序
孤独のために本を読むのか、読書を重ねるにつれて孤独になるのか。恐らく、どちらもあるだろう。悲観して言うのではない。ただ、規則正しい日常の形成に努めている最中、ふと音もなく建物が崩れ、憂鬱、無気力、やるせなさに奪われた我が身を猫のように丸め、うずくまる。一つずつ組み立てた煉瓦も完成半ばで置き去りにされ、もう何度も経験した計画の頓挫を反復しながら、長い間、もしかすると一生涯、同じ砂漠を歩いてきたような気がする。死ぬまで同じ更地が続き、何処へ行っても何も見えないまま、落ち着きもなく彷徨うのだろうか、という考えに、目がくらむ。
以下に続く抜粋集は、一般の人間に開かれた社会から隔離され、集団のなかで生きているにも関わらず自分が取り残されているような錯覚につきまとわれる、そんな多くの人間が経験したに違いない孤独感に悩まされている者のためにある。時には心地よくさえある倦怠、無気力、衰弱が引き起こす陶酔から抜け出すため、ここ数か月の間に読んで心に残った、あるいはそれに伴い連想を促された言葉たちを引いた。抜粋の合間に挟まれる文章は、自分なりの解釈を施す以上の意味はなく、頁の余白に書き込まれるメモに等しい。読まれる方によっては無用な代物だが、もしここまでの序文に多少なりとも共感を覚えてくださるならば、自分はあなたの友として、遠く離れた者だけにゆるされた孤独の共有を行うだろう。そうでない方に対しては、モンテーニュの序文を送るのがふさわしいだろう。
読書の喜び
ショーペンハウアーを通してヴァーグナーが経験した感動、すなわち遠い他者、おそらく知り合う術もないであろう者に孤独を救われるという感動は、数々の作家や哲学者を襲った現象である。
ジャン・クリストフがオリヴィエ・ジャンナンと出会った際の喜びは、生涯思い返すであろう頁を開いた際の感動と同じである。愛すべき書物との出会いは、時に苦しく、こちらの感情を激しく乱すが、痛みさえ甘美であり、曇っていた眼差しが、書物のために明瞭になる喜びは、読書家ならば誰もが知っている。
このような喜びは、読書だからこそ可能となる。あらゆる読者は本を通して自分を眺めるから。
そのためプルーストは「真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえ本当に生きたといえる唯一の人生、それが文学である」と断言する。
これはフローベールが目指した書物を思い浮かべずにはいられない文章である。
美学を実践し、成功した書物というのは少なく、そんな代物を書き上げる自信もないが、絶え間ない挫折、得体の知れない苦しみに対する幾度もの敗北を繰り返しながら、ただ本を開き続ける。
偉大な書物たちは、実人生における卑小な出会いよりも遥かに有益なものを与えてくれた。今後もそのように人生は続くであろう。実際に何を経験したかは、最早重要ではない。どんな書物も虚構ではなく、現実を覆す第二の現実として、あらゆる頁に内在している。
孤独と苦悩
心の不安なざわめき、孤独であることの耐え難さを、より大きな音でかき消そうとして、ひととの交わりに足を踏み入れるが、喧騒は虚しさを一層深めるだけであり、その都度、埋まらない寂しさにため息をつき、不幸な自分にうっとりし、より幸福な未来を夢見て気持ちよくなる。そんな下らぬ自己憐憫は、ひとを益々堕落させるだけである。安っぽい感傷にふける前に、孤独が人生の財産であり、孤独であるとは偉大なことなのだと、事あるごとに思い出さなければならない。独り善がりだと嘲笑するひとには、言わせておけばいい。「おのれ自身の発明者である者は、長い間敗者とみなされる」というニーチェの言葉を引用すれば、思い上がりだと攻撃されるに違いないが、我々が滑稽な道化役者なのか、あるいは孤独の偉大さに相応しい人間なのか、遅かれ早かれわかることだ。単なる思い込みの激しい俗物にすぎなかったならば、その時は大いに笑われればいいだけである。
「芸者や車引に理解される様な人格なら……」の箇所以外は、全くその通りだと言える。我々が見過ごしていた凡庸さ、日常に潜む微細な苦しみ、すなわち平凡な人間の言語化されない感覚こそ、文学の題材である。
孤独に籠ることの困難さは、単に心理的な理由からだけではなく、我々一人ひとりが、社会という枠組みの中で生かされており、余程の財産がない限り、世の軽薄さと不潔な交わりから身を引くことができないからでもある。
もし個々の人間が実際に異なるならば、それぞれがそれぞれの観点を徹底するほど、他と違うことを語るようになって当然である。時に、ひとはそれを「孤独に狂う」と表現するかもしれないが、それは孤独を恐れる人間の戯言に過ぎない。
もし孤独に狂うことが恐ろしいならば、既に先人たちの多くが、孤独に苦しみながらも無数の輝きを歴史に刻んだことを思い返すべきである。孤独な人間は誇大妄想に陥りがちであるが、ならば一層壮大な歴史観のもとに生きなければならない。
このように偉大な人間が生きていたと知っているからこそ、今なおこの不潔な耐え難さと闘おうという意志を捨てずにいられる。このように美しく、力強い言葉が残されているからこそ、今なお苦悩に満ちた人生の先を信じることができる。孤独な人間は、後世に逞しい生を贈り与える。
孤独のために漏れた嘆きは、美しい歌となって彗星の如く夜空を過る。希望のない嘆き、救い難い絶望に救われ、心を軽くし、生に希望を持つ人々は現に存在する。
ニヒリズムと神秘主義
『ニーチェと哲学』によれば、ニヒリズムとは決して近代以降の出来事ではなく、有名な「神の死」も、決して騒がしい事件ではない。キリスト教の登場以降、この二千年に及ぶ人類の歴史はニヒリズムそのものだが、この考えを理解するためには、同書における「力能の意志」の概念を理解しなければならない。
力が他との関係のうちにしか存在しないならば、関係する力に応じて、力はその大きさを変える。そのため、力とは他の力を所有しようと意志しながら、他の力に応じて変化するため、同一性を欠くものとして定義できる。「力能の意志」とは、「力の、力に対する関係」を指す。
ルサンチマン(「お前が悪い」)、疚しい良心(「わたしが悪い」)、禁欲主義的理想(「何も意志せず無になろうと欲する」)。みずからより溢れようとする力を抑制し、断罪し、無に帰そうとする上の三つの要素がキリスト教ないし宗教道徳を形作っている以上、それに基づいて発展してきた人類の歴史はおのずとニヒリズムの産物である。よって人間とは本質的にニヒリズムと結びついたものであり、ニヒリズムなき人間は最早人間はなく、超人と言える。
しかし、ニヒリズムのため生の本質を逆転させ、溢れ出る力を抑制し、無を否定する理想が地上で勝利をおさめた。それを「価値変質」と呼んでいいならば、ニヒリズムの克服、すなわち超人の到来も、やはりニヒリズムによってしか引き起こされない。
病を経験しなければ健康を知りえず、無気力に陥らなければ快活だった頃の我が身を内省できないように、否定を徹底することはニヒリズムの克服に繋がり、新しい人間を呼び起こす。
苦悩の末に死に至ることは、もはやこちらの自由を妨げるものがなくなったことの証である。
特定の宗教を信じるわけではないものの、死後の幸福を信じるという意味では神秘主義者と言えるかもしれない。我々と似たような人間はかつても存在し、これからも存在するため、各々の生は過去を繰り返しながら少しずつ変奏しているにすぎない。もはや思い出せない過去の記憶に耳を澄まし、聴き取った声に寄り添って新しい調べを描くのが、次世代の役割である。
傑作とは、ある肉体が生み出しながらも、当人が朽ちた後でさえ生き続ける全く別の身体であり、こちらが生み出しながら、まるで知らない人たちに種を蒔き続ける身体が、受胎された肉体からまた別の身体を呼び起こすのだ。我々は既にその連鎖に加わっている。