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読書と日々

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記事一覧

読書と日々 五

「多少でも慣れた事例なら、今更深い印象を覚えることもなく、省略の技術を用いて語るだろう。しかし未だ拭い難い印象を覚えるエピソードには、丁度今日起きた出来事を親に報告する子供のように、つい無邪気に語ってしまう。得意げで、誇らしい満足さえ思わせる口調から、もしかすると普段はこういう経験をしないのかもしれない、と憶測する聞き手もいる。実際、他からすればどうでもいい内容を、さも面白いことが起きたかのように

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読書と日々 四

 胃を締め付ける空腹を覚える頃、時刻は零時三〇分を過ぎ、出勤してから四つ目の作業場となる一〇一号室を清掃していた。
 喘ぐように息を漏らし、顎を斜めに持ちあげながら、ほとんどうわの空で着せ替えていたベッドの上に目線を向け、生温かく溶ける照明の黄ばんだ色彩を見つめる内に、へその辺りから、じわり、じわりと心地いい衰弱感が浮かびあがる。我を失うほど疲労は深まり、次第に強まる気だるさより、思考の対象を持た

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読書と日々 三

 駅に着いて間もない頃、二二時二五分発の電車が現れた。
 堅く滑らかな座席にどすんと座り込んで、どれを読もうかなとバッグを漁りながら、突如、おもむろに開いた一頁が、甘い痛みに震える共感を呼び起こした。荒々しく抱かれるような痛みと快楽に悶えながら、残された種は、やがて来たるべき思考の萌芽となるが、読書の醍醐味とも言えるこの瞬間を、本を読むひとは必ず経験する。
 ── 今のように、これまでに幾度も、感

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読書と日々 二

 衰弱に伴う陶酔、というのはあるに違いない。
 少しずつ自分を失えば、無駄な想いを馳せる余力も剥がれ落ち、我を忘れる疲労にうっとりしながら、じわり、じわりと満たされた感覚が、身体の内奥から染みわたる。心持ち斜め上に傾く顎に伴い、視線は天井を見つめ、装飾によって遮られたオレンジの照明は、星のように拡散し、汗ばみ湿った部屋へ物憂げに溶けていた。風通りが悪いのか、換気扇が壊れているのか、肉体の交わりが数

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読書と日々 一

 まだ疲れていない、むしろ脚が軽いくらいだと思いながら駅までの道をたどり、間もなく薄明の底から唸り声をたてて現れた電車に乗り込んだが、柔らかくも反発性の強い座席に腰かけた瞬間、どろりと垂れる気だるさが圧し掛かり、椅子の直角に吸い込まれるよう、腰から尻辺りの感覚が物と一体化し、何の動作も起こす気が起きず、ただ茫然と窓の外を眺めていた。夜明けを告げる曙光は曇り遮られ、震える窓の向こうに広がる灰色は、何

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