日記23/06/17

「芸術作品は無限に孤独なものであり、批評程これに達するに不可能なものはなく、ただ愛のみが引き留め、公平に接することができる」というリルケの言葉は、ベルクソン的な意味で捉えなければならない。追憶する際、動きのない過去に身を置き、やがて記憶は現在の要求に合わせて形を変える。作品を愛するとは、それに内在する世界に身を置くことであり、潜水するに等しい行為だ。大気に顔を出した人間が、肩で息しながら海中で見た景色を語る。感動はひとを疲れさせる。傑作と呼ばれるものは、いかなる形式であれ我々を追い詰める。
 二種類の感動がある。ひとつは共感が呼ぶ感動であり、「行き止まりならやり直せるかい/ここは罪深く暗い/鼠と猫が仲良くゲロ啜る/金蠅の羽音が耳くすぐる」という歌詞を耳にした際、「ああこれは俺の人生そのものだ」と自己憐憫めいた陶酔に瞼を閉じるのは、語られざる、あるいは本人もはっきりと認知していなかった感情を作品が代わりに言語化ないし表現してくれるからだろう。もうひとつは、共感を許さない感動である。モーツァルトの弦楽五重奏曲ホ短調を初めて聴いた際、その奇妙な性格に驚かされた。始まりから終楽章の中途まで保たれた、陰鬱ないし薄幸な印象が突如として拭われ、軽快で力強くさえある調子で躍動するが、楽想の急激な変化に感情が追い付かず、置き去りにされたまま、作者に不気味な印象を抱く。著作でよく笑うニーチェに寂莫な印象を見出さずにいられないように、ユーモアは孤独の影と切り離せない。西洋音楽の歴史をたどると、波乱に富んだ生涯を送らなかった作曲家の方が少ないとわかる。モーツァルトの貧困、ベートーヴェンの病気、ウェーベルンの銃殺。ショスタコーヴィチも例に漏れず、体制からの抑圧と個人の情熱の間で葛藤した作曲家として知られるが、先達の三者と同様、彼自身がいかなる人間であったかは謎に包まれている。証言や手紙は残っておれど、どれに依拠するべきか不確実で、信頼に値する資料が乏しい、虚実の区別がつかない状態でしか生涯を語ることが出来ない。死者は伝記を持たないのだ。
 音楽を聴けば、創作者について理解した気になれるかもしれないが、その共感は欺瞞であり、言葉に残されていないものを身勝手な空想で補っているに過ぎない。ショスタコーヴィチは十五の弦楽四重奏曲を残した。標題的かつ映像的な描写と、それを否定するように支離滅裂な、分裂症めいた展開の連続が、鑑賞者の安易な共感を拒絶するが、深海に沈む城に迷い込み、堅牢で不可解な音像に戸惑いながらも「何故こんな曲を書いたのだろう」と惹かれる様は、ポーの小説の囚人に似ている。
 十五という数字は交響曲にも通ずる。尊敬するマーラーと並ぶ二十世紀を代表する交響曲作家だが、誇大妄想的な師が過剰な主観作用のために無理解に晒されたのと対照的に、ショスタコーヴィチのリアリズムは度々生前の彼を攻撃の的に変えた。数多の作曲家が重く意味を込めた第九に、軽妙さとそこはかとない虚無感を含ませた者は他にいない。グロテスクな油絵のような管弦楽法も魅力的だが、ショスタコーヴィチの冷徹な音選びは、大規模な編成より室内楽曲においてこそ本分が発揮されると思われる。二十四の前奏曲とフーガ、ピアノ五重奏曲ト短調、先に書いた十五の弦楽四重奏曲。一つひとつの音が細密に絡み合い、走馬灯が駆けるよう肉薄とした旋律に呼吸が止まるが、次の瞬間が先刻の甘美さを裏切り、鑑賞者は我が身に何が起きたかを自問する。自分をよく知ってもらおうと、耳障りな言葉を重ねる者がいるが、説明を伴わない作品ほどこちらの感情に揺さぶりをかけることがあるのを知らないようだ。解き明かす言葉を持たず、目の前に浮かびながらこちらを巻き込み、何も語らないまま底へと引き込まれ、名付け難い不気味な情動が吹き込まれる。ショスタコーヴィチの音楽に触れてから、既に十年が経過している。ジャレットが演奏した二十四の前奏曲とフーガ、エマーソン弦楽四重奏団が録音した十五の弦楽四重奏曲、どちらもCDで買って聴いたが、今は手元になく、ストリーミングサービスで済ませている。当時とは暮らす環境も異なり、取り巻くものが違う以上、生活の最中で抱く感情も昔にないものがある。しかし、十年前と同じ音楽に、かつてとは異なる感想を抱きながら、同じように驚き、感動している。十代の頃に好きだった音楽を聴き返すことには感傷的な意味が含まれる。かつて熱中したものを再生し、当時の感情を思い出しながら、ノスタルジックな想いを舐める態度は、作品自体を愉しんでいるというよりそれにまつわる記憶に酔っているというべき状態だ。誰かを愛しているというよりその者と過ごした記憶に執着しているひとにも似て、本心では対象に飽き、何処となく冷めた眼差しで眺めているものの、共に過ごした時間が稀有な輝きを帯びているため、切り捨てることが難しい。結局、流されるように「やはり自分はこれが好きだ」と暗示する。しかし実際のところ、感動は「私」と言わず、作品の中で文字通り我を失うのである。
 十年という歳月を無に帰する力を持つ以上、芸術作品には一般的な時間を超克する力がある。あるいは、起源的な時間を生み出すことが可能である、と書くべきかもしれない。「常識を覆す」という紋切型は、結局突き破る常識の範囲内でなければ生まれないため、相応しくない。作品に感動する者は、一時的であれ常識を忘れている。そのため、一般的な意味とは異なる時間を生み出す起源として、芸術作品は新たな価値判断の基準を創造する数少ない手段のひとつである。情報伝達の手段として言語が介在しないため、無媒介な状態で作者のモナドが開示される様から、「美しい書物は一種の外国語で書かれている」というプルーストの言葉が真実であると判明する。伝記的な事実が理解を助ける場合もある。しかし、安易に答え合わせをしたつもりになって、共感や崇拝の感情から作者を肥大化もしくは矮小化させる錯覚に陥る可能性があり、ひとつの謎以上のものでない他者を蔑ろにすることに繋がる場合も否定できない。たとえ耳が聞こえたとしても、ベートーヴェンの音楽は美しい。ひとりの者の内に解き明かすべき秘密があるように追いかけることは、こちらの身勝手な妄想で相手を縛り付けるに等しく、期待していたものが内在しないと気づけば飽きて手放すその態度は、夢見がちな人間が恋愛でよく示す傲慢な態度に似ている。
 もしかすると、感動は既に気づかない内に日常に忍び込んでいるものなのかもしれない。慣れ親しんだショスタコーヴィチの音楽から、十年もの間見逃していた啓示を受け取るのと同様の事件が、自分にとって日常の一部となった別のものから引き起こされることもあるだろう。
 批評を否定したリルケがロダンについて美しい評伝を残したことはよく知られており、詩人の態度はサント=ブーヴに反論するプルーストと同じだと解釈しなければならないが、人生の美しさを否定した彼が生涯の半ばまで社交家として名を馳せていたことも有名である。チェーホフの六号病棟で、ストア派めいた説教を垂れる医者に、あなたは自分より苦しんでいない、ある程度恵まれているから賢者のように振る舞えるのだと、狂人が反発する姿が頭に浮かぶ……。
 結局、あるものの否定はそれに近しいものでなければできない、と結ぶのはやや凡庸だろうか。

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