てもらいたがった」カエサルを例に出しただけであり、思わず、『不安の書』の一頁を思い出した。── 私は読書ほどのよろこびを知らないが、ほとんど本を読まない。書物は夢への導入であるが、ごく自然と日常より夢と交われる人間には必要ない。心の底から夢中になって本を読めた試しがない。知性や想像力が絶えずコメントして、物語の筋を折ってしまう。いつの間にか本を書いているのは自分になり、しかもその書物は何処にも存在しない。
 頁をめくりながら、何処にも存在しない書物を空想する。目の前に存在しないだけで、もしかすると何処かにあるのかもしれない。ただ読んだ内容から書かれていないことまで空想し、印刷された文章へ解釈の情熱を注いだ結果、記憶に残るのは文章それ自体よりも、書物が想起させた様々な観念の連なりであり、思い入れが深まるほど、実際には書かれていない言葉までも読み取るようになる。解釈が肥大化し続ければ、やがてひとつの実在する書物が、ある空想者の手から生み出されるかもしれない。読書家とはそういうものだ。
 ピピピ、ピピピ、と鳴る音がヘッドホン越しに聞こえた。
 食事はまだ半分以上残っており、『エセー』も四頁程度しか読めていないが、続きは次の休憩時間に持ち越すより他ない。タイマーを止め、ヘッドホンと首にかけていた黄色いプラスチック製の鎖を外しながら、背筋を伸ばし、瞳を閉じると、燃え上がる想念の残像が、わずかな光を伴いながら暗がりにぼんやり浮かんでいた。
 午前二時を回り、モニターに映る三〇三の文字は、青色に点滅しながら清掃員を待ち受けていた。一〇二号室が九〇分利用で借りられており、客の来店は一時頃であるため、三〇三号室を清掃している間に会計を済ませてくれるだろう、とフロントは教えてくれたが、空室に余裕があり、すぐに仕事を片付けても時間を持て余す可能性があるので、そのまま立ち話を続けたものの、とりわけ盛り上がる話題もなく、五分と経たない内に待合室を出た。
 三〇三号室に向かう道中、ワイヤレスイヤホンをオンにしながら、休憩時間中に再生した曲が終わりまでたどり着いていないと気づき、続きを聴くべきか、キース・ジャレットを流そうかと思い悩んだ。
 バルトークのピアノ独奏曲集、ショスタコーヴィチの『二四の前奏曲とフーガ』、Gropuerの『Ruins』と、合計で一〇時間程度のプレイリストは、読書用に作られたが、とても一日で聴き通せる長さではなく、衰弱した身体にとろけたいと願う集中力は、終わりに着くこともないまま再生を止めるが、眠りによって中断された一日を再開する際、起床に併せてプレイリストの半ばから再生し、二、三日かけて終わりに着いた後、また最初から聴き直すものの、三日も経てば繰り返し聴くにたえうる新鮮さを取り戻している一方、時には愛着を抱いている音が耳障りに響き、円環に支障が生じる。今選ばれているアルバムのどれかを除外して、別の作品を選び取らなければならない。Nils Frahmがストリーミングで配信しているアルバムを発表された順に聴き、最新までたどり着いたら振出しに戻る、というふうに過ごしていた時期もあったが、今は失われた習慣も、いつかは回帰するだろう。そのさまは季節の移ろいにも似ている。
 無神経で厚かましい感傷、自己憐憫、悩める者に固有のうぬぼれ、これら一切が不潔に映る時、いっそ不安になるほど静かな音楽が、死のようにこちらから感じるという苦しみを拭い去り、落ち着きを与える。想いを吐露するのではなく描写する音楽において、最早コミュニケーションとしての言葉は介在しない。── この世で唯一存在する類、月並みな人間に肉体的な嫌悪を覚える、人々が感情を吐露するよりも、描写する方がはるかに好ましい、とぺソアは書き、世の恋人たちを見るがいい、やっと告白が始まると、もう嘘を強いられている、とリルケは書いた。理解されたい、不都合な解釈をされたくないという願いから、ひとが感情の演出を始めるならば、自分すらも忘れて、目の前にあるものの輪郭をなぞろうとする試みは、告白する者の大袈裟な滑稽さから逃れて、正確な表現を感情に与える、感情に落ちつく場所を与えるという解決を求める。── 人生は、人生を表現しようとする時の妨げとなる、もし私が偉大な愛に生きていれば、決してそれを語って聞かせることなどできないだろう、文学は人生を無視するもっとも快適な手段だ、と再びぺソアの思想を連想する内に、David Byrneの歌声が響き始めた。
 ── We’re only tourists in this life
   Only tourists, but the view is nice
 三分三〇秒の短い曲で、特に劇的な展開を伴うわけでもないにもかかわらず、深い満足を意味する余白が胸中に生じるのは、コーラスに漂う滑稽な寂しさのためだろう。何かに、誰かに疎外されているという意識から生じる苦しみ、すなわち孤独とは、集団、社会生活に固有の問題であり、他のひとたちには帰属すべき場所が与えられているにもかかわらず、自分にはそれがない、あるいは居場所があるはずなのに、おれはここにいない、ここにいてはならないという虚しさに襲われる。人ごみに揉まれながら、寄せ打つ波とは反対方向に進もうともがき、言葉にされることもなく、ひっそりと内在した傷跡が、徐々に身体を蝕み、腐りながら、次第に孤独を受け入れるようになる。
 ── Now everybody's coming to my house
   And I'm never gonna  be alone
   And everybody's coming to my house
   And they're never gonna go back home
 結局、キース・ジャレットを再生した。
 しかしこのオスティナート、執拗な反復を繰り返す左手に対して、右手が奏でる旋律は徐々に盛り上がり、変奏しながら、時にかよわく、時に力強く鼓膜を打つ様どうだろう。既に何度も聴いたはずのものに揺り動かされ、抵抗できないような大胆さをもって自分に注がれる音楽は、計り知れない豊かさを伴って、新しい感情の種を内に残す。作品とは性交渉を伴わない愛情の場であり、我を忘れる喜びに悶える鑑賞者は、性別を覆い隠す感動に、観念的に作品の子供を懐胎させられる。孤独に病むなら、キース・ジャレットを聴けばいい。彼が録音を残した『平均律クラヴィーア曲集』は、三〇〇年前に書かれた楽譜にもかかわらず現代人の心を打っている。キース・ジャレット自身の音楽も、三〇〇年後の人類を驚嘆させているに違いない。誰にも説明せず、言葉を伴えど感情を表現せず、一つ一つを細部を積み重ねながら、何ものかを描写する。説明しようとする試みは、既に作者の視界に他人を介在させる以上、彼に固有の色彩を濁さざるを得ない。── 自分にとって美しいと思われ、書いてみたいと思えるものは、何についてでもない書物、外部とのつながりを持たず、地球が支えもなく宙に浮かんでいるように、文体の内的な力でみずからを支えている書物、できれば主題がほとんどないか、少なくとも主題がほとんど見えないような書物だが、最も美しい作品とは、最も素材の少ない作品だから、表現が思考に近づくほど、語は思考に密着して消えてゆき、一層美しくなる。一八五二年一月一六日、ルイーズ・コレに宛てたフローベールは、同年の四月二四日、同じくルイーズのために、韻文は既に形式として使い古されている、芸術としての散文は昨日生まれたばかりだ、とも書き送っている。当時、彼は『ボヴァリー夫人』の制作を進める最中であったが、一八三七年六月二四日には、ラマルチーヌやユゴーの詩のために哲学や化学などの学識を投げ捨てていい、とエルネスト・シュヴァリエに送っている。「こうしてぼくは反-散文、反-理性、反-真理となった。」
 フローベールの思想は一五年の間に変わったのだろうか。無論、そう捉えるべきであり、周知の通り、作風にも断絶があるものの、再びルイーズとの文通を覗くと、「散文とはろくでもない代物だ」と嘆きながら、散文にも韻文の稠密性が与えられる、書かれた言葉の一つ一つが替えのきかないものになる、という彼の信念が告白されている。優れた詩には完璧な数式と同じくらい正確な美しさがある、と述べながら、言葉は全世界を含むから、散文はあらゆる芸術を取り込める、文明化した世界では散文以外の芸術は存在しない、詩ないし韻文は散文に近づくための子供っぽいものに過ぎない、と確信していたぺソアを、やはり思い出す。時代と話者によって絶えず流動する言語システムは、韻律のような束縛を与えなければ、不確定な要素を多く含んだ、不完全なものに留まるかもしれない。ならば絶えず生成し、形を変える言葉を基調とした芸術、散文を形式として高めようとする試みは、その身を途方もない道程へと投げ出し、終わりの見えない書物に終生を捧げることへ繋がると言える。
 清掃を開始してから二五分も費やしていることに気が付き、そろそろ三〇三号室を出なければならないと思った。


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