読書と日々 四

 胃を締め付ける空腹を覚える頃、時刻は零時三〇分を過ぎ、出勤してから四つ目の作業場となる一〇一号室を清掃していた。
 喘ぐように息を漏らし、顎を斜めに持ちあげながら、ほとんどうわの空で着せ替えていたベッドの上に目線を向け、生温かく溶ける照明の黄ばんだ色彩を見つめる内に、へその辺りから、じわり、じわりと心地いい衰弱感が浮かびあがる。我を失うほど疲労は深まり、次第に強まる気だるさより、思考の対象を持たない喜び、悩むべき焦点からの解放がもたらされ、うっとりとしたやる気のなさを伴いつつ、足音さえぬぐう砂時計のごとく、時間の進行は緩やかに減速していくものの、いつも通り、二〇分が経つ頃には作業を終えていた。
 一〇一号室を出る頃、零時四五分を示す時計を眺め、ゴミ出しに行かなければ、と考え、待機室に向かい、ゴミ袋をまとめてくれたフロントにお礼を言いながら、脇に段ボールを抱え、両手で燃えるゴミと燃えないゴミに分別された二つの袋を下げながら、当ホテルの他二つの系列店が並ぶ坂を下り、坂の終わりに位置する店舗の前に来ると、既にゴミ出しの準備をしている同僚三人が、用意した台車に寄りかかりながらアイコスをふかし、気長に雑談しており、それぞれに頭を下げつつ、ゴミ出しの準備に加わった。いかなる人間関係も場所によって形成される性質が大いに異なるが、たとえばSNSは、目の前にいないが注意を引きたい誰かを想定するからこそ発信できる内容があり、そのため実生活とは異なる人格を演じ、SNSの発達以前では不可能であった関係性さえ発生することとなる。現実とは違う人格を演じて得られた関係性というより、異なる環境に適合すること自体、かつてと異なる人格の獲得であると言っていい。この会社に勤めて既に一年以上経つが、年齢も経歴も自分が一番下である以上、後輩として、以前ならあまり親しみを持たない会話にも馴染むようになった。仕事の愚痴や、その場にいない同僚の陰口、噂話、武勇伝、金や女性についてなど、同性間で形成されたコミュニティではある程度当然のようにのぼる話題だが、やはりコミュニティによって程度の差はある。老いて金がない男は役立たずの不良品としてどんな女からも愛されないが、女が男を品定めするように、男も商品棚を眺めるように女の容姿をレビューする。同性間で盛り上がる異性の話題は、ある種の愛好家が新商品の良し悪しで盛り上がる様を思い出させる。あるいはセックス、食事、暴力、その場にいない人間の滑稽さ。退屈ではないのだが、空腹も相まって、会話の最中につい別のことを考えてしまう。ゴミを運ぶ最中、通勤する際に聴いた曲の歌詞が頭に過った。
 ── 夢から覚めたこの世界では、思い出さえ夢となり。
 夢から覚めたと思えば、また別の夢のなかにいる。夢から夢へと移ううちに、かつて胸を馳せた期待は無色に変わり、また夢から夢へと遠のくため、過去の思い出さえ、叶わない夢へと美化される。幾たびの幻滅を繰り返しても、なお懲りずに夢を見て、これまでと同じように破れ、また繰り返す。輪郭をなぞるほど生きる実感が遠のくにも関わらず、写実家のように、限りなく現実を描き出そうとする。
 ── 無作為に振りまいた願いはただ、誰のためでもなく弱さを映し出す。
「願い」を希望あるいは願望と捉えるならば、あだな想いに心を散らしたために、みずからの弱さをさらけ出す、と解釈できる詩だ。「お前は相も変わらずむなしい期待に心を散らしていた、見るもの聞くものすべてが/新しい恋人の予告であるかのように」と詠われた『ドゥイノの悲歌』だけでなく、『エチカ』第三部定理一八の備考二および定理五〇の備考さえ連想される。すなわち希望とは「我々が結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜び」であり、恐怖が「同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみ」ならば、不確かなものへの期待や不安から成り立つという意味で、希望も恐怖も、信ずるに足りない心情の動揺に過ぎない。希望を抱くとは、不確かなものへの可能性にしがみつき不安から逃れたいという弱さの表れであり、恐怖に震えるのも、やはり不確かな期待が裏切られるのではないかという、弱さに他ならない。見るもの聞くものすべてが新しい恋人の予告であるがごとく映る者は、むなしい期待に心を散らすことで、確かに実在するものの残酷さから逃れようとしている。楽曲の中で「そばにいてほしい」と歌われる詩は、「願うことさえゆるされない」という返答によって打ち消されていた。
 と、ぼんやり考え事をしている内に、ゴミ捨て場に着いていた。
 燃えるゴミ、燃えないゴミ、段ボールをそれぞれの位置に投げ捨てているうちに、同じ会社の系列店に勤務する別の同僚たちが、台車を引くなり、両手から下げるなりして、各ホテルのゴミを持ち込みにきた。普段は接点のない清掃員たちと雑談を交わすわずかな時間であり、タイミングが合わなければ一か月以上話すこともない同僚もいるが、誰であろうと話す内容は変わらない。愚痴や噂話、陰口、武勇伝、金、女性関係で会話が盛り上がるのは悲観するべきことではない。趣味や関心で繋がらない限り、会話などその程度のものであり、興味が似通っているために友情を交わした者の間でさえ、読書や音楽に焦点が合わなければ、その場にいない誰かの滑稽さ、武勇伝、金、セックスが話題の中心となる。友情というものは、その場にいないひとの噂話や陰口で盛り上がることに他ならない、だから私はあらゆる友情を避けてきた、という回想から『野いちご』は始まるが、一見して軽薄な会話に身をゆだねるのも、何だか不思議と自分が大きくなったようなうぬぼれが味わえて面白いものである。
 とは言うものの、ひとと話すうちに、考え事をしている間は忘れていた空腹が再びきゅるると胃を締め付けて、つい「お腹がすいたなあ」と独り言を漏らしてしまった。時刻は一時一〇分であり、ゴミ捨て場から去り、台車をしまい、同僚たちと適当な会話を交えるなど、今後の動きを計算して、恐らく元のホテルに戻るのは一時四〇分頃になるだろう。それからフロントと雑談しつつ待機室を片付け、一時五〇分に一〇分休憩を取り、その間に音楽を聴きながら食事を摂り、たった数分といえど、時間に空きが生まれたら本を読もう……と、再びぼんやり耽るうちに、同僚たちとの会話も終え、ひとりで坂を上りながら、元のホテルに戻ろうとしている自分を見出した。
 ふと、目の前に停まった黒塗りの車より、背が高く痩身の女性が、美しく染まった長い茶髪を波打たせながら降りた。
 思わずぽかんと口を開き、立ち止まって見つめるこちらに振り向いた女性は、艶やかな化粧を施しているが決して絢爛すぎず、面長の白い顔だちは、普段からケアを怠っていないであろう自然な光沢を帯びており、七三に分けた前髪から整った額を露わにし、細く高い鼻筋を挟む二つの眼差しが、狐のように薄く伸びながら、月にも似て怪しげに煌めく様を見つめていると、情欲が喉の渇きのようにごくりと立ち昇り、思わず強い恐怖を覚えた。
 女性と目が合ったのもたった数秒のことで、こつこつとヒールを響かせながら、ホテルに入るなり「一〇二号室です」とフロントに告げ、右に曲がったが、一〇二号室の隣には清掃員の待機室があり、従者のように彼女の後ろを歩きながら、ふいに腰が描く美しい曲線に目が止まり、小ぶりに突き出た尻を驚嘆しつつ凝視したが、コン、コン、と戸を叩く音と同時に、「待っていたよ」という男性の声が、ガチャリと開くドアの向こうから聞こえた。女性は楽しそうに男性と話しながら、一〇二号室の造りの奇妙さを面白がり、扉の向こうへと消えたが、満足げに相槌を打つ男性の声音から、写真通りに綺麗な女性が来たことへの満足がうかがい知れた。
 部屋の奥に向かうにつれて声は遠ざかり、自分も待機室の机にもたれながら突っ立ていた。
 あんな綺麗なひとが働いているんだなあ、とうっとりしながら、話しかけてきたフロントと談笑を交わし、小さな冷蔵庫を開いた。玄米、キャベツ、もやし、いくつかの冷凍野菜を詰めたタッパーを開き、その上に木綿豆腐を載せ、閉めた後、電子レンジで温め始める最中も、フロントとの会話を続け、四分後にタッパーがぐつぐつ煮立つと、「じゃあ休憩に入ります」と告げ、冷蔵庫近くに掛けられていた黄色いプラスチック製の鎖を首にかけた。タッパーを取り出すと同時に再び冷蔵庫を開き、ゴマとにんにくを基調としたドレッシングと、塩を片手で取り出し、着席して、何を読もうかな、とバッグを漁りながら、そういえばタイマーをセットしていないな、と気が付いた。
 一〇分後に鳴るようセットした後、読みたいと思い開いた頁の上に物を置いて固定し、開いたタッパーの上に塩とドレッシングをかけ、休憩を開始した。
 

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