読書と日々 三

 駅に着いて間もない頃、二二時二五分発の電車が現れた。
 堅く滑らかな座席にどすんと座り込んで、どれを読もうかなとバッグを漁りながら、突如、おもむろに開いた一頁が、甘い痛みに震える共感を呼び起こした。荒々しく抱かれるような痛みと快楽に悶えながら、残された種は、やがて来たるべき思考の萌芽となるが、読書の醍醐味とも言えるこの瞬間を、本を読むひとは必ず経験する。
 ── 今のように、これまでに幾度も、感じていることを感じて苦しんだ。ただ感じるだけで苦悩し、存在することに不安を覚え、知らない何かへの懐かしさを知覚する。
 神経質であるとは感覚に苦しむことであるが、そう考える自分を繊細な人間と言うつもりはなく、ただ傾けられた細い針先が、ゆっくりとこちらを刺しながら、徐々に身体に埋もれていく様をスローモーションで眺めているかのように、一コマ一コマに分解された日常を手に取ってそのまま解剖するにも似た苦しみが、感じることには含まれている。あるいは感じることをきっかけに、苦痛を伴いながら日常が細やかにほどける。過ぎ去る一秒に二四枚の写真が詰められた映画のように、今この瞬間に発現する観念にさえ、無数の声がひしめく背景があり、微粒子の奏でる見えないドラマが多声的に重なり合いながら、刻一刻と互いに深く織り交じる。思考とは、知覚された苦しみを契機に、日常の細部へとのまれていく現象を指す。
 ならば、最早何も感じる必要がなく、考える必要も、苦しむ必要もない場所、窓も扉も持たず、何処から入り、何処から出るかもわからない密室に閉じこもりたい、と途方もない無為への欲求が頭をもたげ始めたが、余計な思考を持て余す内に、頁をめくる手は止まり、視線が上の空に逸れた先には、乗換駅を示す文字が表示されていた。
 本を片手に、急いで電車から飛び降りた。
 四番線から二番線のプラットホームへ移動して、読書しながら電車を待ち、二、三分後に到着した車両に乗り、再び本を開き、先ほどの続きを読み始めるが、家を出た際とは異なる音楽、もう聴き慣れたはずの曲に意識をそらされ、青白い光に満たされた車内の虚ろさにのまれかけたが、今度は何を考えるわけでもなく、ただ夢を見ているように我を失い、万華鏡のように次々と浮かぶ想念の連続に身をゆだねながら、ぽかんと口を開けていた。シームレスに移ろう輪郭は、コンマ一秒レベルで変容を続け、気付けば少し前とはまるで異なる事物が映っている。
 再び、見覚えのある文字が扉の上に表示され始めた。職場の最寄り駅にそろそろ着くらしい。
 今流れている音楽を止め、どうせこれ以上は集中できない、と数頁しか読なかった本をしまい、出勤する前に聴いておきたいと思っていた曲を再生する頃、扉が開く音が右横から鳴り始め、腰を上げた。
 ── 輪郭を伝う、夢や愛を無色に変えながら、という印象的な歌いだしを耳にしながら、ふとこの詩が二番の歌い出しに呼応していると気付いた。 ── 写実家のように、限りなく現実を描き出す。輪郭をなぞることが、主にロマンチックな意味で用いられる「夢や愛」を無色に移ろわせるならば、何故「限りなく現実を描き出す」必要があるのだろう、そう考える耳元に、盛り上がりを迎えながら、幻想的な詩が繰り返される。
 ── 夢から夢へガラスの道へ、夢から涙さえ消え去って、夢から覚めたこの世界では、思い出さえ夢となり。
 二二時五五分頃、ラブホテルに到着した。
 打刻を済ませ、フロントと会話する内に出勤時間を迎えたが、さっそく作業に取り掛かるわけでもなく、清掃待ちの部屋がなければ雑談を続け、あるいは仕事用の鞄を整理ながら、天井近くに掲げられた液晶モニターを仰ぐように見つめるものの、二三時五分頃、画面の斜め上の文字が赤く点滅し始め、愛想はいいが人間らしい抑揚を持たない機械音声が「三〇一、チェックイン中、ドアオープンです」と告げるのに併せて、身構えるように準備を始めた。
 待機室の扉を開くと、三〇一号室から出てきたと思われる男女二人組が、レジ前に既に着いており、顔が上手く見えないフロントに鍵を渡していた。和気あいあいと楽しそうに肩を寄せ合う恋人たちを横目に、大股でロビーを通る最中、「三〇一、作業を始めてください」という合図を背中越しに耳にした。
 狭く、薄暗い階段を歩く途中、立ち止まり、ワイヤレスイヤホンを接続し、今日流す音楽について考えた。最近はキース・ジャレットの即興演奏を聴いている。四〇分に及ぶ演奏の最中、あらゆる和音を巻き込みながら変容をやめないピアノの旋律は、一分ごとに模様を移ろわせ、聴き始めてから十分経つ頃には、始まりのモチーフは最早見る影もなく、知らぬ間に背景に溶けている。清掃中に流せば、今自分が何処にいるかも忘れて、機械的に動く身体を見下ろす冷たい意識の眼差しを覚えながら、一体なにが起こっているのか、俺は誰なのかと、無限に開く花びらのように取り留めのない思考に耽り始める。時計の針が曲がり、時間と私の平常な感覚を失っていく喜びは、中々得難いものである。
 三〇一号室の扉を開け、薄暗く、汗ばんだ肉体のぬくもりが未ださめない部屋の湿り気に顔をしかめつつ、床に置かれた籠を一瞥し、足りない衣類を確認すると、開け放した部屋のすぐ隣にあるリネン庫に向かい、タオルセット、シーツセット、包布、フェイスタオル一枚を片腕で抱きかかえながら、空いた手でフローリングワイパーを持ち、においのこもる薄闇へと戻った。かごにタオルセットを載せ、近くに置かれたゴミ箱を空にすると、片手にゴミ袋を下げ、別の五本指でハンドタオルを掴みながら、汚れた洗面台より、使用済みの歯ブラシ等を回収した。その間にも横目で見つめていた浴室に入り、湯が張られていないか確認した後、通り過ぎる洗面台の上に清掃用のフェイスタオルを置き、もう片方の手からゴミ袋を下げたまま、寝台へと向かった。使用済みの包布、ピロウケース、シーツを剝がしていく最中、ふと天井を眺めれば、耳元から流れる音楽の独白が一帯を支配し、閉ざされ、湿った薄闇にひとりぼっちで佇み、この世のあらゆるものが自分から遠ざかっていくような孤独感に固有の陶酔が、にじむように溢れ、我が身を満たした。ああ、静かな興奮に震える感動の深みよ。
 剥がし終えたシーツ類を洗面台の方へ投げ、ベッド近くに置かれた机に載ったリモコンを操作し、清掃員用のモニターを表示すると間もなく、地平線の彼方から響くさざ波のように細やかな機械音声が「三〇二、作業を始めてください」と告げると同時に、三〇二号室を表示する液晶の片隅が橙から青に変色した。改めてリネンモニターを眺めると、残り休憩が三部屋、清掃待ちと宿泊が一部屋ずつある。どの休憩も一時までに退出してくれればいいが、と考えている矢先、二〇一号室が黄から橙に変わり、「会計中」の文字が表示されて間もなく、「二〇一、作業を始めてください」と合図する機械音声に伴い、橙が青に入れ替わった。このまま三〇一、三〇二、二〇一と下るように清掃を片付けていき、一階に降りる頃には一〇一が清掃待ちになっていれば、流れるように仕事が片付くし、一〇一に取り組むうちに、別の棟の部屋が出てくれれば……と、取り留めなく考えながら、お手洗いに入り、便座を軽くふいて、トイレットペーパーを三角折にした後、生理用品が使用されていないかを確認した。
 トイレ掃除が終わり、あとはベッド、洗面、浴室を売りに出せるよう仕上げれば済むが、普段通り、眠るように働けば、知らぬ間に作業を終えているだろう。
「よおし、やるぞお」
 声音はいかにもだらしなく、気だるげにベッドに向き合い、折りたたまれたシーツに挟まれた二枚のピロウケースを取り出し、枕を張り替えたあと、右斜め後ろにある机に二つの枕を置き、長方形にまとめられたシーツを躍らせるように開き、勢いよく舞わせると、一面が真っ白に染まり、手入れしながらシーツが脱げないように固定し、強く引っ張って皺を伸ばした上、純白に着せ替えられた二つの枕を窓側へと投げ、並ばせた。
 次は包布である。しゅるしゅると音を立てながら、ぶあつく黄ばんでもいる掛け布団に滑らかな白い膜を張り、ベッドの上にかける。清掃中、一番の愉しみとも言えるベッドメイキングは、他の箇所より機械的な手順で仕上げられるが、皺ひとつないシーツを張り、綺麗に着せ替えた掛布団が、湿り気のこびりついたラブホテルの薄闇で未使用の美しさを光らせているさまには、間もなく初夜を捧げる娘を見送る父親のような愛情を覚える、とまで書くとやや冗談が行き過ぎるが、綺麗に仕上げたベッドを満足しつつ眺めるのは、ラブホ清掃員の多くに共通して言えることに違いない。
 液晶画面に映る三〇一号室は、緑色に染まりながら「清掃中」の文字を掲げ、開始から既に一〇分が経過していることが表示されていた。あと一〇分以内に清掃を終えなければならない。ベッドの前から去り、洗面台の前に積まれた使用済みのタオル類を、隣に開かれた浴室の床に、ベッドを組み立てる時と同じ要領でふわりと広げた。使用済みのリネンたち(ヨゴレ、と清掃員の間では呼ばれている)に浴室の水滴を吸い込ませている内に、洗面器の隣に置かれた籠を確認し、歯ブラシやヘアゴムなど、足りないアメニティ類の補充を行ったあと、フェイスタオルで洗面器の水滴を拭き取り、ついで蛇口周りに付着した水の染みや、鏡をぼかす汚れ等をぬぐっていく。一連の流れを終える頃には、客の汗が染みこんだタオルは十分に浴室の床の水分をも吸収してくれているから、あとは壁や浴槽、シャンプーボトル類などについた水滴を拭き取るだけである。無論、その際に用いる布にも客の体液はしみ込んでいる。
 ひと塊りにしたヨゴレを清掃用鞄と並んで部屋の前に置いた後、ワイパーで床に落ちた髪などを拭き取りながら、最終チェックを行う最中、モニターが三〇一号室を清掃し始めてから既に一九分が経過していると教えてくれた。もうこの部屋の清掃を終えなければならない。
 モニターを消し、純白のベッドの上に芳香剤を振りまき、部屋が明るすぎたり、暗すぎたりしては性欲がそがれるだろうという思いやりから、照明を可能な限りセクシーに調整した後、ワイパーで床をふきながら玄関まで戻り、部屋から出て、鍵を閉めた。スマートホンを開くと、二三時三〇分の文字が待ち受け画面に表示されていた。これから午前一時になるまでの間、昏々と清掃し続けるだろう。
 ヨゴレ類とワイパー、清掃用バッグを両手に持ち、目の前の三〇二号室の扉を開いて、次の清掃を開始した。

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