ラブホ日記 23/09/25

 共感するというより感情が芽生える、作品に奪われる喜びのために音楽を聴く、そんなこともあるだろう。
 明言し難かった心情を作品の内に見出し、共振し、のぼせる内に、元来の自己同一性を疑い、今日までの人生は嘘偽りだった、無理をしていた、これこそ本当のわたしだと、楽曲に似たキャラクターの演技に没頭する。次第に演じる前の記憶が朧げとなり、仮面を外せど、かつての自分の立ち振る舞いを取り戻せない。
 クロイツェル・ソナタに唆されたポズヌイシェフに働いていた心理も、これに近かったかもしれない。
 狭いラブホテルの一室、張り替え途中のシーツを手に持ちながら、途方に暮れていた。異なる四人の先輩より、スマートフォンから音楽を流してはならないと注意されたのだ。
 決定打はFさんからの指摘で、他の先輩方三人より態度が緩いため、一層真実味を持っていた。最近、出勤する上でよく顔を合わせる、仲が良い先輩である。後輩や同僚には温厚な態度を示すものの、手際は素早く、丁寧であり、組み立てたベッドにはいつも皺一つ残らない。傍ら、デスメタルバンドでボーカルを務めており、清掃する際は音楽の話で盛り上がる。シンガーとしては、排泄音に似たグロウルだけでなく、巨漢から想像もつかないほど繊細なファルセットも用いる技巧派だが、よりだらしない笑顔を浮かべて語る話題は、薬物と女性関係である。
 冬になると仲間を連れて雪国に向かい、昼間はマリファナを焚き、夜になればマッシュルームを食べ、銀色の地に腰を下ろしながら、冷たく澄んだ空気に浮かぶ無数の煌めきを楽しむ。売買で生活していた時期もあり、あるときの月収は百万を超えたものの、薬物関連で一度も捕まったことがなく、それを誇りに思う一方、喧嘩っ早い性格のため、暴行罪で度々留置所に入っている。売人時代の繋がりが今も残っており、毎日無料でマリファナをふかしていることを、うっとりとした顔つきで話していた。
 また、机の下から一向に出ない女性の話は印象に残った。
 華奢な体形で、食べ物を渡してもうずくまった姿勢を崩さないが、ドラッグの時間になると嬉々として飛び出してくる。他に好むものと言えばセックスくらいで、仲間内の男のほとんどは抱いたことのある、快楽より他に関心を持たないような女だったが、今は結婚して幸せに暮らしている。それが未だに信じられず、嘲弄するような、過ぎた日の快楽を偲ぶような薄ら笑いを浮かべながら、Fさんは「可愛いしエロいけど、馬鹿なんだよ」と締めくくった。
 もうひとり、仲が良い先輩としてHさんがいる。
 五年以上ホストで稼いだ経歴を持ち、現在はかつての客と結婚を前提に交際中、恋人の実家で相手方の両親と共に同棲している。ホスト時代、まだ客だった頃の恋人から、今まで貢いだ数百万の総額が記載された紙を突きつけられ、「お前のためにこれだけ使ったんだから、責任を取れ」と言われたことを切っ掛けに、交際が始まる。辞職後、以前より副業にしていたアパレル系の仕事で四十万近く稼ぎながら、新しく始めた深夜のラブホテルの清掃で得た三十万の月給を、太客だった頃に恋人が貢いでくれた数百万の返済にあてている。恋人の家族と暮らし始めて三年ほど経つが、由緒ある家柄らしく、他の親戚が彼を承認しないため、まだ結婚できないのだという。
 歌舞伎町の決して大きくはない店でナンバーワンの実績を誇っていたHさんは、成功を重ねるにつれ、ひとは好んで不幸を求める、甘い痛みに酔う愚かさに付け入るビジネスの機能について把握し始めた。ある日、当時の客と口論になった際、ビルの四階からその女性を突き落とした。死に至らなかった上、女性はHさんを訴えず、口論のもとであった未払い分の総額も渡してくれたものの、客としての縁は当然のごとく切れた。ただその後も女性の悪癖は治らず、後遺症として動かなくなった片脚を引きずりながら、熱心に別のホストクラブに出入りする後ろ姿を眺めて、苦しむか憎しむ感情を習慣的な快楽とする、自分を虐待する喜びに耽るため、都合のいい対象を漁る人間がいることを実感した。
 悪びれもせずに語るHさんを眺め、『死の家の記録』で描かれた囚人たちが、反省することもなく、むしろ罪多き生涯に誇りを抱いていたことを思い出した。おおよそ加害者に分類される人間は、そのような立場に追い詰められたとみずからを認知するため、苦難を乗り越え生き残った自身に矜持を覚え、罪悪感を抱くことができない。反対に、良心の呵責に苛まれる人間は、不幸に酔い、罪の意識にとどまろうと努めることで、善悪の価値観に揺らぐ自分にドラマチックな感動を抱くという、別の形で不幸を肯定している。
 先輩方から音楽を注意された昨日は、主にひとりで清掃を回しながら、彼ら二人と顔を合わすことが多く、気軽に談笑しながら仕事をこなした。
 休憩時間を迎え、Fさんは棚の下に蠢く存在に気づいた。
 後輩である自分が覗き込むと、罠にかなった鼠の瞳が、狭い薄闇の内で煌めき、震えていた。長いトングを手に持ち、三つの粘着性シートに張り付いた、若く、柔らかそうな身体つきの鼠を取り出すと、これから行われることを理解し、Hさんは静かに去った。間もなく、鉄棒を振り上げたFさんが、美しい灰色の毛並みを殴り始めた。はじめは悲鳴を漏らし、もがく震えを止めなかったが、間もなく静かになり、代わりに絵の具のように赤黒い血が散った。無垢な瞳は輝きを保ったまま飛び出し、頭部は粘土のように歪んでいる。胸より下の健康的な肉付きが、少し前まで快活な生を営んでいたことを思わせた。
 鼠を殺したFさんは、幾分俳優めいた笑顔を浮かべながら、満足そうに死骸を眺めた後、「楽しいね」とこちらに顔を向けた。映画のような血の色に、現実味を見出すことが出来ない一方、手袋越しに死骸に触れることも恐ろしい気がした。
「もし音楽が聴きたいなら、有線で流せばいい」
 Fさんの指摘を思い出して、シーツの張替え途中、ポチポチとベッドのそばに置かれた機械を弄ったが、中々いいものが見つからない。悪くないオーケストレーションだと思える映画音楽らしきものを流したが、主題が凡庸で、退屈な展開が相応しいやり方で和声の鮮烈さを濁らせていく。休憩時間に有線について調べると、A48がベートーヴェンのために設けられたチャンネルだと知り、次の清掃部屋へと赴いた際、早速スピーカーよりチャンネルを流した途端、ヴァイオリンの絶叫と激情的なピアノが対決していた。
 クロイツェル・ソナタだ、と思わず独り言を洩らした。
「毒薬のごとき音楽の告白」に「子供の頃からひどく不安だった」マルテ・ラウリツ・ブリッゲは、音楽の持つ恐ろしさについて「何より力強くこちらを宇宙の中へ高くあげるのではなく、元の場所へ連れ帰さないで、さらに深く何処かわからない混沌とした地底へ突き落としてしまう」と記しているが、アベローネの歌声と、「ライオンや天使たちさえ不安にさせる」ベートーヴェンの荒涼さには心酔していた。「無垢な耳でお前の音楽をじっと聴き入る、ひとりの童貞者が何処かにいる。彼は喜びに生命が絶えるかもしれぬ。が、もしかすればこの巨大なものを孕み、神聖に触れた頭脳が、ついに純潔な誕生の喜びに破れずにはいられぬだろう」。ベートーヴェンの恐ろしさに復讐するように小説を書いたトルストイは、シェイクスピアさえ否定した彼らしい仕草で持論を展開する。『戦争と平和』には、オペラの上演に際したナターシャが、はじめ登場人物の不自然な振る舞いに戸惑いを覚えるものの、やがて馴染み、酔ったような役者の振る舞いに浸食された末、悪徳の美男子アナトーリの誘惑に篭絡される、という場面がある。オスカー・ワイルドの命題「自然が芸術を模倣する」が思い出される。アニメ、漫画、ボーカロイドなど、創作された恋愛に見出された理想に自分を寄せるため、現実で演技をするという、探さなくとも至る所で見出される事例を、十九世紀の時点で極めて精緻に描き出したトルストイは、彼が嫌悪したよろめく官能の陶酔と我が身を切り離し難かったのだと憶測される。最初、クロイツェル・ソナタを聴いた主人公は「音楽の影響で、実際には感じていないことを感じ、理解してないことを理解し、できないこともできるような気がしてくる」「まるでそれまで知らなかった、まったく新しい情感や、新しい可能性が開けたようだ」と感動するが、後に憤慨し、否定する理由は、音楽によって乗り移った情動が、苦悩の種であった妻への嫉妬を解消する引き金となったからである。リルケ同様、トルストイは美が恐怖の始まりであることを知っていた。でなければ、小説を書く度に美しい女性を殺さなければならなかった業の深さに説明がつかない。
 ベートーヴェンに馴染んで、既に十年近く経つ。高校生の頃は、最早流行することのないクラシック音楽の不人気具合も相まって、古い時代の録音がCDボックスの形式で廉価で発売されていた。異なる演奏者によるベートーヴェンのピアノソナタ全集を、少なくとも三つは買い揃えていた。カラヤンによる交響曲全集も買ったが、その真価を知れたのはストリーミングサービスに登録して以降であり、オットー・クレンペラーの確かな構築力と明瞭なテクスト読解に出会って以来、心の底から惚れこんだ。有名な第九の緩徐楽章の妙なる調べに、それまで気づかなかったのである。ピアノソナタにしても同様であり、かつてはケンプの味わい深い解釈を好み、今もなお愛聴しているが、二十歳を少し過ぎた頃に出会った、アンドラーシュ・シフの淑やかなピアニズムは、自分の生涯に忘れがたい感銘を与えた。とりわけ彼の演奏した三十二番は、聴くたびに走馬灯が過ぎる。再生が終わる頃には、死の淵よりよみがえった想いで、何ともない風景に滲むような感動を覚えた。
 しかし、あれほど熱愛していたベートーヴェンを、自分はほとんど知らないのかもしれない。
 たとえばピアノソナタ第三番のアダージョ、情熱に固有の暗さを含んだこの転調を、今日まで傾聴したことがあったろうか。少なくとも有線で流れるまで、あの痛ましい青春の輝きを忘れていたのではないか。何度聴いたかわからない第三十番の冒頭でさえ、紺碧に注ぐ太陽のごときアルペジオが部屋中を満たした時、喘ぐようにため息を洩らした。一体いつになれば、初恋のようにのぼせることなく、音楽の美しさを愛でることができるだろう。楽譜を解析できるだけの頭脳があれば、すべてを知り尽くせるに違いない。しかし若い時間には限りがある。可能になる頃には、自分も老いているだろう。『BLEACH』の織姫のごとく、人生が五回繰り返されれば足りる、などとは思わない。永遠に若く、永遠に死を知らない人生があればいい。老いの恐れも知らず、いつまでも健康的な活力を失わないまま、新鮮な思いで一切を楽しめる、美への誇り、陶酔、健全な自己愛を損なわないまま、あらゆる研究に没頭し、終わらない青春に魅せられ続ける、そんな人生があればいい。
 しかし、この空想はやや痛々しいかもしれない。
 日入りが遅くなり、秋の始まりを感じる。先月なら退勤する頃に白けていた空は、いつの間にか暗色を崩さないまま街を見下ろしていた。やがて冬が訪れて、朝を迎えることもないまま眠りに落ち、日没の頃に寝覚め、夜の暗がりのなか、再び出勤する、そんな日常が繰り返されるだろう。
 今日の出勤途中、職場のやや手前にあるファミリーマートの上から、黒く小さな物体が降ってきた。
 行き交う人々は悲鳴を挙げ、身を捩らせ、自分も驚きのため固まった。
 着地した鼠は、音もなく靴の間を駆け、視界より消え、雑踏の揺らぐ闇へと溶けた。

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