読書と日々 一

 まだ疲れていない、むしろ脚が軽いくらいだと思いながら駅までの道をたどり、間もなく薄明の底から唸り声をたてて現れた電車に乗り込んだが、柔らかくも反発性の強い座席に腰かけた瞬間、どろりと垂れる気だるさが圧し掛かり、椅子の直角に吸い込まれるよう、腰から尻辺りの感覚が物と一体化し、何の動作も起こす気が起きず、ただ茫然と窓の外を眺めていた。夜明けを告げる曙光は曇り遮られ、震える窓の向こうに広がる灰色は、何処となく昼下がりの終わりを思わせる明るさで、五時一三分の車内に似つかわしくない。昨日のこの時間も同じくらい明るかったろうか、いや、どうにも思い出せない。首を傾げながら眼差しを落とすと、二人組の女性の内ひとりが、にこやかに隣と話しながら、何度かこちらを瞥見している。くたびれた男が虚心に見つめてくるなど、いかにも不気味に違いない、と我が身を客観視し、申し訳なくなりながら、綺麗な女性だし、目が合っただけ幸福かもしれない、と視線をそらした。電車内でやることといえば、読書か、寝るか、美人に見とれるくらいだが、言葉にしてみると、自分はいかにも浅ましい人間である。知り合うことのないひとに夢見る愚かさは、一体いつになれば治るのだろう。
 気を取り直して本をとりだし、ヘッドホンをつけ、音楽を流し始めたものの、これ以上疲れるのを恐れたのか、両手に持った本を開きもせず、ただ無心に震動する床を眺めながら、物に溶けていく身体が、あやされるよう電車に揺れて微睡む心地よさに神経を澄ませていた。これ程までに疲れているとは思わなかった。共感できない他人のように、自分の感情が理解し難い、これは今に始まった話ではない。無数の想いが入り乱れる程、わからないという感覚だけが明瞭になり、自分自身にさえ疎外されているような、奇妙な孤独を覚える。その間も身体は感受することをやめず、処理されない想いが複雑に絡まり、積もる。最早何も感じたくない、複数化し、分裂する想いに苦しめられるより、虚無に身を投げた方が気が楽だ、と両手で顔を覆うが、そうなると一切を無に帰する死を美化することとなる。それも陳腐な感傷に過ぎないのではないか、と次なる疑問が現れ始めた頃、ヘッドホンの外側より、乗り換え駅に着いた知らせが遠く響いた。ばらつきながらも機械仕掛けに動く他の乗客たちの流れに身を委ね、ベルトコンベアーで運ばれる製品のようにエスカレーターに連れていかれた二階の通路を歩き、次の電車を待つプラットホームに着く。人目も気にせず地べたに座り込めば、歩いている間は忘れていた筋肉の疲労が、何処からともなく緩やかに広がり、鉛が両肩に落ちたかのように、身体が重くなる。起き上がれるだろうか、とぼんやり考えている内に、乗るべき電車がしゅるしゅる音を立てて前方に現れ、腰を上げようと思ったが、身体は意識の命令に先立って既に起き上がっており、最早意志する必要のない習慣の安らぎに運ばれるがごとく、乗りなれた電車に腰を下ろし、ため息をついた。今度こそはと、座ると同時に本が開いたが、身体をやさしく揺らす座席の震動と、車内の温かみに加わって、耳元から流れる悲しい音色が、ゆりかごに囁く子守歌のように物憂げなやさしさで鼓膜を撫で、うつらうつらと意識の境目を曖昧にぼかした。酔いにも似た心地よい微睡みは、寄せては返すさざ波となり、無理強いして開いた頁に眼差しを向けても、昼と夜が高速で交替を繰り返すかのように、暗転しては再び明るくなる視界のせいで、何度も同じ文章を読むこととなった。 
 ── 目に見えない稲妻をもって私に襲いかかる者。目に見えない稲妻をもって私に襲いかかる者。目に見えない稲妻をもって私に襲いかかる者。目に見えない稲妻をもって ── 。
 はっと目を覚ますと、見慣れた殺風景が窓の外に広がっていた。
 最寄り駅だ。
 急いで鞄を肩にかけ、未だ本を手に持ったまま降りたプラットホームは、無機質で長く、しかし機械のようにこちらを運ぶ人波がない。覚め切らない眠りに重い足取りで改札を出て、エスカレーターに乗り、とろとろと地上に向かうと、開けた頭上には、窓越しに見ていた曇天が、くすみながらも明るさを含み、ほの白く、不気味に広がっている。時刻は五時四五分。やはり、どうしても朝の明るさとは信じられない。
「夏が近いからだろうか」
 独り言にこたえる影もなく、緩やかにくだる帰路を辿ると同時に、本の続きを開いた。目に見えない稲妻をもって、から始まる文章は「どうして私が、人間を人間ゆえに愛することができようか!」と結ばれていた。ニーチェは何を思って、この一見すると脈絡のない手記を綴っていたのだろうか、と首をかしげながら、たらたら歩いていると、心地よく眠気を撫でていたアルバムが終わりを迎えつつあり、こぼれる囁きは、柔らかな幻滅を歌っていた。
 ── It’s in the morning when the sadness comes
   The tears fall down in patterns on the windows
 繰り返し聴いてきたが、未だにin patterns on…の辺りをどう訳せばいいかわからない。ただ悲しげなやさしさに身を寄せ、光へ消えていくような喜びに無言で浸りながら、理由もなく、ああ苦しい、生きるのはつらい、と虚ろな空を眺め歩いている内に、家に着いた。
 室内は生臭くこもっていた。
 しかめ面で荷物を放り投げ、抜け毛や埃が薄く散らばった上に読みかけの本が乱雑に置かれた床をまっすぐ歩き、窓に手をかけたが、外の明るさに疲労と眠気、覚醒の心地よいバランスが崩されるのを恐れて、僅かに開ける程度で留めた。バレエのような足取りでその場を回り、一歩、二歩とゆらゆら踊りながら、部屋の中央に置かれた小さな卓袱台の前に座り込み、何に途方に暮れているのかもわからないまま、はあ、とため息を漏らした。真っ白な天井を見上げる内に、じわじわと沸き上がる疲労が、意識の明瞭さをぼかしていく。ふと、まだ為し終えていない日課が頭に浮かんだ。
 ひとまず、きゅうと胃を締め付ける空腹を宥めるために、舞うように立ち上がり、冷蔵庫から蕎麦、木綿豆腐、冷凍のしいたけ、白菜、ほうれん草、ブロッコリーをつまんで、タッパーに押し込んだものを、電子レンジで温め始めた。その間、空になった釜に玄米を入れて洗い、水に浸して冷蔵庫に入れた後、ポケットに入っていた手帳を開き、忘れないうちに今日読んだ本の記録を始めたが、筆を走らせるにつれて、まだ読んでいない本、あるいは今日こそは読みたかった本の続きを思い出し、これから終わる一日への焦燥が、じりじりと眠気を阻害しようとしたが、疲労にくすんだ意識は、これから改めて集中して取り組めるものがあるだろうか、と不安を抱いている。虚しく苦しいが、時に心地よくさえある無力感が滲み始めると、間もなくピイー、ピイー、と耳障りな音を立てて、電子レンジが光り始めた。ぐつぐつと煮立ったタッパー内の食材に、ポン酢やごま油をかけたものを卓袱台まで運び、がつがつと貪りながら、やはり、一頁でもいいから読みたい、そう思える本を開こうとした。終わりの見えない読書に取り組まなければならない。一九〇七、八年頃、三〇半ばを超えたプルーストは、一生をかけても完成するかわからない小説に着手し、その途方もない営みに我が身を捧げながら、『失われた時を求めて』は長大ながらも未完のまま終わった。昼は眠り、夜は執筆に時間を費やしたため、部屋からほとんど出ることもなかった彼の生涯は、人間としては貧しくても、作家としては次第に高まる栄光の最中で幕を閉じた。筆を片手に、机と向き合いながら息絶えたという、フローベールの死の逸話を思い出す。読むにせよ書くにせよ、いつ終わるかわからない書物がこちらを狂わせる。書物の誘惑に打ちのめされ、生の未知なる領域が、激しい興奮を伴いながら開拓される。読書家は、遭難や災害を求めて山や海を求める冒険家に似ている。
 はじめ頁をめくるにつれて目はさえていくかと思われたが、明瞭に澄むことのない意識は、乱雑で、落ち着きがなく、溢れる関心を束ねようとしてはこぼれ出し、文章上に留まろうとしても、散漫な注意力は結べない糸のようにほどけ、ばらばらになりながら頁の上を逸れていく。これ以上は仕方ない、と本を閉じ、重い腰をあげて梯子をのぼり、ロフトに敷かれた寝床へと、獣のようにのそりと潜った。穴倉にも似た掛け布団の柔らかな感触は、ひとの体温にも似てやさしく、疲労が内側に溶けていき、物と身体の境目は再び薄れていく。消失の感覚が安堵をもたらすのは何故だろう、と考えながら、ああ、これから眠るんだ、と瞼を閉じたが、眠りは中々降りてこない。やはり本でも読むか、と上半身を起こした。手を伸ばせば届くはずのものが遠く、その場から動けない。もう何もしたくない、ただうずくまりたいという呻きが無意識より湧き上がったが、読書の快楽を貪りたいという、騒がしい強情さが静穏な眠りをいつまでも邪魔したいようだった。
 突然、もううんざりだ、何もかも終わってしまえばいい、と叫びたくなった。秒針は七時半を示している。もう寝なければならない時間だ。
 結局、この状態は三○分以上も膠着し、眠りが降りたのは八時過ぎになった。明日も夜勤だから、一四時には起きて作業に取り組みたいが、深く沈んだ身体は中々浮かび上がらず、目を覚ます頃、時計は一六時を過ぎていた。動きたくないが、何もしないのは退屈でやりきれない。そう思いながらもその場から動けず、怠惰な家畜のように布団の上でうずくまりながら、きっと外では朝方見たと同じ景色が広がっているのだろうと考えた。
 コーヒーを淹れた後、朝食のためにロフトを降り、空気を入れ替えるため、遮光使用を施された窓を開けると、一面に広がる曇天が、くすみながらも明るさを含み、ほの白く、不気味に映った。
 今日も一日が始まろうとしていた。

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