読書と日々 二

 衰弱に伴う陶酔、というのはあるに違いない。
 少しずつ自分を失えば、無駄な想いを馳せる余力も剥がれ落ち、我を忘れる疲労にうっとりしながら、じわり、じわりと満たされた感覚が、身体の内奥から染みわたる。心持ち斜め上に傾く顎に伴い、視線は天井を見つめ、装飾によって遮られたオレンジの照明は、星のように拡散し、汗ばみ湿った部屋へ物憂げに溶けていた。風通りが悪いのか、換気扇が壊れているのか、肉体の交わりが数多に繰り返されたせいで、体液のにおいがこもり、壁にしみついたのかわからないが、ラブホはいつも湿っている、と考えながら、ここが職場でないと気づいた。
「自室だ」
 働いていないのに、何に疲れているのだろう、と視線を彷徨わせるうちに、裸の人体模型が薄闇の渡り廊下から現れ、こちらの手を取り、ステップを刻み始めた。拍子を合わせるにつれて、模型は徐々に体温を帯び、肌を備え、髪を生やし、衣装さえも沸き上がって、こちらと瓜二つの容貌に変化したが、同一人物とは思えない滑らかな発音で、不安げな旋律をなぞっていた。
 ── This is the waltz thinking about our bodies
   What they need for our salvation
 グラデーションを奏で、背景は次第に薄闇より青に移る。かと思えば、苦しそうに眉を寄せたひとりの男が、白日の下を歩いていた。
 先日、買い物を兼ねて散歩した際、晴れた午後に吹く風の爽やかな感触と、溢れる太陽のまばゆさに驚いた。もう一六時を過ぎているにもかかわらず、痛いほど強い日照りの騒がしさは、歩みを進めるほど耐え難いものとなり、踏切前に着く頃には、決定的な性質を帯びて身体を蝕んだ。曲道のため、俯いた目線を上げると、電車が過ぎるのを待ちながら、いくつもの異なる顔が、表情が抜け落ちたような眼差しを同じ方向に寄せていた。その様が未開の森で知らない動物の群れを前にしたように恐ろしく、そっと目の前を横切ると、人通りもまばらな中心街には、密集していないものの、大勢の人々が点在し、近づいたり、遠のいたりしながら、自分とは異なる時間の平面を歩いているように見えた。大小差のある黒い点をぽつぽつ並べた前衛美術のように不可解で、現実感を失った光景に耐え切れず、青空を仰ぐと、晴天は深く澄んで美しいが、健康なものに固有の残酷さで、じわじわとこちらを苦しめたいようだった。
 ああ、今すぐこの場にうずくまり、両手で顔を覆いたい、と考えると、何処からともなく、聞き覚えのある滑らかな発音が、再び不安をなぞり始めた。
 ── Is the Darkness ours to take?
   Bathed in Lightness, bathed in heat
 職場の待合室にいた。目にも精神にも不愉快な光の下、パイプ椅子に座りながら本を開くが、部屋中を隈なく照らす無機質な蛍光灯が、逃げ場となる影を奪い、心の落ち着きを保てず、いくら文字を追おうとしても内容がつかめない。言葉は解体され、散乱しながら意味を失うが、読書より他に時間のつぶし方もわからない。両腕を組み、机の上で突っ伏しながら、光に耐えられなくなったのはいつからだろう、と考えた。晴れた日差しは気持ちを軽やかにするが、不吉な湿り気のなかで、衰弱に我が身を任せながら、重い空気を呼吸している方が安らぐのは、この仕事に慣れた証だろうか。思えば、昼の仕事は上手く続いた覚えがない……。太陽に痛めつけられながら苦しみ働くよりも、倦怠に身を委ね、明け方まで汗ばんだ部屋を片付けた方が性に合っている。
 快い薄闇の内で開いた眼差しは、次第に暗がりと重なり、事物が夜にとけるよう、主体が漆黒へ流れだす頃、深淵より再び人体模型が現れて、手を取り、ワルツのステップを刻み始めた。

 夢から覚めた。
 最近はどうにも寝すぎてしまう。八時に就寝したならば、一四時に目覚めるのが理想だが、アラームさえ遮る眠りは、一六時過ぎまで布団に溶け込んでしまう。気だるい上半身を起こせば、手の届く範囲に置かれたコップと電気ケトル、安っぽいコーヒー豆など、風にたなびく野草のよう、ふらりふらりと腕を伸ばし、腰より上をくねらせながら、一日を始める準備に取り掛かるが、簡単な作業にもかかわらず、もう何もしたくないような気がして、何度もその場にうずくまり、生まれたての獣のように丸くなった。しばらく横たわっている内に、ああコーヒーを飲むんだった、と思い出し、また準備を始めるが、眠気とも疲労とも見分けがない、倒れることへの飢えが、再びどすんと物音を立て、布団の上に我が身を横たえた。だらしなく放り出された四肢に、怠惰への誘惑、人間的な習慣よりも原始な状態へ立ち返りたいと望む無為への欲求を充溢させながら、このまま一生寝込んでしまいたい、今の姿勢を崩さず死ぬまで過ごせるならどれほど楽だろう、という想いが、弱さへの恥じらいと混ざり合い、溶けて絡まる夢と現実と伴に微睡んでいた。
 冷めたコーヒーを飲み干す頃には、既に一七時を過ぎている。通勤の時間も考えて、遅くとも二二時二〇分には家を出なければ、出勤の二三時には間に合わないが、食事、シャワー、着替えなどに一時間以上かかるとして、残された余暇は四時間と少しである。その間、何をしようか。読みたい本がいくつかある。語学の勉強もしたい。ピアノの練習、小説を書く試みにも打ち込めればいいが、そこまで効率よく動けるだろうか。また行為の途中でうずくまり、複雑な輪郭を失った存在になりたい、単純な、表情を持たない球体に変化したい、と願い始めるだろう。怠惰への飢えが、自分の意欲を打ち砕くだろう……。
 疲労に蝕まれているのだろうか。眠りに失った時間を償うように作業に取り掛かれば、あれもやっていない、これもやっていない、と無鉄砲に手を付けて、気づけば出勤の時間を迎えているのが常だ。労働を終え、疲れた身体を家に持ち帰る頃には、卓袱台や床の上に散乱した数多の書物が、様々な可能世界への誘惑として立ちはだかるが、身体の気だるさが集中を濁し、数頁読むのに一時間近くかかってしまう。欲望のせいか、意識だけは妙にさえて、結果だらだらと眠らずに朝を過ごすはめになる。それもこれも、明日の存在がどうにも信じられないからか。過去に不可能だったことが今も動かず横たわっており、今日できなかったことは明日もできない、そんな気がするが、明日を信頼しなければ、安らいだ眠りも降りてこないものだろうか。
 ── 人の一日は目覚めと眠りの満ち引きから成っていることを、私は知った。私にとって昼間の仕事は、どんなに神経を張りつめていても、しばしば眠りに似ていた。それにひきかえ、夜の眠りはこわばった目覚めに似ていた。何時間もぐっすり眠りとおした後でも、まるで眠りの中でひどい緊張をくぐり抜けて来たように、精根つきはてて朝の光の中に浮かび上がることもある。目覚めと眠りの満ち引きを単純で自然な曲線にすることが、私の日夜の苦心であった。そのためには、昼間の仕事を畑仕事のように淡々とやり、そして夕暮れから夜更けにむかって、心の内の興奮をすこしずつ抑えながら高めていかなくてはならない。床に就く時に心がどんなに高ぶっていても、それは構わないのだ。ただ、興奮は緩やかな上昇線を描いて高まって、就寝前にとにかく頂点をまわっていなくてはならない。そうすると興奮はいつの間にかそのまま眠りの様相を帯びはじめ、後は実際に寝付かれなくても、目覚めと眠りの境目は心地よくも不確かなものになっていく。もっとも計算がはずれると、頑固な不眠と明け方まで添い寝となることもしばしばだった。
 眠りについて考える時、しばしば思い出す文章である。うまく寝付けない、あるいは家畜化されない獣のように落ち着きを損なった眠りが、日常を壊し、瓦礫の上で途方に暮れながら、再び新しい生活法の模索に乗り出さなければならないという試練を、今日までに何度経験したろうか。日常とは眠りへの準備に他ならない。季節が変わる前は、退勤時間が日の出と重なるため、燃えるような黄金に浸された街を背景に帰路を辿っていたが、最近は曙光が既に透明な青空に澄み渡っており、朝露の湿り気からかすかに夜の終わりを感じ取るのみである。まだ明けぬ夜の地平線から、徐々にオレンジの光が染み出し、これから始まる朝を窓の外に覚えながら眠る習慣は、冬から春にかけてしか許されない。既に明けてしまった夜を忘れ、昼にも似た輝きを背に眠る習慣を、独力で形作る必要がある。夜勤労働者は、夏に病み、冬に快癒する。
 結局、一冊の本に集中できるようになるまで、再び怠惰な時間を過ごしてしまった。頁をめくりながら首を回し、肩を上下に動かし、一度机の上に本を置いて、大きく伸びをしたりする。粘りつくような重みを覚えるため、震える集中は焦点を持たず、直線を描くこともなく左右によれてしまう。順を追って文字を辿るのに困難を覚え、ゆるやかに脱線した目線が、ぼんやりと頁の余白を見つめていることもしばしばであった。そうなれば何処まで読み進めたか忘れてしまい、途中で一行、あるいは二、三行読み飛ばしてしまったと気づくが、文字が頭をすり抜けるせいで、一頁前がなんであったかもわからない。虚ろな瞳は空白に飲まれ、とらえどころもなく、まとまりを持たない空想が夕べの薄闇に拡散した。もう一度、奮い立たせるように大きな伸びをして読書に取り掛かれど、順調に航海が進むことは稀である。
 諦めて、別の作業に取り掛かることにした。
 三〇分前後ピアノを弾けば、演奏の最中に我を忘れることができる。ジグザグを描く白と黒の間で、せわしなく動く一〇本指が、こちらとは異なる意志を持った生命体のように思え、ミスタッチを重ねるピアニストが、次にどんなフレーズを弾くのだろうかと、幽体離脱した想いで見守る内に、両腕に覚える微かな痛みが、とろんと垂れる心地よい疲労と伴に身体に充溢する。眠りにも似た忘我に喜びふけりながら、弾き終えた後、次は何をしようかな、と腰を上げ、PCに向かい、英米作家の小説のPDFを開き、傍らに同書のペーパーバックと、日本語訳された文庫本を用意した。原文を読む試みは、調子が良ければ毎日続けられるが、意欲が挫けると、一週間、二週間と長い断絶が生じ、結果として五〇頁を読むのに半年近くかかることになる。今日は二頁読み進められた。ここで満足しなければ、他に割く時間がなくなる。しかし、フランス語の勉強を始めた途端、文法書に並ぶ直説法、接続法、条件法、複合過去、半過去、大過去、という用語に苛立ち、訳が分からん、やってられるか、と叫びたくなったが、何とか習慣を継続させなければ、一つも身に就くものがなく、欲深いが何にも入れ込むことのできない、散漫な注意力しか持たぬ人間として、益々自分に失望するだけだろう。
 ふと、辞書代わりに開いたPCの画面右下に21:50と表示されていることに気づいた。もう出勤する時間だ。
 着替えと夜食の準備を簡易的に済ませながら、あああれを読んでいない、これを読んでいない、そもそも今日は文章を書けていない、などしていないことが頭に浮かんだ。後悔を償うように荷物をまとめれば、出勤するうえで必要のない本を沢山詰め込んでしまい、バッグを持ち上げるだけで疲れてしまう。そもそも休憩時間が三〇分しかないのにこんなに沢山本が読めるわけがない、と思い至り、一度すべての本を床に投げ落とし、どれをもっていこうか再度悩んでいる内に、時刻は二二時一五分を迎えていた。あと一〇分で電車が来る、それに乗れなければ遅刻だ。
 惜しみながら二、三冊だけバッグに詰め込み、追い立てられるように家を出る頃、夢で歌われた音楽が聴きたくなり、再生した。
 ── When I arrive at, you come and find me
   Or in a crowd, be one of them?

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