彼女が六歳の頃の記憶になる。
 呻く度、粘っこい運動が湿った身体の細部に伝った。両腕を伸ばし、枕に沈み、寝台に埋もれ、存在が徐々に後退していく。二つの赤い風船が浮かんだ。遠くから声が聞こえる。しかし、大きな壁に遮断されているよう、輪郭を掴むことが出来ない。やがて映像が流れた。水平線に浮かぶ一艘の船が、煙を上げながら少しずつ掠れていき、途切れた。
 目を開いた。靄のかかった視界の奥から、ぼんやりと浮かぶ子供の顔が、不安そうに彼女に呼び掛けていた。
「何があったの」
 長く伸びた前髪の間から細長い両目が俯き、震える鼻腔に毛と垢が白けて見えた。「夢を見ていたの」と彼女はこたえた。弾力のある両腿に微睡む声は溶けた氷に似て静かな安息を含んでいた。
「昔のこと。なんで今になってよみがえるんだろう」
 微笑みながら彼の顔の掴み、腰を持ち上げて、薄く小さな唇を舐めた。従順に目を閉じる直前、彼の瞼に熱のこもった吐息が触れた。
「膝、痛くない?」
 秒針の音もない運動に顔を向けると、午前三時を打っていた。彼は相手の後頭部を眺めた。
「大丈夫だよ」
 当然の事実を思い起こす度に気が塞ぐのは、日常としてそれを心の何処かで拒絶しているからか。うたた寝に霞む前に、散々口にした愚痴を反復する気分もよみがえり、彼女はため息をついた。
「生きてるだけで金がかかる、これっておかしいと思わない?」
「本当にそう思うよ」
 彼の顔には、子供を慈しむような柔和さと服従への陶酔が混ざり合い、満悦な微笑が浮かんでいるように見えた。
「そもそも、あんなどうでもいい連中の話を笑顔できかなきゃならないのが一番腹立たしい。私の身体にも触れず、金だけ置いてさっさと帰ればいいのに」
 苛立たった口調は寝床まで遠ざかり、どさっと大きな音を立てて止んだ。シーツの上に四肢を伸ばし、形を変えて半身を抱き込むベッドに沈み、彼女は再度ため息を漏らした。仕事から帰ると、荒れた口調でその日のことを愚痴るのが習慣となった今、膝枕の上で眠ることも、起き上がって舌を絡ませることも、憂鬱を吐きながら寝台に倒れることも、既に幾度となく繰り返された光景であった。
 彼女はよく夢を見た。
 目覚めた後は、閉じた瞼に安らぐ隣を眺めながら、我が身に張り付く疎外感の正体を暴こうとするため、時間が割かれた。再現しようと努めるが、演じられた筋書きは目覚めた知性によって補完され、明晰であるためにおのずと恣意性を帯びた。実際には舞台化されなかった内容を含む、半ば創作された脚本を眺めながら、分析医のよう夢を解体しようと試みるも、次第に不幸を撫でてうっとりする感覚が染み出し、悲観することに覚える快楽が一切を濁らせた。しかし眠気が剥がれる頃にはそれすら思い出せず、日常の些事に埋もれながら、自分が何を忘れたかについてぼんやり頬杖をついていた。
 再び彼の寝顔に見入る。小さく開いた口から生温かい息を漏らす彼は、決して見目麗しい男ではなかった。恋人が先に起きている場合は、夢の内容を思い出せる可能性が高い。彼の呼びかけによって夢が中絶するから。あるいは、発作のように夢の印象がよみがえり、暗転して、自分が何をしていたかを忘れてしまうこともある。仕事中に襲われれば、不愉快な心配をかけられるか、運が悪ければ叱られることになる。
「見た目しか取り柄がないんだから、せめていつも笑ってくれないと」
 浅黒い肌に光沢を帯びた目の前の中年は、生え際が薄く、重そうな腹がスーツの下から突き出ていた。見下すもののために金と時間を浪費する方が遥かに滑稽なはずだが、その事実に気づいていないようだ。酒と煙草の混じった息がたまらなく臭く、不潔な印象を覚えた。
「お疲れさま」
 戸を開く彼に抱き着き、「今日も疲れたよお」と無様な声を伸ばしながら、背中を撫でてもらった。卓袱台の前に腰を下ろして、彼の両腿の上に首を置き、口に運ばれる料理を待った。見上げれば、正座の姿勢をした内気そうな顔立ちが、テーブルの上で手を動かしている。間もなく「はい」という声がした。
 プラスチックのスプーンを口に含み、彼女は「今日もおいしいね」と微笑んだ。
 名を呼ぶ声に伴い、肩が左右に揺れている。模糊とした光の奥から顔が浮かび上がった。拡散した輪郭が収縮し、明確な形をとって現実を創り上げようとしている。自分の息が切れていることに気が付いた。安心するため、両手で顔を覆った。不安げな指先が絡まり、ふたつの手のひらが油っぽく滑った。彼女の肩を抱きながら、「大丈夫」という問いかけが洞窟の外から聞こえた。うなされていたらしい。
 玄関の前にいた。開くと、弟が体育座りで本を開いているが、この薄明りで文字が読めるのだろうか。歩みを進めた。彼女の存在に気づいたらしく、「おかえり」と嬉しそうな声で立ち上がった。彼女はやや後ずさりした。左足の裏にある布が、わずかに重心を滑らす。自分が裸であると気付いた。頁を開いたまま床に置き、弟が両腕を差し伸べながら近づいてくる。青白いふたつの二の腕には、赤黒い自傷痕が何重にも引かれていた。
「つらいことがあったら言って。全部受け入れるから」
 弟の声は涙ぐんでいた。
「だから姉さん、ぼくを愛して」
 彼女は弟の左頬を打った。瘦せた身体がよろめき、浮き出た肋骨が層積雲のよう暗がりにたなびいた時、弟もまた裸であることに気付いた。足元に落ちていた布を拾い、彼女は裸体を隠そうとした。布に隠されていた斧が、刃を光らせながら影に寄りかかっていた。呼吸音が意識され出し、弟が立ち上がる姿を見た。再び両腕を広げ、私を受け入れようとしている。
「姉さん、姉さん」
 布をまとい、両手で柄を掴むと、高く持ち上げた斧を弟の頭上に振り下ろした。「姉さん」と言いながら、弟はその場で倒れた。赤黒い血が割れた硝子ように散乱し、頭から重々しい液体がトロトロと垂れた。両肩が抜ける重さを今一度持ち上げ、再び振りかぶる。次は胸の辺りに落とした。裂かれる度に、弟は「姉さん、姉さん」と口を開いた。小さな声だった。また斧を持ち上げなければならないような気がした。
 夢の終わりへと映像は薄れながら、荒れた呼吸の隙間より、「私は悪くない」と何度も呟く声を耳にしていた。
「弟がいたんだね」
「うん。でも、ほとんど会ったことがないよ」
 恋人の肩にもたれながら、呼吸に集中するよう瞼を閉じた。発声すると顎がわずかに震え、自分のものとは思えぬ響きを伴い、言葉が漏れた。
「弟は父さんの方へ引き取られたから。離婚後にも二、三度会ったことはあるけれど、その時の印象もほんの少ししか残ってない」
 十七歳の夏、父親の親戚が亡くなったため、葬式ついでに二人が暮らす家に泊まったことがある。床が所々腐り、虫が多く沸く古い民家であった。深夜、自習を終え、日記帳を閉じた後、用意された寝室から一階の冷蔵庫を漁りに降りると、浴室から出たばかりの弟が、湿った髪をタオルで揺すぶりながら現れた。裸の上半身に青白く肋骨が浮かび上がり、タオルを抑える手を下ると、赤黒い自傷痕が何本も二の腕に刻まれていた。
「寝れないの」
 弟の滑稽な顔と甲高い声には奇妙な馴れ馴れしさがあった。一緒に暮らした時間もわずかで、共に過ごさなかった歳月の方が長いにも関わらず、仲睦まじい姉弟のように振る舞う姿は不愉快であった。
「別に」
 顔を背け、速足で階段を駆け上った。弟の喜々とした微笑と、それに不釣り合いな二の腕の傷跡が痛々しく、穢らわしかった。
「弟さんに会いたいとは思わないの」
「いや。会っても話すことがない」
「そう」とだけ呟き、寄りかかる彼女の髪を撫でた。
「君の隣で寝ていると、悪夢ばかり見ちゃうみたい」
 彼女の冗談は汗ばんでいた。
 夢の不気味さは、他人の眼差しで自分の動作を眺める点にある。
 ひとりの女が渡り廊下の上に立っている。奥は白けて見えないが、学校のそれに似ている。歩いた。白けた先は明くことなく、廊下は際限なく続いていた。別の女の姿が見えた。整然とした服装に身を包み、やや茶色めいた黒髪が高い背丈の後ろ姿に長く伸びている。焦るように、手がかりを見つけたように走り出した。いつまで経っても後ろ姿に追いつかない。息が苦しいのは、不慣れな運動に体力を消耗しているせいもあるが、廊下に立ち込める霧のせいもあるかもしれない。足元以外何も見えなかった。両膝に手をつき、息する肩に、重力以外の負担が圧し掛かっているとしか思えなかった。汗が廊下の上に落ちる様子を無心で眺め、いつの間にか、滴る足元の近くに自分のそれより大きな上靴が二足見つかった。顔を上げた。先程追いかけていた女教師が、口元を厳しく閉ざしながら、息を切らす女学生を見下ろしていた。冷たく、氷細工のように透き通った肌が、女教師の端正な顔立ちを異様に強調していた。
 彼女はその面立ちが自分の母親に似ていることに気付いた。
 徐々に白ける暗がりは揺れ、奥から心配そうに年若い男が見守っている。彼だと気付くまでに何秒かかったろうか。「大丈夫。大丈夫だよ」と言いながら身体を起こす。嫌な湿り気が全身を覆っていた。
「夢を見ていたの」
 彼女は右手を額に押し当てた。付着していた玉の汗が潰れて、手のひらを濡らした。夢の内容を振り返りながら、「母さんの言葉を思い出した」と付け加えた。
「どんな言葉だったの」と彼が訊いたが、その質問には答えなかった。
「厳しいけど、優しいひとだったよ。一緒に暮らしていた頃は憎んでいたけど、今はもう何も思っていない」
 彼女の背を撫でながら、これ以上訊くのは野暮だと考え、静かに恋人を抱きしめた。
 しばらく無言を保った後、幽霊のように垂れた髪で顔を隠した彼女が、うわ言を呟くよう口を開いた。
 私を引き取ってくれた母さんは、昼も夜も必至で働いてくれた。家に帰らない日も少なくなかったけど、休日にはふたりでご飯を食べに出かけて、遊園地まで車を飛ばし、服を一緒に買って回る。いつも氷のように冷たい微笑みが口元に張り付いていて、本当は私といても楽しくないんじゃないかと思う時があった。家に帰らず必死で働くのは、私のためじゃなくて、仕事をしていた方が気がまぎれるからじゃないかって。私が母さんの袖を掴んだ時、右頬が神経質に震えた時のことを今でも覚えている。
 「そんなこと」と、否定を介そうとした矢先、彼は言葉を続けるのをためらった。垂れた長い髪の奥で顔を覆う彼女は、普段と別の生き物に見えた。
 隠し事が嫌いなひとだった。部員に壊されたバスケットシューズを見つけた時、母さんは私を打った。「どうして隠していたんだ」って。私は鼻血を垂らしながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝った。真面目で、全部ひとりで背負い込んでしまうひとだから、他人にも厳しくなって、だからいつも独りぼっちなひとなんだ。
 両手を顔から外し、仰ぐように乱れた髪より唇を突き上げながら、彼女は天井を眺めた。
 ひとり暮らしを始める前日、父さんがどんなひとだったか訊いた。母さんは「ひどい男だった」以外に何も言わなかった。しばらく黙った後、「私も悪かった」と付け加えた。それより他のことを知りたかったけど、怒られるのが怖くて黙っていた。
 食卓を挟んで俯いていると、口を開いて言うの。「他人は信用ならない」って。「自分だけのものと期待した言葉も、既に別の人間のために用意されたものに過ぎない。裏切られて苦しむ理由は、自分の弱さを利用された事実を直視しなければならないからだ。手のひらを返されても、平静を保ち続ければ対等でいられる。だから最初からひとりで生きるつもりでいなければならない」って。
 それが母さんと過ごした最後の夜だった。
 彼は何を口にするべきか戸惑った。
「お父さんがどんなひとか覚えてないの」
 頷く時、彼女は再び顔を髪の毛で隠していた。
「ひとつとして記憶に残っていない」
 曲げた関節から胴に続く二の腕に、肌色に癒えた自傷痕が何重にも引かれているのが彼の目に映った。
 寝直して迎えた明くる日、彼女の振る舞いは普段通りに戻っていた。夜になれば仕事に向かい、いつものように疲れた顔をして帰って来る。夢は日常の中断に他ならなかった。
 ある晩、彼女は熱にうなされていた。
 獣のように唸り、四肢をくねらせ、「苦しい、苦しい」と喚きながら、シーツの上をジタバタと動き回っていた。恋人の目には、彼女が再度別の生き物に見えた。朝から何度も濡れタオルの交換し、汗ばんだ身体を拭き、おかゆを口に運んだ。職場にも連絡を入れ、病院へ連れて行こうとすると、「いやだ、いやだ」と叫び散らし、彼の顔を打った。両こぶしを何度もベッドの上に叩き落し、その都度、部屋中が唸っているような気がした。
 突然、叫び声をあげた。台所で夕食の準備をしていた彼は「どうしたの」と不安そうに寝台まで近づいた。身体を起こし、俯く彼女は無言を保ち、一分が経過した。「どうしたの、ねえ」と彼女の両肩を激しく揺さぶった。
 やっと存在に気づいたように、顔を上げた。
「ごめんね。いつも、本当にごめんね」
 彼女は泣いていた。
「何を言うんだ。ぼくは好きで君といるんだ。嫌なことなんて一つもない」
「ごめんね。本当にごめんね」と、彼の声が聞こえないかのよう言葉を繰り返す。
「私、君を苦しめてばかりだ。一緒にいても嫌な思いをして終わっちゃうね」
「そんなことないと言ってるだろう」
 彼は声を荒げた。
 彼女は両腕を前へと突き出し、Yシャツの袖から何本もの傷跡が見えた。
「あの時と同じだ」
 何を言っているのかわからなかった。
「両手が真っ赤な風船になって浮かんでいる」
 あの晩、夢に見た弟が読んでいたのは自分の日記帳であることに気が付いた。
 瞳は陽光を反射した水面のように輝いていた。
 隣を眺めた。不安そうな顔をした男が自分を見守っていた。地味な目鼻立ちで、弱々しく痩せていた。服の上からでも、蒼白い胴の上に肋骨が浮き出ているのがわかるほどだ。
 彼を抱きしめた。
「ごめんね。今まで何もしてあげられなくて、本当にごめんね」
「もういいんだ。もういいんだよ」
 互いに寄り添いながら、いつこの悪夢が終わるかを空想した。何のために苛まれているのかもわからず、夢から覚めたところで、双方にいい生活が待っているわけではない。ならば、何故生き続けるのか。他でもない、習慣からだ。生きること自体が習慣化されているからだ。ただ知らない所で下された命令に従い、何故かわからぬままその掟を遵守する。道を踏み外せば、やがて下るであろう天罰に怯え、自分が頭を垂れる掟の正体は一向に掴めない。彼らにとって、人生とはそれ以上のものではなかった。
 互いの唇を相食みながら、静かな眠りの内へ吸い込まれていく。遠のく意識の彼方で、水平線に浮かぶ二艘の船が、煙を上げながら少しずつ掠れていた。

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