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『ブッデンブローク家の人びと』 概要と見取り図


 たった一語を置き違えるだけで、文全体の雰囲気が異なり、言い尽くせていない気がする。推敲を重ね、書けたと思えば、細部への執着が視線を逸らし、誤字脱字を見落としている、脈絡が矛盾している。書くという行為はひとを神経質にさせる。作家とは言葉に苛立つ者である。
 他言語に移し替える以上、翻訳家は原作者と同じかそれ以上に神経をこわばらせる必要がある。ニュアンスを大事にすれば、原文にない表現を付け加えて、言葉の硬質な美しさを汚してしまう。文字通りに訳せば、細やかなニュアンスを汲み取り切れず、原文の面白さを伝え切れない。どんな言葉も時代の影響から逃れられず、数十年前の翻訳は、時に違和感を覚えさせる。読解を思い込みと無理解で埋め合わせれば、こちらの愚かさを明らかにするだけだろう。
 識字率が高く、SNSが普及した現代では、言葉の神経症もそう珍しい話ではない。一秒前の更新を取り消して、当人以外に違いもわからない書き換えを投稿するユーザーを、今日までに何度見たか知らない。正確な言葉を求める理由は何処にあるのだろう。画面越しに引き起こす効果を期待しているのか。呼び起こしたい感情、覚えて欲しい印象、共感ないし注目の的となることを望む権力欲から、言葉は恣意的に操作される。推敲した文章を披露する以上、書き手は言葉を通して演じる俳優であり、見えない眼差しを意識したSNSは、無数の俳優がひとり芝居を続ける舞台と言える。
 作品を舞台に言葉を動かす作家は、一体誰に対して演じているのか。
 トーマス・ブッデンブロークは、職業上の困難に行き詰まり、私生活の数多の苦悩に苛まれながら、買ったことも忘れていた数十年前の書物、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』をふと熟読し、幸福の涙を流す。時代も環境も異なる作品が、曇った心情を明瞭にするよろこび。どんな情念も忘れ去られ、作品に保存された情動が、他者の内で蘇る。画面越しではなく、遠く離れた民族、異なった時代、永遠に対して演じる以上、作品は永遠に生きる権利への要求である。言葉は鑑賞者を通して生き永らえる独立した生命体と言える。
『ブッデンブローク家の人びと(原題:Buddenbrooks)』は、一八世紀から続く由緒ある商家の没落を描いた大河小説である。既に一六世紀からブッデンブロークを名乗る男がいた、と一家の歴史を記す帳面には書かれているが、ブルジョワの名家は「代を追うにつれて、精神的・芸術的なものに支配され、次第に生活力が失われていく。」岩波文庫上巻に与えられた説明だが、「芸術家気質と市民性との悲痛な対立」が作者トーマス・マンの終生取り組んだ主題だという指摘は確かによく見られる。感動はひとを疲れさせ、芸術は鑑賞者から行動力を奪う、マンはそう理解していたが、思想小説ともいうべき後年の作品群に対して、『ブッデンブローク家の人びと』は乾いた客観描写の積み重ねであり、観念的な独白はトーマス・ブッデンブロークの死の間際、あるいは息子ハンノの書いた幻想曲の描写にしか現れない。音楽が流れ、部屋の余白に消失するように、一族はただ淡々と没落する。
「わたしを見ている」と仮定された眼差しが、知らず知らずにこちらの言動を支配し、俳優のように見えない何かに演技する。ヴィスコンティによる映画化でも有名な『ヴェニスに死す』は、禁欲と道徳に生きる作家が、当時の価値観では〈悪徳〉とされていた同性愛に惹かれ、懊悩する小説である(同時代のプルーストは同性愛を遺伝性の「悪徳」や「倒錯」、「遺伝的欠陥」として描いている)。一族の各々は、名家の末裔という意識から逃れられない。『ブッデンブローク家の人びと』は、対立しながらも各々をのみ込む全体のため個人が滅ぶ物語である。

トーニ︰感傷と不幸への愛

 長女トーニは冒頭から終わりまで登場する唯一のブッデンブローク家である。家族と召使に甘やかされて育った、高慢なお嬢様は、みずからの辛辣な物言いに満足し、気に食わない他人を面前で罵倒する自分に酔っていたが、思春期の真っ只中、早くも人生から鍛えられる。中年の実業家、グリューンリッヒから求愛である。
 中年男性の滑稽な容姿、言動に身震いを覚え、グリューンリッヒの馴れ馴れしい愛情表現におぞましく感じたが(呼び捨てにされ、一方的な独白で迫られたが、断れば侮辱されたように苛立ち、終いには「君がいなくては生きていけない」と泣いて芝居を打たれた)、一家には恋愛結婚の慣習がなく、婚約はただブッデンブローク家の財産が増えるか、社会的な勢力の拡大のために行われる。今日までトーニを甘やかした一切が彼女を抑圧した。
 耐え切れずに赴いたトラーヴェミュンデの海辺で、ひとりの若者に出会った。勉強家のモルテンは、内気な読書家で、将来は医者になるつもりだったが、お嬢様に身分違いの感情を覚え、彼女がいつか違う男と結婚すると怯えていた。トーニはこの青年に生まれて初めての感情を抱く。
 が、間もなくグリューンリッヒからの妨害が入り、休暇は中断された。
 帰宅したトーニは、ブッデンブローク家の歴史を記した帳面を開いた。歴史は自分が生まれる前から続き、娘は「鎖の一部」に過ぎなかった。諦めは誇りに繋がり、トーニは日付とともにグリューンリッヒとの婚約を帳面に記した。
 結婚式の際、彼女は父親に言った。

わたし、いい子だった?

『ブッデンブローク家の人びと』岩波文庫 上巻 p.237 望月市恵訳

 トーニには「どんな境遇に置かれても上手に、巧妙に、勇躍して新しい生活に順応していける優れた能力」があった。娘のエーリカを授かり、夫グリューンリッヒの破産と詐欺が露呈した後、「罪なくして不幸に見舞われた婦人という役割」がすっかり気に入り、自分は何も知らないお嬢様だったが、人生に鍛えられた、と楽しそうに悲惨な境遇を吹聴するようになった。不幸さえも人生を刺激する気晴らしに過ぎず、悩みの種が増えれば、それだけ自分が特別になった気がする。父親が亡くなり、家族揃って墓場を訪れた際、「二度ほど熱い涙に暮れはしたが」「かわいい頬を紅潮させ、目はいきいきとし、動作に威厳を帯びさせる喜び」を抑えられなかった。真剣な話し合いに改まった態度で同席し、大袈裟な言葉で亡父を褒めちぎったが、弟のクリスチアンは「そんなことをしていいのか、立ち上がる時に照れくさくないか」とも言いたげな、不安かつ複雑そうな表情で姉を眺めた。
 トーニの感傷癖は彼女の兄弟と対照的であり、「コンズルの二人の息子は、複雑な感情を率直に表すことを神経質に恐れるという点で、ブッデンブローク家にとって最初の者であった。」兄トーマスは妹の大袈裟な感情表現に耳を塞ぎたいと思い、父親の死には「誰も触れない時に、表情を変えずゆっくりと涙を溜めた。」弟のクリスチアンは「感情そのものを恐れ、逃げているようにも見えた」が、「嫌悪していたにも関わらず、姉のトーニだけを傍へ連れて行き、父親の恐ろしい死の午後のことを、根掘り葉掘り、まざまざと聞き出そうとした。」他人の無神経さには狼狽するが、感情の観察が癖になり、慎みなく分析した後、内面の告白に露出にも似た喜びを覚える。繊細な感性は、時にひとを道化に変える。
 その後、トーニの人生はどのように過ぎたのか。再婚相手とは上手くいかず、娘の成功が母親の失敗を償ってくれると期待されたが、エーリカの結婚も頓挫に終わった。人生に傷つけられるたび、自分をこれまで裏切り、失望させた男の名前を挙げたが、その数は年々増えた。
 しかし、時には初恋の海辺を思い出し、感傷的な気分になることもあった。

……そして彼女は今日までの生活を振り返り、巧みな話術で兄を楽しませた。地上に生きている間、この幸福な婦人はどんな些細なことも甘受せず、黙って我慢していることはなかった。どんな幸福も悲しみも、自分の内にしまっていられない衝動に駆られた。衝動を満足させる、常識的で、稚拙な、勿体ぶった言葉を機関銃のように乱射し、十分に口から外へ吐き出した。胃はあまり丈夫ではなかったが、気持ちは明るく、こだわりを知らなかった。もっとも自分ではそれに気づかずにいた。どんな些細なことも口に出さずにくよくよすることなく、どんな経験も黙って気持ちを重くすることもなかったから、過去にうじうじすることもなかった。波風にもまれた不幸を経験したと知ってはいたが、少しも暗さや疲れは残ってなく、本当は不幸だとも思っていなかった。ただ世間は皆不幸だと考えていたため、トーニはそれを利用し、振りかざして、吹聴した。

『ブッデンブローク家の人びと』岩波文庫下巻p.231 望月市恵訳

 弟のクリスチアンは、姉のように逞しくなかった。

クリスチアン︰道化と病人のナルシシズム

 幼い頃のクリスチアンは、病弱で、物真似が上手く、周囲の人間を笑わせるのを好んだが、兄のように優秀な生徒ではなく、長いあいだ、故郷から逃げるように海外で生活した。ロンドンは彼を感化し、家族の者はひとり残らず帰郷したクリスチアンに違和感を覚えた。
 まともに働くことができない。兄から地位を与えられれば、「この仕事はいい」と感じた理由を納得いくまで解説するが、少し日が経てばもう飽きている。劇場へ足を運び、芝居に熱狂し、他人の目も気にせずに女優の尻を追いかけては、周囲の笑いものになる。感銘を受けたピアニストの物真似をするが、音楽の才能はまるでないため、いかにも弾いているような演技に過ぎない。社交の場では多くの友人がクリスチアンの小噺に腹を抱えたが、話の内容に笑っているのか、あるいは彼自身の滑稽さを嘲笑っているのか……後者が多いのは明らかだったが、当人は気にも留めなかった。かと思えば、突然真面目な顔に戻り、くぼんだ小さい目をきょろきょろさせ、陰鬱な表情で口を閉じた。
 クリスチアンは自分がいつも重い病気だと信じていた。病人は癒えるのを恐れる。自分の苦しみに誇りと喜びを覚え、病気を見つめるあまり、感じていない苦しみまで感じ始める。

奇妙だな。……時々、飲み込めなくなるんだ。笑い事じゃない、真剣に、飲み込めなくなるんじゃないかって、不意にそんな気がしてしまう。すると、本当に飲み込めなくなるんだ。口にいれたものは下まで降りていくが、喉が、この辺の筋肉が、……まるっきりいうことを聞かなくなる。……思い通りに働かなくなるんだよ。

『ブッデンブローク家の人びと』岩波文庫中巻 p.26 望月市恵訳

 家族の者はクリスチアンの話ぶりと内容に辟易するが、いくら指摘されても口を噤むことができない。日を追うごとに他人の顔色を伺えなくなり、自分の病気に熱中し、分析するため、次第に病気にのみ込まれた。「左脚の苦痛、どことも言えない重苦しさ……最近はそれに急性の呼吸困難、喘息めいた症状が加わり、クリスチアンはそれが肺結核だと何週間も信じ込んだ。」病的であると特別であるを同一視してしまう。表現にこだわれば奇抜さに酔い、他との違いが優越と劣等を感じさせる。天才とは病気である、と『魔の山』には書いてある。病人の演技を続ければ、本当に患ってしまう。仮病は発狂への前準備である。
 晩年、クリスチアンは精神病院に入院することになるが、それまでに奇行は一層ひどくなり、所構わず自分の病的な症状、上手く動かない左半身、ソファにかけた男の幻覚などをべらべらと語り、満足のいくまで解説できたら話をやめた。兄と口論になれば、多くの病人と同様、自分の方が苦しんでいると不幸を競い、トーマスの冷酷さを告発した。

兄さんは関節リウマチで死にそうになったことがあるかい。少しでも不養生をしたら、なんともいえない重苦しさを身体に感じるのか。僕の左半身の神経はどれもあまりに短いと、専門医からはっきりと申し渡されたんだ。薄暗い部屋に入ると、誰か見知らぬ男がソファにかけていて、こちらに頷く、しかもその男は影も形もない、そんな経験があるのか。

『ブッデンブローク家の人びと』岩波文庫下巻 p.103 望月市恵訳

兄さんは人生で立派な地位を築いた。その上に立ち、落ち着きを、バランスを失わせるものを冷やかに、はっきりと意識し、少しも認めようとしない。バランスを失わないことが、兄さんには何より大事なようだが、そんなもの、特に大事でもないはずだ。兄さんはエゴイストだ。叱ったり、腹を立てたり、怒鳴ったりするならまだ好きになれそうだけど、何も言ってもらえないのがどんなにつらいことか。僕がばかを言って、兄さんが不意に口を噤む。殻に閉じこもって、隙のない、けちのつけようのない表情で、関わり合いになることを拒み、途方に暮れた僕を恥じ入らせる。それが何よりも苦しい。……何もかも、もうたくさんだ、思慮、デリカシー、バランス、身構え、勿体ぶった態度……たくさん、たくさんだ!

『ブッデンブローク家の人びと』岩波文庫下巻 p.104 望月市恵訳

「僕はただ、君のようになりたくなかった。」しばしの沈黙の後、感動したトーマスは口を開いたが、間もなく、父親が誰かもわからない、ブッデンブローク家に相応しくない女と結婚すると喚き立てる弟に苛立ち、口論は再開した。

トーマス︰抑圧と没落

 この小説の主人公トーマス・ブッデンブロークは、学業も優秀で、一族の繁栄のため、早くから仕事に就き、商売の才能を露わにした。若き実業家として着実に社会的な信頼を獲得した上、巧みなヴァイオリニスト、異国的な美貌が魅力的なゲルダ・アーノルドとの結婚は、世間を騒がせる冒険であった。他からの注目は自信に繋がり、みずからの大胆さに酔ったものの、名誉あるブッデンブローク家が、世間から落ち目に見えていないかという心配があった。

再婚の見込みはあるが、妹は出戻り女だ。…弟は滑稽で、仕事に励む人たちはクリスチアンの道化を好意的に笑うか、小馬鹿にするかして余暇を埋めている上、あいつはあちこちに借金をしている。

『ブッデンブローク家の人びと』岩波文庫中巻 p.99 望月市恵訳

 恥晒しの弟を家から追い出した。妹は「商会と一家の名に泥を塗るもの」と見られているのを察したため、再婚を考えた。
 トーマス・ブッデンブロークは俗物を嫌った。父や祖父にはない読書の趣味があり、単純な商人として生きるにはあまりにも「形而上学的」であった、と書かれているが、一見して作者の説明には納得し難い。トーマスは絶えず一族の者を抑圧し、幸福になると尊敬されるを同一視している。あるいは幸福よりも尊敬を望むため、終始ひとから笑われるところはないかと懐疑している。世間の眼差しを徹底的に内面化し、名を汚しかねないものを排除しようと努めるが、トーニの感傷癖、クリスチアンの道化は、トーマス自身の弱さの写し鏡なのかもしれない。他を抑圧したいならば、先ず自分が抑圧するものに隷属しなければならない。
 トーニの再婚は失敗に終わり、娘エーリカの生活も夫の逮捕によって頓挫した。クリスチアンはいつまでも遊び呆けていて、自分の身体に病的な兆候を読み取っては、嬉々として語ってばかりいる。おまけに誰の種かもわからない子供を自分のものだと思い込み、ブッデンブロークの名に相応しくない女に熱を上げている。しかし、悪いことばかりではなかった。ゲルダとの間に後取りとなるべき息子を授かった。参事会員の地位に就いた。日に何度も服装を変える「おしゃれ」を怠らず、豪奢な新居を立て、やがて「市長の右腕」として敵対勢力ハーゲンシュトレーム家にも認められた。けれども幸福への懐疑は不意に現れ、嘲るように神経をくすぐった。最も明るく光る星も、間もなく闇に溶けてしまう。目に見えるようになった時、幸福は既に終わり始めているのではないか……。
 妹クララの死、相続の失敗、クリスチアンの借金、戦争、恐慌。数多の不幸がブッデンブローク家を襲った。トーニの学生時代の友人の夫、破産寸前の貴族に融資し、高利貸しのように振る舞うべきだとすすめられるが、貧困の末、融資先の貴族は自殺してしまう。「個人としては疲れ果ててしまい、希望も持てないが、幼い後継者を見れば、有能、実際的なのびのびとした仕事、成功、利植、権力、富、名誉の夢に、今も酔うことができる……。」そのはずだったが、息子ハンノは音楽に熱中し、成績は冴えず、男らしいところもない。既に十分すぎるくらいトーマスを失望させていた。妻は自分を尊敬しているが、彼女は音楽を解する男にしか心が開けない。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが弾けるトロータ少尉と不倫していた。更に母の死、生家の売却、ハーゲンシュトレーム家による買取……。不幸は伝染病である。もはや収拾がつかなかった。
 何故守ろうとした一切が崩れていくのか。幸福とはやがて来る不幸の前触れに過ぎないのか。日を重ねるごとに疲労が彼を圧迫し、一家の百年祭には多くのひとが祝いに駆けつけてくれたが、はやくひとりになりたい、という願望ばかりが頭に浮かんだ。冷たい孤独の安らぎに戻れば、座り込んで姿勢を崩さず、カーテンの合間からのぞく暗闇を、瞬きもせず見つめ続けた。あるいは「両手を後ろに組んで、一列に並んでいる部屋のあちらからこちらへと歩き回り、彷徨っていた。」

ひとりになると、同じ人間とは思えないほど顔が変わった。口の周りの筋肉は、訓練されて思い通りになり、弛緩させたことのない意志の緊張で制御されていたが、誰もいないと弛緩してしまい、しまりがなくなった。注意力、思慮、如才なさ、精力などは、長い間意志の力で無理に顔へかけてきた仮面であって、緊張が緩むとずり落ち、疲れ切った、歪んだ素顔が露わになった。目はどんよりと曇り、まわりのものに向けられていたが、何も見ていなかったし、赤くなって涙がすぐに溜まるようになった。……自分を騙していようという気力もなくなり、頭は重く濁って、混乱してしまい、後から後から渦巻く様々な想念から、はっきりと掴むことのできたのは、ただひとつ、絶望的な想念だけであった。つまり、トーマス・ブッデンブロークは、四二歳で疲れ切ってしまったという想念である。

『ブッデンブローク家の人びと』岩波文庫 中巻 p.316 望月市恵訳

トーマス・ブッデンブロークの生活は、俳優のそれと少しも変わらなかった。生活の一切が、日常の些事までが演技になった。ひとりきりになって緊張を緩められる僅かな短い時間を除くと、絶えず全注意を緊張させ、神経を消耗させる演技が続いた。……心から熱中できて、打ち込めるような興味をそそる対象がひとつもなく、胸の内が荒涼として空疎で、……この空疎感は深刻で、ほとんど四六時中、いつも漠然と心にのしかかっている苦悩のように感じられたが……それがどんな犠牲を払っても体面を守ろうとする義務に結びつき、手段を尽くして内心の荒涼を世間の目に触れさせまい、「体裁」をつくろうという激しい義務感、粘り強い決意に結びついて、生活を演技に変えさせ、作為的かつ意識的なもの、不自然なものに変容し、人前で口にするどんな言葉、一挙手一投足、どんなに小さな動きも演技に変わっていまい、神経を緊張させ、精根を使い果たさせた。

『ブッデンブローク家の人びと』岩波文庫 下巻 p.155 望月市恵訳

 自分が頂点を過ぎた、無能な人間であると感じていた。「おしゃれ」は未だに続けていたが、「取引所の飾り物」と揶揄され、いつの間にか、トーマスは自分が恐れた道化に成り下がっていた。妻の不貞は、愛する女の裏切りというより、世間に恥を晒すかもしれないという恐怖の印象と結びついた。内心の苦悩、憎悪、無力を、誰にも悟られてはならないが、じっとしていられない、重苦しい不安に襲われた。解消しようと思い、妻と少尉の不倫現場を押さえるため、ドアノブに手をかけたが、世間から滑稽に思われるのが恐ろしく、躊躇った。
 そのような苦悩の最中、トーマスは息子ハンノと話す偶然を得た。いつものように味気ない会話の最中、ふと、不安に慄く秘めやかな、哀願に近い声が、囁いた。

少尉とママは二時間も一緒だね、ハンノ。

『ブッデンブローク家の人びと』岩波文庫下巻 p.202 望月市恵訳

 その時、ふたりの目が合い、両者の間にあった無理解と無関心、気づまりと誤解が消滅した。トーマス・ブッデンブロークは、精力、有能、明朗な生活力が問題にならず、不安と苦悩が問題になる場合、息子の愛情と信頼を期待できると感じた。ふたりは弱さにおいて同じ直線上に置かれていたが、それを悟りはしなかった。
 間近い死に怯える日々の最中、何年も前にあずまやで買った『意志と表象としての世界』をおもむろに開き、まる四時間、熱中して読み耽った。この世界が「考えうる限り最も醜い世界だと、ユーモアに満ちた嘲笑で証明された。」「重たい、暗い、陶酔に溢れた、まとまったことを考えられない夢見心地」は、本を閉じた後も続き、夕暮れを迎えた。一八七四年の夏の盛りであった。
 自室に戻り、三時間ほど熟睡した。その後、目の前の闇が不意に裂けて、夜のビロードが口を開き、永遠の光に溢れた、深い、果てしない世界を見渡した。
 トーマス・ブッデンブロークは涙を流した。顔を枕に押し当て、身体を震わせながら、この世の何よりも切ない、甘美な幸福感に陶酔し、興奮した。それは整然とした思考ではなく、内心を不意に照らし出す閃きであった。

僕は人生を憎んだことがあったろうか。この純粋で残忍な、逞しい人生を。とんでもない。僕はただ、人生に堪える力のない自分を憎んだだけだ。

『ブッデンブローク家の人びと』岩波文庫下巻 p.213 望月市恵訳

 次の瞬間には何故泣いているのかもわからず、この深い幸福感を二度と手放したくない、勉強と読書で自分のものにしてしまおう、そう決心したが、翌朝には「既に前日の精神的な逸脱を少し照れくさく覚え」、あの夜の経験が商人の自分には滑稽だったのではないかと疑問に思い、うっかりしまい忘れていた『意志と表象としての世界』は元の位置に戻され、その後、開くこともなかった。
 トーマス・ブッデンブロークは頓死した。歯を一本抜いた、ただそれだけのために、彼は途方もない苦痛を味わい、帰り道に倒れ、二度と起き上がることはなかった。トーニは感情のままに泣きじゃくり、死人のために夢中で讃美歌を歌い始めたが、終わりまで覚えていなくて、声を高めてぷつんとやめ、態度を厳しくすることで、あとを誤魔化した。その他、絶望の叫びを挙げ、泣きながら未亡人の首に抱きついたが、おかげですっきりして、再び元気になった。クリスチアンが最初に放った言葉は「こんなことがあっていいものか」であった。死は気まぐれな独断と依怙贔屓でトーマスを選び出し、正当化し、容認し、迎え入れ、身勝手にも畏怖と恐怖の対象に高めてしまった。おかげでいくら自分が病的だと訴えても、誰からも本気で心配されず、いくつもの茶番と意地悪で揶揄される。トーマスはいつも自分の訴えを冷ややかに軽蔑した。今は彼が正しいのか、思い上がりなのかもわからず、ただ後に残ったクリスチアンに恥を覚えさせるだけであった。
 家族皆で死亡通知を書いている最中、不意にハンノが笑い出した。臨終の際に流した涙は忘れ去られ、何故笑っているのかもわからなかった。母親はハンノをベッドに引き取らせた。

ハンノ:芸術家気質と同性愛

 当初、『ブッデンブローク家の人びと』は四代目ハンノ・ブッデンブロークを中心に据える予定であったが、書き進めるにつれて、小説は一家の崩壊の物語に移行した。病弱で芸術的な感性の優れたハンノは、作者トーマス・マン自身が最も反映された、何処となく『トニオ・クレーゲル』を想起させる少年だが、彼と対立し、抑圧する父親を主人公に設定した点に、小説のユニークさがある。トーマスからハンノに物語の中心が移る時、既に『ブッデンブローク家の人びと』は終わりを迎えつつあり、夭折する少年は、その後マンの小説で取り扱われる二つの主題を体現している。すなわち、芸術家気質と同性愛である。
「芸術家」という言葉が想起させる高尚な印象に反して、ハンノ少年は極めて怠惰で、女家族に甘やかされ、男らしくない、夢見がちな性格をしていた。成績は芳しからず、友達もひとりしかいなかった上、父親と敵対関係にあるハーゲンシュトレーム家の息子たちにはよくいじめられた。生まれた頃から発育に問題があり、病弱であるが故の苦悩が、彼を「日常のみじめさから、やさしい、甘美な、満ち足りた、荘厳さを感じさせる音楽の世界へ」引き寄せることに繋がった。身体的な特徴は両親のどちらからも引き継いていたが、精神面はゲルダに近く、ヴァイオリニストであった母親は、少年に貪欲な音楽への好奇心を植え付けた。ピアノを習う前からバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、当時最前衛であったワーグナーの世界に慣れ親しみ、ゲルダのヴァイオリンに伴奏を添え、のちにハンノにピアノと音楽理論を教えるピュール氏は、聴き手を惑わすワーグナーの陶酔について「芸術からすべての道徳を奪ってしまう混沌、扇動、冒涜、妖気」と評している。美はひとを怠惰にさせる。
 七歳からピアノを始め、八歳の誕生日には自作の幻想曲、簡単なモチーフながらに独創的な特徴のあるものを書いて、一族を前に披露した。音楽にまつわる描写は、その後のマンに度々見受けられる観念的な叙述で、ハンノが書いた別の幻想曲が物語の終盤に登場する際も、邦訳にして五頁に渡り、行替えもない魔術めいた思弁が続く。
 父親トーマス・ブッデンブロークとは打ち解けない仲であり、多くの親が陥るセカンドライフ・シンドロームとして、息子に自分の人生の不運を償って欲しいと望まれている。ハンノは家業に関心が持てず、父親の仕事に同行しても、子供らしい鋭い眼差しでトーマスの道化芝居を見抜くばかりである。
 ハンノの唯一の友人カイは、貧しい貴族の末裔で、授業中にエドガー・アラン・ポーの小説を読み耽っては自作の執筆に勤しむ文学少年であった。ふたりの出会いは印象的であり、ハンノは「カイの白い額、切長の水色の目、細い唇、憤然とした、怪訝そうな表情で不敵に直視する目」に惹かれ、「誰からも構ってもらえないカイ少年は、エレガントな服装をしている静かなハンノの愛情を、情熱をもって、攻撃的な男性らしさで求めた。それは抵抗できないような熱情であった。」幼い頃に出会ったふたりの友情は、死が彼らを引き裂くまで続く。一五歳を過ぎた頃、「ふたりは不思議な年齢であった。カイは真っ赤になった顔を下げずに、目だけを地面に落とし、ハンノは青い顔をしていた。にこりともせず、厳しい顔をして、暗鬱な目を逸らしていた。」

ハンノの最後の病気は深い謎に包まれていた。……カイ少年は、皆を押し退けるように病室へ入り、誰の顔も見分けられなくなっていたハンノは、友人の声を聞くと、にっこりと微笑した。カイはハンノの両手に唇を当て続けた。

『ブッデンブローク家の人びと』岩波文庫下巻 p.349 望月市恵訳

 ふたりの友情がいかなる意味を持っていたのか。ブッデンブローク家の婦人たちはしばらくその謎について話し合った。

総括

「創作とは自分を裁くことだ」というイプセンの言葉を、マンは若き日の短編集『トリスタン』の巻頭に掲げている。勝負とは何かに賭けることを前提としているが、トーマス・マンの一生は、何にも賭けない、すべてに対して距離をとって考える点に特徴がある、と翻訳者の望月市恵は書いている。描写は客観ないし中立的で、皮肉とユーモアを感じさせる人物造形は、どのキャラクターに肩入れすることもなく、後年の小説では芸術家と詐欺師を隣り合わせる。自虐的なナルシストは、うぬぼれながらも自他を裁かずにはいられない。皮肉を言えば、疼くような痛みとよろこびに卑しい微笑みを浮かべる。
『ブッデンブローク家の人びと』は一九世紀を舞台にした小説であり、一家の没落は市民時代から帝国主義への移行と重なる。「ある家族の没落」という副題が添えられた当作品は「市民時代の終わりを告げる〈白鳥の歌〉」として「イギリス、フランスの若者の心を打った」が、帝国主義以降の時代、いかに名づけるべきかも知らない現代を生きる我々にはどう映るのか。そもそも現代において、このような古典小説を読む必要はあるのか。
「純文学」という日本独自のいかがわしい概念がある一方、小説は元々新聞に連載されるような「娯楽」であって、マンは『芸術家と社会』という批評で、わざわざ「今日、文学芸術の主要なジャンルと形式は小説である」と擁護している。日本でも、夏目漱石が『虞美人草』を朝日新聞に連載した際、東京帝国大学の講師が職を辞して作家になる、ということで大きな話題になった。起源から考えて、小説は娯楽性の高い、通俗的なもので、今では同じ役割を漫画やアニメ、映画が担っている。人物描写を積み重ね、物語を進行させる古典小説は、絵や俳優を実際に躍動させる視覚芸術に比べれば、直接性が低く、時代遅れと言えるかもしれない。
 フェルナンド・ペソアは「芸術が何かを言おうとする以上、あらゆる芸術は文学の一形式」であり、「言葉は世界を含んでいる。自由な言葉は世界について語り思考するあらゆる可能性を含んでいるため、散文は芸術全体を包括する」と書いているが、そもそも文学、小説でそれを試みる必要があるのか。文章で思弁を駆使したいならば、哲学がふさわしいだろう。
 若き日のドゥルーズはヒュームに熱中し、イギリスの強烈な懐疑論者から「この世界の虚構性」を学んだ。一つのものを別の対象との関係、比較の内で認識する以上、比較対象を持たないものは認識しえず、空想において補うより他ない。我々が普段から前提にしている〈世界〉は、考察し得ないものを空想で補うことで成り立つため、何処かで想像上の産物にならざるを得ない。

〈世界〉は唯一無比であり、例外であり、偶発的なものである。〈世界〉は種を持たず、それは対象ではない。対象は世界のなかにしかない。〈世界〉そのものは、知性の対象ではありえないのだ。〈世界〉は想像力の主題であり、空想の虚構であり、合法的な因果関係のなかにそれが項として入り込むことは決してありえない。

『ヒューム』p.80 ちくま学芸文庫 合田正人訳

 自然科学は実験や観察、資料整理を通して結果を導き出すが、哲学は概念を駆使して〈真理〉、〈道徳〉、〈トラウマ〉などの起源を問う。証明不可能な起源、発生を思弁ないし観念で解き明かそうとするため、時には議論が胡散臭い方向へ流れ、結果として精神分析のようにいかがわしい印象を与える分野も発足する。読書の快楽が、捉え難い感覚が可視化されるために生じるのだとしたら、文学は哲学とは異なった形で、表現されていないものに言語ないし思考を与える試みである。発生を問うのではなく、ただ言葉によって描写するために明らかになる問題があり、そのため作品は別の現実を内側に孕む必要がある。〈世界〉が虚構なのだとしたら、同じ虚構こそが〈世界〉をより強く動かすのであり、キリスト教徒たちは二〇〇〇年以上前からいるかわからない神を崇め続け、聖書の内に生み出された現実は今なお世界史を揺り動かしている。現実と競合する別の現実があり、言葉によって物語ることは、思考に直接訴える以上、たとえ娯楽、通俗的なものであろうと、時には漫画やアニメ、映画以上に強く人間を揺さぶることに繋がる。
『ブッデンブローク家の人びと』を下敷きに自身の代表作を書いた北杜夫は「トーマス・マンのすべての作品が滅んでも、『ブッデンブロークス』だけは、いつまでも後に残るだろう」と言った。他にも多くトーマス・マンの著作を訳した望月市恵は「薔薇の蕾にやがて開く花びらのすべてが含まれているように、『ブッデンブロークス』にはトーマス・マンの一切が既に含まれている」と述べた。実際、二五、六歳という驚くべき若さで書き上げたこの傑作のために、マンはノーベル文学賞を受賞している。人間が人間である以上、マンの自虐的かつ中立を崩さない描写は現代的であり続ける。作品は永遠に生きる権利を要求する。『ブッデンブローク家の人びと』は、言葉が滅ぶまで生き延びる傑作である。
 現在、岩波文庫から出版されている『ブッデンブローク家の人びと』は、邦訳にして三巻に及ぶ長大な物語である。当然、この場ですべてを語り尽くせるわけがない。筆者の能力上、現在はこれが限界である。

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