好きな本からの書き抜き一覧


こうして、彼らの手掛けたものはことごとく水泡に帰した。
二人はもはや人生には何の関心も抱いていない。 各々ひそかに温めてきた良いアイデア。互いに隠してはいるが、時折それが頭に浮かぶと、思わ
ずほくそ笑む。やがて同時にそれを打ち明ける。筆写(コピー)をしよう。
(……)

彼らは仕事にかかる。

『ブヴァールとペキュシェ』作品社 p.452-453

 孤独のために本を読むのか、読書を重ねるにつれて孤独になるのか。恐らく、どちらもあるだろう。悲観して言うのではない。ただ、規則正しい日常の形成に努めている最中、ふと音もなく建物が崩れ、憂鬱、無気力、やるせなさに奪われた我が身を猫のように丸め、うずくまる。一つずつ組み立てた煉瓦も完成半ばで置き去りにされ、もう何度も経験した計画の頓挫を反復しながら、長い間、もしかすると一生涯、同じ砂漠を歩いてきたような気がする。死ぬまで同じ更地が続き、何処へ行っても何も見えないまま、落ち着きもなく彷徨うのだろうか、という考えに、目がくらむ。
 以下に続く抜粋集は、一般の人間に開かれた社会から隔離され、集団のなかで生きているにも関わらず自分が取り残されているような錯覚につきまとわれる、そんな多くの人間が経験したに違いない孤独感に悩まされている者のためにある。時には心地よくさえある倦怠、無気力、衰弱が引き起こす陶酔から抜け出すため、ここ数か月の間に読んで心に残った、あるいはそれに伴い連想を促された言葉たちを引いた。抜粋の合間に挟まれる文章は、自分なりの解釈を施す以上の意味はなく、頁の余白に書き込まれるメモに等しい。読まれる方によっては無用な代物だが、もしここまでの序文に多少なりとも共感を覚えてくださるならば、自分はあなたの友として、遠く離れた者だけにゆるされた孤独の共有を行うだろう。そうでない方に対しては、モンテーニュの序文を送るのがふさわしいだろう。

あなたがこんなつまらぬ、むなしい主題のために時間を費やすのは道理に合わぬことだ。ではご機嫌よう。

『エセー』岩波文庫第一巻 p.8,9

読書の喜び

 アルトゥール・ショーペンハウアーの哲学を知ったことは、ヴァーグナーの生涯における大いなる出来事そのものでした。これ以前のどんな知的な出会い、たとえばフォイエルバッハとの出会いも、個人的歴史的意義の深さにおいて、匹敵すべくもありません。というのは、ヴァーグナーにとってこの哲学は文字どおり、完全な意味で「ふさわしいものだった」のであり、彼にとっては最高の慰め、最も深い自己確認であり、精神的救いを意味したからでありますし、またこの哲学がヴァーグナーの音楽を解放して、ためらうことなく自己自身に向かっていく勇気を初めて与えたのは疑いないからです。ヴァーグナーは友情の現実性をあまり信じていませんでした。人々の心をへだてる個体化という障壁は、彼の経験によれば、孤独を打ち克ちがたいものにしており、相互の完全な理解を不可能にするものと見えたのです。だがショーペンハウアーにおいて、ヴァーグナーは自分が理解されたのを感じ、また自分も相手を完全に理解できました。「わが友ショーペンハウアー。」──「孤独な私に与えられた天来の賜物。」──彼は書いています、「だが、私にはひとりの友がいる。そしてこの友を、あらためて、ますます好きになる。あの気難しい顔付きをした、 かくも愛情深き老ショーペンハウアーである。私の気持ちがどん底に陥ってしまったとき、彼の本を開けば、何という独特な爽快さが私を元気づけてくれることか。 私はそこに突然自分自身を見出し、自分が十分に理解され、自分が明確に表現されているのを見出す。ただしそれはまったく別種の言葉で、悩みをすみやかに認識の対象に変えるような言葉で語られている。──これはまったく素晴らしい相互作用であり、何物にもまさる幸福をもたらすような交流である。そしてこの作用は常に新鮮なのだ。なぜなら、この作用はますます強くなっていくからだ。──彼が私にとって何であるか、そして私が彼によってどんなものになったのか、それをこの老人が何も知らないとは、なんと愉しいことだろう。」
(……)
 他人が生きているということが、窮地にあっては救いであり、自己の存在が思いがけなくも至福な確認を受け、その意義を解き明かされることになるのです。暗い衝動に憑かれた人間である芸術家の渇望、すなわち精神的支柱を求め、思想による根拠づけと教示とを求める渇望が、ヴァーグナーがショーペンハウアーによって満たされたほどに絶妙完全に満たされたことは、あらゆる精神史を通じておそらく他にその例をみないでしょう。

『リヒャルト・ヴァーグナーの偉大と苦悩』岩波文庫 p.81-84

 ショーペンハウアーを通してヴァーグナーが経験した感動、すなわち遠い他者、おそらく知り合う術もないであろう者に孤独を救われるという感動は、数々の作家や哲学者を襲った現象である。

およそ偉大な人間に対し喜びを覚える者は、よしんばその哲学体系が完全に誤謬であるとしても、そのような体系にもやはり喜びを覚えるものである。 なんといってもそれらの体系は、断じて反駁できない一点、その人独自の気風、色彩を備えているからだ。哲学者の像を我がものにするためには、このような色彩を利用することもできる。丁度ある場所に生えた植物から土壌を推量することができるのと同様に。いずれにせよそういう生き方、人間事物のそういう観方がかつて存在した、したがってこれからも存在することは可能である。すなわち「体系」というもの、あるいは少なくともこの体系の一部は、ここでいう土壌に生えた植物のことである。

『ニーチェ全集第一期二巻』白水社 p.375-376

思考することは、生の新たな可能性を発見し、発明することを意味するだろう。 「さまざまな困難が驚くべき出来事に関わるような、そんな生がある。それは思想家たちの生である。そして、彼らに関して我々に語られる事柄に耳を貸さなければならない。というのも、その物語を聞いただけで我々に喜びと力が与えられ、また彼らの後継者たちの生に光が注がれるような、そうした生の可能性をそこに発見するからである。そこには、偉大な船乗りたちの航海の旅におけるのと同じくらいの発明、省察力、果敢さ、絶望や希望がある。そして、実を言えば、それらはまた、生の最も未開で最も危険な領域への探検の旅でもある。これらの生がもつ驚くべきことは、 反対方向に引っ張る二つの相反する本能が、同じ拘束のもとで歩まざるをえないように見えるということである。認識をめざす本能は、人間が生きるのに慣れている土地を捨てて、不確かなもののなかに身を投げいれることを絶えず強いられている。また、生を意志する本能は、絶えず身を落ちつける新たな場所を手探りで探し求めることを強いられている」。言い換えると、生は認識が生に定める諸制限を克服するが、しかし、思考は生が思考に定める諸制限を克服するということである。思考は一つの理性であることをやめ、生は一つの反動であることをやめる。このように思想家は、思考と生との素晴らしい親和性──思考を或る能動的なものにする生、生を或る肯定的なものにする思考──を表現する。この親和性一般は、ニーチェにおいては、とりわけソクラテス以前の秘密としてだけでなく、芸術の本質としても現れる。

『ニーチェと哲学』河出文庫 p.205-206

 ジャン・クリストフがオリヴィエ・ジャンナンと出会った際の喜びは、生涯思い返すであろう頁を開いた際の感動と同じである。愛すべき書物との出会いは、時に苦しく、こちらの感情を激しく乱すが、痛みさえ甘美であり、曇っていた眼差しが、書物のために明瞭になる喜びは、読書家ならば誰もが知っている。

俺には一人の友がある!──苦しい時に寄りすがるべき一つの魂を、喘ぐ動悸が静まるのを待ちながら、やっと息がつける安全な一つの避難所を見出したという楽しさ!もはや一人ではない。疲れて敵に渡されるまで、常に眼を見開き不眠のために充血さしながら、 たえず武装していることも、もはや必要ではない。自分の全身を向こうの手中に託し、向こうでもその全身をこちらの手中に託した、親愛なる伴侶があるのだ。ついに休息を味わい、彼が見張ってくれてる間は眠り、彼が眠ってる間は見張ってやる。子供のようにこちらを信頼してるなつかしい者を、保護してやるという喜びを知る。向こうに身をうち任せ、あらゆる秘密をも知られてるのを感じ、勝手に自分を引き回されるのを感ずるという、さらに大きな喜びを知る。多年の生活のために老い衰え疲れていたのが、友の身体のうちに若々しく溌剌と生まれ返り、新しい世界を友の眼でながめ、この世の一時の美しいものを友の官能で抱きしめ、生きることの輝かしさを友の心で楽しむ──苦しみをも友とともにする……。ああ、友といっしょにいさえすれば、苦悶までが喜びとなる!

『ジャン・クリストフ』岩波文庫第三巻 p.145-146

 このような喜びは、読書だからこそ可能となる。あらゆる読者は本を通して自分を眺めるから。

実際には、ひとりひとりの読者は、本を読んでいるときには自分自身の読者なのである。作家の書いた本は、それなくしては読者が自分自身のうちに見ることのできないものを識別できるよう、作家が読者に提供する一種の光学器械にほかならない。書物の語っていることを読者が自分自身の 内部に認めるという事実は、その書物が真実を語っている証拠であろう。(……)「どれならよく見えるか自分で確かめてごらん、このレンズがいいのか、それともこちらのレンズのほうがいいのか、それともべつのレンズのほうがいいのか」と。

『失われた時を求めて』岩波文庫第十三巻p.521-522

 そのためプルーストは「真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえ本当に生きたといえる唯一の人生、それが文学である」と断言する。

……作家にとって文体とは、画家にとっての色彩と同じで、テクニックの問題ではなく、ヴィジョンの問題だからである。文体とは、世界が我々に現れる際の質的差異を明らかにするものであり、この差異は、意識的な直接の手立てでは明らかにできず、芸術が存在しなければ各人の永遠の秘密にとどまるだろう。 我々は芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。他人の見ている世界は、我々の見ている世界と同じものではなく、その景色もまた、芸術がなければ月の景色と同じように我々には未知のままにとどまるだろう。芸術のおかげで我々は、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる。これらの世界は、無限の彼方を回転するさまざまな星の世界よりもはるかに相互に異なる世界であり、その光の出てくる源がレンブラントと呼ばれようとフェルメールと呼ばれと、その光源が消えて何世紀も経ったあとでも、なおも我々に特殊な光を送ってくれるのである。

『失われた時を求めて』岩波文庫第十三巻p.490-491

 これはフローベールが目指した書物を思い浮かべずにはいられない文章である。

ぼくにとって美しいと思われるもの、ぼくが書いてみたいもの、それは何についてでもない書物、外部との繋がりを持たず、地球が支えもなく宙に浮かんでるように、文体の内的な力でみずからを支えている書物、できれば主題がほとんどないか、少なくとも主題がほとんど見えないような書物です。最も美しい作品とは、最も素材の少ない作品です。表現が思考に近づけば近づくほど、語は思考に密着して消えてゆき、いっそう美しくなる。

『フローベール ポケットマスターピース』集英社文庫 p.732

 美学を実践し、成功した書物というのは少なく、そんな代物を書き上げる自信もないが、絶え間ない挫折、得体の知れない苦しみに対する幾度もの敗北を繰り返しながら、ただ本を開き続ける。

生活は厳しい。魂の凡庸さに自己を委ねない人々にとっては、生活は日ごとの苦闘である。そしてきわめてしばしばそれは、偉大さも幸福も無く孤独と沈黙との中でなされる憂鬱なたたかいである。貧困と、厳しい家事の心配と、精力がいたずらに費える、ばかばかしくやりきれない仕事に圧しつけられて、希望も無く悦びの光線もない多数の人々は互いに孤立して生き、自分の同胞たちに手を差し伸べることの慰めをさえ持っていない。その同胞たちも彼らを識らず、彼らもまたその同胞たちを識らない。彼らはただ自分だけを当てにするのほかはない。そして最も強い人々といえども、その苦悩の下に挫折するような瞬間がある。彼らは一つの救いを、 一人の友を呼んでいる。

『ベートーヴェンの生涯』岩波文庫 p.15-16

 偉大な書物たちは、実人生における卑小な出会いよりも遥かに有益なものを与えてくれた。今後もそのように人生は続くであろう。実際に何を経験したかは、最早重要ではない。どんな書物も虚構ではなく、現実を覆す第二の現実として、あらゆる頁に内在している。

この新しい幻想の場、それは夜でもなければ、 理性の眠りでも、欲望のまえに開かれた不確かな空虚でもない。それは反対に、目覚めの状態であり、疲れを知らぬ精神の緊張、学識を伴う熱意、いっときも注意を怠らぬ緊張である。今後は、記号の印刷された黒と白の紙面から、閉ざされたまま埃をかぶっている一巻の書物から、それが開かれて忘れられていた言葉が飛び立つ瞬間に、妄想のたぐいが生まれることになるだろう。それは静まり返った図書館のなかで、念入りに翼をひろげている。そして列柱をなす書物、整然と居並ぶ表題、数々の書棚は、図書館を隈なく塞いでいながら、他方では、不可能の世界へとぽっかり口を開けている。 空想的なものが宿るのは、書物とランプのあいだである。もはや人は、幻想的なものを心のなかにもち運ぶのではない、それを自然界の突飛な出来事のうちに期待するのでもない。知の正確さのなかから、それは汲みあげられる。富は資料のなかで待機している。夢見るためには、目をつぶるのではなく、読まなければならない。ほんもののイマージュは、知識なのである。既に語られた言葉、厳密な調査検討、細かな情報やモニュメントの微小な欠片を山のように集めたもの、複製の複製、そうしたものこそが、近代の経験においては不可能の世界の威力を発揮する。ただの一度しかおきなかった出来事をわれわれに語り伝えてくれるものとしては、いまや、反復の絶えざるざわめきしかない。想像的なものは、現実的なものに対立するものとして形成され、これを否定し、 あるいは補足しようというのではない。それは、無数の記号のあいだで、書物から書物へと、くり返される言葉と解説の間隙を縫うようにして、ひろがってゆく。それは、テクストとテクストの間で生まれ、成長する。それは図書館の現象なのだ。

『フーコー・コレクション2』ちくま学芸文庫 p.164-165

孤独と苦悩

人々はすべてを(因襲の力を借りて)容易な方へと解決してきました、容易なものの中でも最も容易な方へと。しかし、私たちが困難なものに就かなければならぬことは明白です。すべて生あるものはこれに就くのです、自然界のすべてのものは、おのおのの流儀で成長し、自らを守るのです、そして自分の内部から独自なものとなり、どんなにしてでも、どんな抵抗を排除してでも独自であろうと努めています。私たちの知識は乏しい、しかし私たちが困難に就かなければならないことだけは、決して私たちから離れることのない確実な事実です。孤独であることはいいことです。孤独は困難だから。ある事が困難だということは、一層それをなす理由であらねばなりません。

『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』新潮文庫p.49-50

 心の不安なざわめき、孤独であることの耐え難さを、より大きな音でかき消そうとして、ひととの交わりに足を踏み入れるが、喧騒は虚しさを一層深めるだけであり、その都度、埋まらない寂しさにため息をつき、不幸な自分にうっとりし、より幸福な未来を夢見て気持ちよくなる。そんな下らぬ自己憐憫は、ひとを益々堕落させるだけである。安っぽい感傷にふける前に、孤独が人生の財産であり、孤独であるとは偉大なことなのだと、事あるごとに思い出さなければならない。独り善がりだと嘲笑するひとには、言わせておけばいい。「おのれ自身の発明者である者は、長い間敗者とみなされる」というニーチェの言葉を引用すれば、思い上がりだと攻撃されるに違いないが、我々が滑稽な道化役者なのか、あるいは孤独の偉大さに相応しい人間なのか、遅かれ早かれわかることだ。単なる思い込みの激しい俗物にすぎなかったならば、その時は大いに笑われればいいだけである。

「君は自分だけがひとりぼっちだと思うかも知れないが、僕もひとりぼっちですよ。ひとりぼっちは崇高なものです
 高柳君にはこの言葉の意味がわからなかった。
「わかったですか」と道也先生がきく。
「崇高──なぜ……」
「それが、わからなければ、到底ひとりぼっちでは生きていられません。──君はひとより高い平面に居ると自信しながら、ひとがその平面を認めてくれない為めにひとりぼっちなのでしょう。然し安易にひとが認めてくれる様な平面ならば容易にのぼってこれる平面です。芸者や車引に理解される様な人格なら低いにきまってます。それを芸者や車引も自分と同等なものと思い込んでしまうから、先方から見くびられた時腹が立ったり、煩悶するのです。もしあんなものと同等なら創作をしたって、やっぱり同等の創作しか出来ない訳だ。同等でなければこそ、立派な人格を発揮する作物も出来る。立派な人格を発揮する作物が出来れば、彼等からは見くびられるのは尤もでしょう」
(……)
「わたしは名前なんて宛にならないものはどうでもいい。只自分の満足を得る為めに世の為めに働くのです。結果は悪名になろうと、臭名になろうと気狂いになろうと仕方がない。只こう働かなくっては満足が出来ないから働くまでの事です。こう働かなくって満足が出来ない所を以てみると、これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従うより外にやり様のないものだ。人間は道の動物であるから、道に従うのが一番貴いのだろうと思っています。道に従う人は神も避けねばならんのです。岩崎の塀なんか何でもない。ハハハハ」

『二百十日・野分』新潮文庫 p.222-224

「芸者や車引に理解される様な人格なら……」の箇所以外は、全くその通りだと言える。我々が見過ごしていた凡庸さ、日常に潜む微細な苦しみ、すなわち平凡な人間の言語化されない感覚こそ、文学の題材である。

何はともあれ、彼女は幸福ではなかった。これまでに一度も幸福ではなかった。人生の不満は何処から来るのか。何故寄りかかっていたものが瞬く間に蝕まれていくのか。──しかし、もし何処かに強く美しいひとがいたなら、熱情と品の良さに満ちた雄々しい気立て、天使の姿にやどる詩人の心、天にむかって哀調帯びた祝婚歌を奏でる青銅弦の竪琴にも似た心があるなら、何故それと巡り合えないのか。否、どうせかなわない話だ。探し求める甲斐があるものなど何一つない。みんな偽だ。どのほほえみにも倦怠のあくびが、どの喜びにも呪いが、どの快楽にも嫌悪が隠されている。至上の口づけですら、より高い逸楽へのかなわぬ欲望を唇に残すばかりである。

『ボヴァリー夫人』新潮文庫 p.360

すなわち希望とは我々がその結果について疑っている未来または過去の物のしばし表象像から生ずる不確かな喜びにほかならない。これに反して恐怖とは同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみである。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は安増となり、恐怖は絶望となる。すなわちそれは我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみである。次に歓喜とは我々がその結果について疑っていた過去の物の表象像から生ずる喜びである。最後に落胆とは歓喜に対立する悲しみである。

『エチカ』岩波文庫上巻 p.189

 孤独に籠ることの困難さは、単に心理的な理由からだけではなく、我々一人ひとりが、社会という枠組みの中で生かされており、余程の財産がない限り、世の軽薄さと不潔な交わりから身を引くことができないからでもある。

スピノザの場合、理性、力あるいは自由は、生成、形成、文化と不可分である。人間は生まれつき自由ではないし、生まれつき理性的でもない。そして、誰も自分の本性と一致するものをじっくりと経験したり、自分の喜びを見出すためにじっくりと努力することなどできない。スピノザがしばしば言っているように、子供時代は無力と束縛の状態、無分別の状態である。そこで我々は極度に外的な諸原因に依存し、必然的に喜びよりも悲しみを多く抱いている。我々が自らの活動力からこれほど分離された時代は他にない。最初の人間、アダムは人類の子供時代である。それゆえ、スピノザは罪をおかす以前のアダムを理性的、自由、完全な者と我々に示すキリスト教的ないし合理主義的な伝統にそれだけ強く反対する。逆にアダムを、一人の子供として、 すなわち悲しく、弱く、 隷属的、無知で、偶然的な出会いに身をまかせる者として想像しなければならない。「理性を正しく用いることが最初の人間の能力の内になかったこと、むしろ彼は、我々と同じように感情に従属していたということを認めなければならない。」

『スピノザと表現の問題』法政大学出版局 p.274-275

 もし個々の人間が実際に異なるならば、それぞれがそれぞれの観点を徹底するほど、他と違うことを語るようになって当然である。時に、ひとはそれを「孤独に狂う」と表現するかもしれないが、それは孤独を恐れる人間の戯言に過ぎない。

 だから、たまにしっかりした人間が出てきて(それが孤独者である)、地道な土台の上に自己の生活を築きあげるために、昼も夜もいじらしい一途な努力を続けると、たちまち堕落した「物」たちの反抗や嘲罵や憎悪を招かねばならぬのだ。彼らは心の底まで腐ってしまい、もはや何ものかがしっかり身をひきしめて自己の存在の意味のために戦うのを辛抱することさえできなくなっていた。その一人の孤独者を妨害し、脅かし、惑わすために、すべてが同盟した。彼らはその可能性を知っていた。彼らはずるそうな目くばせをかわしながら、悪魔のような誘惑にとりかかるのだ。彼らの誘惑の手は想像もつかぬ深淵まで延びて、ありとあらゆるもの──神をも引きずっていた。ただ一人、あくまで誘惑を拒絶する孤独な聖者を滅ぼすために。
(……)
 そのような彼らの古い習慣も、 考えると十分理由のあることに違いない。孤独は確かに彼らの敵だったのである。

『マルテの手記』新潮文庫 p.225,228

 もし孤独に狂うことが恐ろしいならば、既に先人たちの多くが、孤独に苦しみながらも無数の輝きを歴史に刻んだことを思い返すべきである。孤独な人間は誇大妄想に陥りがちであるが、ならば一層壮大な歴史観のもとに生きなければならない。

一八七八年にニーチェは、『人間的な、あまりに人間的な』によって、諸価値の尖鋭な批判を開始する。〈ライオン〉の時代が始まるのである。かつての友人たちはとんど理解できず、ワーグナーはニーチェを攻撃する。しかも彼の病いは益々重くなった。「読むことができない!書くこともめったにできない!誰一人訪れることもなく、音楽を聴くことさえかなわぬ!」一八八〇年に彼は自分の状態を次のように書いている。「苦痛が絶え間ないのです。毎日何時間にもわたって船酔いに似た嫌な感覚が続き、なかば身体が麻痺しているせいで言葉がうまく話せません。そしてそれを忘れさせるのは、狂ったような発作だけなのです(この前の発作のとき、私は三日 三晩吐き続けました。死を渇望したほどでした……)。こうした絶え間のない苦しみを、 せめてあなたに書き知らせることでもできたら、と思います。頭や眼を途切れることなく 責め苛む痛み、頭の天辺から足の爪先まで麻痺したような嫌な印象を、せめてお知らせできたら、と」。

『ニーチェ』ちくま学芸文庫 op.15-16

 よせ!よせ、かまわないでくれ!昼よ!おまえの相手となるには、わたしはあまりにも浄らかだ。わたしにさわってはいけない!今こそわたしの世界は完全になったのではないか?
 おまえの手がさわるには、わたしの闇はあまりにも浄らかだ。わたしにかまうな、愚かな、あらけずりの、鬱陶しい昼よ!真夜中のほうが、もっと明るくはないか?
 最も浄らかな者が地の主人となるべきだ。最も知られない者、最も強い者、どんな昼より明るくて深い真夜中の魂の持ち主たちが。
 おお、昼よ、おまえはわたしをつかもうとするのか?おまえはわたしの幸福がほしくて手探りしているのか?おまえの目には、わたしは富裕で、孤独で、宝石の鉱坑で、財宝の庫と見えるのか?おお、この世よ、おまえはわたしがほしいのか?わたしはおまえから見て、世俗的なのか?宗教的なのか?神的なのか?いや、昼よ、この世よ、おまえたちはあまりにも無骨だ、
 ──もっと利口な手を持つがいい。もっと深い幸福、もっと深い不幸をつかむがいい。どこかの神に手をのばすがいい。わたしには手を出すな。
 ──わたしの不幸、わたしの幸福は深い。おまえ、奇妙な昼よ、だが、わたしは神ではない。 神の泣きどころの同情ではない。この世の嘆きは深い。

『ツァラトゥストラはこう言った』岩波文庫下巻p .322

 自由になろうと欲するなら、厄介な鎖を自分から投げ捨てなければならぬだけではない。自分の最も愛するものたちから逃げ去る時が来なくてはならない。
 君の妻を、君の国を、君の利益を、君の最も価値の高い信仰を捨てることが出来なければならない。 そしてしばらくの間、君の生の太陽は沈んでいかねばならない。

『ニーチェ全集第二期第六巻』白水社 p.120

 このように偉大な人間が生きていたと知っているからこそ、今なおこの不潔な耐え難さと闘おうという意志を捨てずにいられる。このように美しく、力強い言葉が残されているからこそ、今なお苦悩に満ちた人生の先を信じることができる。孤独な人間は、後世に逞しい生を贈り与える。

しかしおそらく、いつか多くの人々に可能となることをすべて、孤独の人間は今すでに準備することができ、迷うことのより少ない彼の手で築くことができます。それだからこそ、あなたはあなたの孤独を愛して下さい。そして孤独が美しい嘆きの声を響かせながらあなたに味わわせた苦痛を担って下さい。というのは、近い人々が遠く思われる、とあなたは言われますが、それこそあなたの周囲が広くなり始めたことを示すものにほかなりません。そして、もしあなたの近くが遠くあるのならば、あなたの遠くはもう星々の間に没し、実に大きいものです。全く誰一人伴うことのできないまでになったあなたの成長をお喜びなさい。

『若き詩人への手紙』新潮文庫 p.35

 孤独のために漏れた嘆きは、美しい歌となって彗星の如く夜空を過る。希望のない嘆き、救い難い絶望に救われ、心を軽くし、生に希望を持つ人々は現に存在する。

そして──言いたくないことだが、この作品はその最後の音符に至るまで、表現そのもののうちに、(……)なんらかの慰めを見せている、と言おうとすれば、それはこの作品の持つ許しのなさ、不治の苦痛を傷つけることになろう。いや、この暗鬱な音詩は、最後までいかなる慰藉、宥和、光明をも許さない。しかしこの全体の構造から表現が──嘆きとしての表現が──生れるという芸術的逆説と、この上なく深い救いのなさから、たといきわめてかすかな問いとしてにすぎないにせよ、希望が芽生えるという宗教的逆説とが相応するとすれば、どうであろうか?それは、希望のなさのかなたに生れる希望であり、絶望の超越性なのであろう、絶望に対する裏切りでなくて、信仰を越える奇跡であろう。まあ最後を聞いていただきたい、私 と一緒に聞いていただきたい。楽器群が次々に退く。そして最後に残って曲とともに消えてゆく のは、一梃のチェロの高いト音、最後の言葉、最後の浮遊する音で、ピアニッシモのフェルマーテのうちにゆっくりと消える。それからはもう何もない。──沈黙と夜。しかし、なおも震動を 伝えながら沈黙のうちに残っている音、もはや存在しないが魂のみがなおもあとを追って耳を傾 ける音、悲哀の終音であった音は、もはやそうではなくなり、意味を変えて、夜の中に輝く一つ の光となっているのである。

『ファウスト博士』岩波文庫下巻 p.248-249

いま家のない者は もはや家を建てることはありません
いま孤りでいる者は 永く孤独にとどまるでしょう
夜も眠られず書を読み 長い手紙を書くでしょう
そして並木道をあちらこちら
落着きもなくさまよっているでしょう 落葉が舞い散るときに

『リルケ詩集』新潮文庫 p.53-54

ニヒリズムと神秘主義

今では、 自分の行動によって自分を欺いて、しばらくの間だけごく前向きになろうとするのがせいぜいです。たとえば、医者から命を買うようにして長生きするとか。あらゆる芸術が、今では気晴らしのためのゲームです。いつだってそうだったと言われるかもしれませんが、 今では完全にゲームなのです。こんなふうに状況は変化してきました。画家にとってますます困難な状況になってきているわけですが、これは素晴らしいことです。画家が画家たりうるためには、ゲームを本当に深化させられなくてはならない時代になったのですから。

『フランシス・ベーコンインタビュー』ちくま学芸文庫p.46

『ニーチェと哲学』によれば、ニヒリズムとは決して近代以降の出来事ではなく、有名な「神の死」も、決して騒がしい事件ではない。キリスト教の登場以降、この二千年に及ぶ人類の歴史はニヒリズムそのものだが、この考えを理解するためには、同書における「力能の意志」の概念を理解しなければならない。

力の本質とは、他の諸力と関係しているということであり、この関係がなければ力は〈そういうもの〉としてありえない。力は最初から複数的である。だから「一つの同じ力」と思えるのは錯覚であって、力とはもともと〈それ〉として自己同一的であることはない。デモクリトスやエピクロスの原子論に対し、ニーチェは力の思想を構想したのだと言うこともできる。なぜなら原子は最小の単位(自己同一性)と考えられるのに対して、力はいつも自己同一性を欠くもの、 内的な差異を含んでいるものだから。自己のうちにつねに他なるものとの関係を含んでいる。言い換えれば、力は現在において、〈それ〉として定まる自己同一性をいつも欠いている。それゆえ私たちは力を経験するとき、それがもっぱら現在において私へと現前するものとしては生きることができない。その経験には、〈私へと現前する関係〉をつねにはみ出す部分、超過し、溢れ出す部分、私にとっては到達しえない余白の部分がいつも含まれている。

『ニーチェ』ちくま学芸文庫p.210

 力が他との関係のうちにしか存在しないならば、関係する力に応じて、力はその大きさを変える。そのため、力とは他の力を所有しようと意志しながら、他の力に応じて変化するため、同一性を欠くものとして定義できる。「力能の意志」とは、「力の、力に対する関係」を指す。

 対象そのものが力であり、力の表現である。まさにそういうわけで、対象とそれを奪取する力との間には多かれ少なかれ親和性が存在するのである。まだ所有されていないような対象(現象)は存在しない。というのは、対象はそれ自体において仮象ではなく、力の現出だからである。すべての力は、したがって他の力との本質的関係のうちに存在する。力の存在は複数的である。力を単数で考えることは、まさに馬鹿げたことであろう。力は支配であるが、しかし支配が向けられる対象でもある。距離を置いて働きかけたり働きかけられたりする諸力の複数性──距離とはそれぞれの力のなかに含まれた差異的要素であり、この要素によってそれぞれの力は他の諸力と関係するのである──、これがニーチェにおける自然哲学の原理である。(……)
 したがって力の概念は、ニーチェにおいては、他の力と関係する力という概念である。 この観点のもとで、力は意志と呼ばれるのである。意志(力能の意志)は力の差異的要素である。ここから、意志の哲学についての新たな考え方が出てくる。というのは、意志は、筋肉や神経に対して神秘的に行使されるのでも、ましてや物質一般に対して行使されるのでもなく、他の意志に対して必然的に行使されるからである。

『ニーチェと哲学』河出文庫p.29,30

 ルサンチマン(「お前が悪い」)、疚しい良心(「わたしが悪い」)、禁欲主義的理想(「何も意志せず無になろうと欲する」)。みずからより溢れようとする力を抑制し、断罪し、無に帰そうとする上の三つの要素がキリスト教ないし宗教道徳を形作っている以上、それに基づいて発展してきた人類の歴史はおのずとニヒリズムの産物である。よって人間とは本質的にニヒリズムと結びついたものであり、ニヒリズムなき人間は最早人間はなく、超人と言える。
 しかし、ニヒリズムのため生の本質を逆転させ、溢れ出る力を抑制し、無を否定する理想が地上で勝利をおさめた。それを「価値変質」と呼んでいいならば、ニヒリズムの克服、すなわち超人の到来も、やはりニヒリズムによってしか引き起こされない。

ニーチェにとっては、先に分析したニヒリズムのあらゆる形態は、極端なあるいは受動的な形態でさえ、未完成の、 不完全なニヒリズムを構成しているということがわかるであろう。つまり逆に言うと、ニヒリズムを克服する価値変質はニヒリズムそのものの完全な完成した唯一の形態であるということではないだろうか。実際に、ニヒリズムは克服されるが、しかし自己自身によって克服されるのだ。
(……)
ルサンチマンにおいて、疚しい良心において、禁欲主義的理想においても我々に力能の意志[力の複数性、他の力に関係する力]を認識するように強いるニヒリズムにおいて、我々が力能の意志の表明を捉えないとすれば、我々は力能の意志についてほとんど何も知らないことになる。力能の意志は精神であるが、しかし、我々に奇妙な能力をさらけ出す復讐の精神なしに、我々は精神についていったい何を知っているだろうか。力能の意志は身体であるが、しかし、我々に身体を認識させる病気なしに、我々は身体についていったい何を知っているだろうか。したがって、ニヒリズム、無への意志は、単に力能の意志、力能の意志の質であるだけでなく、〈力能の意志〉一般の認識根拠でもある。
(……)
我々は問うていた。何故、価値変質は完成されたニヒリズムであるのか、と。 それは、価値変質における問題が単なる置き換えではなく、一つの転換だからである。 ニヒリズムがその完成を見出すのは、最後の人間を経ることによってであるが、しかしその彼方にまで行くことによってである。つまり、滅びることを意志する人間において、である。滅びることを意志し、「乗り越えられることを意志する人間においては、否定はなおも自分を引き止めていたすべてのものと縁を切って、自分自身を克服して、肯定す る力能に、すでに超人間的なものの力能に、つまり超人を告げ準備する力能になったのである。」「君たちは、自分を〈超人〉の父や祖先に変形することができるだろう。これが君たちの最善の所作であらんことを!」否定はあらゆる反動的諸力を犠牲にし、「退化した寄生的な性質を示しているすべてのものの仮借なき破壊」となり、生の過剰に仕えるようになる。否定が自分の完成を見出すのはここだけである。

『ニーチェと哲学』河出文庫p.333-335,339

 病を経験しなければ健康を知りえず、無気力に陥らなければ快活だった頃の我が身を内省できないように、否定を徹底することはニヒリズムの克服に繋がり、新しい人間を呼び起こす。

後世から愚か者と思われる危険をおかすことなく、この世界の物事についての意見を時に表明するためには、どんな形式を取るべきでしょうか?これこそ難問です。最善の方法だとぼくに思われるのは、自分の気に障るこれらの事物を端的に描いてみせることです。解剖するというのは復讐なのです。

『ブヴァールとペキュシェ』作品社 p.479

 苦悩の末に死に至ることは、もはやこちらの自由を妨げるものがなくなったことの証である。

我々が死ぬとき何が起こるのか。死とは引き算、削除である。我々はある関係のもとで自分に属していたあらゆる外延的諸部分を失う。我々の精神が失うものは、それが外延的諸部分を伴う身体自身の存在を表現するかぎりにおいてのみ、精神が所有していたあらゆる能力である。 しかしこれらの諸部分や能力は我々の本質には属していたけれども、その本質を構成していなかった。つまり、我々の存在を構成していた諸部分を延長において失うとき[より単純に言えば我々の肉体が失われるとき]、我々の本質は、それが本質であるかぎり、その完全性から何ものも失うことがない。
(……)
同様に、[死によって]我々の変容をうける能力が破壊されたということができるが、しかしそれは受動感情によってもはや影響をうけることができないという意味である。それでもやはりそれは永遠の力をもち、その力は我々の活動力や理解力と同じものである。それは永遠の力としての変様をうける能力であり、この永遠の力は本質とともに存続するのである。

『スピノザと表現の問題』法政大学出版局 p.334-335

定理二三 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。

『エチカ』岩波文庫下巻 p.120

 特定の宗教を信じるわけではないものの、死後の幸福を信じるという意味では神秘主義者と言えるかもしれない。我々と似たような人間はかつても存在し、これからも存在するため、各々の生は過去を繰り返しながら少しずつ変奏しているにすぎない。もはや思い出せない過去の記憶に耳を澄まし、聴き取った声に寄り添って新しい調べを描くのが、次世代の役割である。

あなたのように人生がこれからはじまるという感覚をおぼえることはありませんし、花開いたばかりの存在という感覚に茫然自失することもありません。ぼくは反対に、ずっと存在していたような気がするのですよ!ファラオにまでさかのぼる〈記憶〉をぼくは所有しているのです。異なる歴史上の時代において、異なる職業に従事し、さまざまな地位にある自分の姿をじつにはっきりと思い描けるのです。現在の私という一個の人間は、消え去ったいくつもの私という個的存在の結果にほかなりません。──ぼくは、ナイル川の渡し守であり、 ポエニ戦争時代のローマのぽん引きであり、次いでスブラの貧民街に住む南京虫に食われたギリシャ語教師であったのです。── 十字軍のときには、葡萄の食い過ぎでシリアの海岸で死にました。ぼくは海賊、修道士、軽業師、御者でした。おそらく、さらに東方の皇帝であったのではないか?

『フローベール ポケットマスターピース』集英社文庫 p.758

だから、わたしたちがひとつの生について言えることは、複数の生についても言えるのだ。それぞれの生は、過ぎ去る現在であり、他の生を他の水準で繰り返す生である。まるで、哲学者と豚が、また犯罪者と聖者が、ひとつの巨大な〔記憶の〕円錐の互いに異なる諸水準において、同じ過去を営むかのように。それこそまさに、 輪廻と呼ばれているものである。彼らはめいめいに、自分の音の高さあるいは調べを、 そしておそらくは自分の歌詞をも選択するだろうが、旋律はまったく同じである。すべての歌詞で、すべての調べで、すべての高さで、ひとつの同じトラララが。

『差異と反復』河出文庫上巻 p.232

 傑作とは、ある肉体が生み出しながらも、当人が朽ちた後でさえ生き続ける全く別の身体であり、こちらが生み出しながら、まるで知らない人たちに種を蒔き続ける身体が、受胎された肉体からまた別の身体を呼び起こすのだ。我々は既にその連鎖に加わっている。

 ようやくベルゴットはフェルメールの画の前に来た。記憶ではもっと華やかで、ほかのよく知る画とはずっとかけ離れた画であったが、その批評家の文章のおかげで、はじめてベルゴットは青い服を着た小さな人物が何人かいること、浜辺が薔薇色であること、最後に小さな黄色い壁面の貴重なマチエールに気がついた。目まいはひどくなってきたが、ベルゴットは子供が捕まえようとする黄色いチョウをじっと見るように、その貴重な小さな壁面をじっと見つめた。「こんなふうに書くべきだった」とベルゴットはつぶやいた、「おれの最近の本は、あまりにも無味乾燥だった。この小さな黄色い壁面のように、絵の具を何度も塗りかさねて、文それ自体を貴重なものにすべきだった。」(……)
 ベルゴットは死んでいた。永久に死んだのか?だれがそう言えよう?心霊術の実験にせよ、宗教上の教義にせよ、もとより魂が永続するという証拠をもたらしてはくれない。ただ言えることは、この人生では、まるで前世でとり決められた責務を負ってこの世に生まれてきたかのようにことが運ぶということである。この世の生存条件のもとでは、われわれには善き行いをしたり、細やかな心遣いをしたり、いや、礼儀正しくしたりする、そんな義務があると感じられる理由はなにひとつない。それは神を信じない芸術家が、ひとつの同じ断片を何十回も描きなおす義務があると感じる理由はなにもないのと同じである。その断片がいくら後世の人びとから賞讃されようとも、ウジ虫に食われるおのれの肉体には、どうでもいいことであろう。あの小さな黄色い壁面をあれほどの技量と洗練で描いた画家、かろうじてフェルメールという名前によって同定されただけの永久に知られることのない画家の場合も同じである。現世で報われることのないこのような責務は、この世とはべつの、善意や、良心の咎めや、犠牲心に基づく世界に、この世とはまるで異なる世界に属するものらしい。我々はそのような世界から抜けだして、この世に生まれてきたのであり、ふたたびその世界へ戻って、あの未知の掟に従って生きるのかもしれない。我々がその掟に従うのは、だれがそうしたかはわからないまま私たちの心中にその教えが刻みこまれている。その掟には、なんであれ知性を深くはたらかせる仕事をすると近づくことができる。それが目に入らないのは──せいぜい! ──愚か者だけである。

『失われた時を求めて』岩波文庫第十巻 p.415-418

 こうしたすべてに対して、ツァラトゥストラはわずかに一語を洩らしただけであった。「わたしの子どもたちが近づいた。わたしの子どもたちが」と──。

『ツァラトゥストラはこう言った』岩波文庫下巻 p.331

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