鼠になった男

 奇妙な事件がS市を騒がせていた。鼠の死骸が、街に住む者の家前に置かれるようになったのである。断続的に、けれども着実に、被害者の数は増えていたが、不思議なことに、彼らの共通点は同じS市に住む以外に何もなかった。犯行に使われるのは、決まっていつも白いハツカネズミである。ふっくらとした腹が裂かれ、絹のような毛並みは傷口から溢れた血で朱殷に染まっていた。事件後、家の表札も同じ黒みがかった赤で汚れていた。刃物で切った鼠の身体をそのままこすり付けたのだと思われる。表札がない場合、腹を裂かれた死骸が郵便受けに入れられていた。たとえ住人が発見しなくとも、誰かが滴る血の跡に気づく仕掛けであった。
 同じS市に住む人間として、私はこの事件に興味を抱かざるを得なかった。テレビをつければニュースとして取り扱われ、ネットを開けば同じ話題が注目の的になっている。都内でも比較的地味とされるS市が、これほどの人気者になったこともないだろう。しかし、一方でどうしても自分が事件に関係があるとは思えなかった。なるほど明日は我が身かもしれない。が、やがて自分も同じ被害に遭うとはどうしても思えない。偶然、内実が知れたら嬉しい。結局、興味と言ってもその程度のものだったかもしれない。そしてあらゆるひとと同様、日常の些細な雑事でそれすらも忘れていった。
 ある日の深夜のことだ。不眠に悩まされていた私は、他日と同じように深夜の散歩に出かけた。寝付けない時間の退屈さと、自身への嫌悪感を紛らわすため行われるそれはいつも長引いた。三十分、一時間を超えることも少なくない。その日も長い、いつ終わるとも知らぬ夜の散歩を続けていた。すると、細長い人影が誰かの家を前に突っ立っている様が見えた。髪は長く、後ろで結んでいるが、高い背丈と広い肩幅が、それが男であることを教えてくれた。手元には同じように細長い刃が光っている。もう片方の上には白いハツカネズミが仰向けに寝転がり、男の華奢な五本指がそれをやさしく包み込んでいるようだ。次の瞬間、白く輝く刃が鼠を裂き、絵の具のような赤色に浸された。男は玄関の表札に鼠の血液を垂らすと、足りなかったのか死骸をこすり付けた。闇に慣れた私の瞳は、彼がまだ若いことを悟った。地味な暗色の服装と、両手を覆う黒い手袋が、彼の顔面の蒼白さと、ハツカネズミの絹のような毛並みを際立たせていた。
 殺されるかもしれない。今すぐその場から逃げようと思った。しかし遅い。動きを止めて、男はこちらを見つめている。 口角を少しばかりあげると、彼は落ち着いた声で挨拶した。
「こんばんは」
 戸惑った私は、十秒間の耐え難い沈黙の後、やっとの思いで訊ねた。
「何をしているんですか」
「見ての通りです」
「というと?」
「僕が犯人なんです。最近ニュースでよく見る、鼠の血で表札を汚す一連の事件の」
 意表をつく告白に呆気にとられた反面、内心この出会いを喜んでいる自分に気がついた。もし彼から話を聞くことができれば、平凡な俺でも何か面白い話が書けるかもしれない。トルストイを耽読しながら、いつか自分もこんな小説が書けたらと思った若き日のことを今でも覚えている。平凡な学生時代に垣間見た別世界は、未だに自分の生活に影を落としていた。多少の躊躇いの後、好奇心は恐怖に打ち勝った。
「かつて、私は小説家に憧れたことがあります。もしよろしければ、あなたのお話を下敷きになにか書きたいのですが」
 据えられた眼差しをやや斜め下に傾けて、彼は数秒間の黙考に入ったように見えた。右手で顎を撫で、左手でもう片方の肘を支えている。
 数秒後、再度物静かな眼差しをこちらに向けた。
「いいでしょう。ここにずっといるのも何ですから、少し歩きませんか」
 歩いている間、私は何を言えばいいかわからず、ほとんど会話らしいものができなかった。「どうしてこんなことをするのか」など、聞きたいことは無論あったが、今更気に障ったらどうしようと不安であった。
 突然、彼から「本が好きだとおっしゃいましたね」と訊ねられた。「普段は何を読まれるのですか」
 ご存知でいらっしゃるかわからないが、トルストイという、古いロシアの作家が好きだとこたえた。すると、どうやら彼もトルストイが好きらしく、親しげな声で頷きながら笑った。
 「あなたはいい趣味をしている、『アンナ・カレーニナ』は素晴らしい小説です。他にどんな作家が好きですか」
 チェーホフが好きだとこたえると、男は少し顔を顰めた。
 十分ほど歩いただろうか。彼は不意に足を止めた。それから手帳とペンを取り出し、そこに何かを書くと、頁を破いて私に渡した。
「明日の十五時に、こちらの喫茶店で会いしましょう。僕も話す内容を考えておきます」
 次の日、私は指定された時間に喫茶店の扉を開いた。古く、小さな店だった。自営業で、生きているのか死んでいるのかもわからない爺がカウンターに座りながら「いらっしゃい」と低く呟いた。男は既にテーブル席に座り私を待っていた。それは奥まった場所にあったが、店内を見渡せど私達と爺の他に誰もいなかった。
 互いに挨拶を交わし、私は席に着いた。
 この細身の長髪は、一体何を考えて生きているのだろう。腹を括った今、早速何故あんなことをしているのかを訊ねてみることした。
 男は笑みを浮かべ、呟くような声を出した。
 十一の頃、通っている小学校で事件が起きました。真夏日のことです。多くの生徒が午後のプールを楽しみにしていました。入れ替えたばかりの水は透明で美しく、今でもカルキの匂いが鼻に残っているような気がします。けれども事は、まさにその授業後に起こった。クラスの女子生徒の下着が、階段に一列に並べてあったのです。無論、学校は声高に事件の発表はできません。女子生徒の心を傷つけることになりますから。犯人は暗黙裡に探されましたが、結局見つからなかったようです。ただ、その影響かわかりませんが、その後、校内放送やホームルームで何度も不審者情報が共有されたのを覚えています。
「それが今回の件と一体なんの関係があるんですか」
 男は続きを語った。
 まあ、聞いてください。事件に驚く反面、僕は内心とても嬉しかったのを覚えています。当然のごとく、学校には友達がいました。多かった方だと思います。家族仲も悪くなかった。食卓に集まれば、両親も兄妹も楽しそうな顔をしていました。皆、僕を愛してくれた。けれども、何も楽しくなかったんです。何処にいても、なにをしても、他人が楽しそうにしているのに、その輪に入れないことばかりが気になっていました。自分のせいで場の空気が壊れるのも悪いから、一応笑っているけれど、正直何が面白いのかわからないことばかりだった。
 今日までの人生で、僕を悩ましてきた唯一の感情があります。嫉妬です。家族や友達が妬ましく、うっすら嫌いですらあった。自分が楽しめないことではしゃぐ皆が羨ましく、軽蔑すべき存在に思えました。何とかして仲間に入ろうとしたけれども、より強い疎外感を覚えるか、退屈が深まるばかりで、何より困ったのは、皆が優しく、善良で、何処にも責めるべきところがない点です。他と同じことができない自分が間違っているのではないか、という劣等感に長く苛まれることになりました。けれど、八つ当たりする気も起きない。時折、突拍子もない行動を取りました。すると今度はひょうきん者だ、腹の底の読めない面白い奴だとして愉快がられました。有り難いけど、苛つく話ですね。
 数年前、当時付き合っていた恋人に鼠の死骸をプレゼントしました。やさしくて、笑顔が素敵な女性だった。いつも楽しそうで、その馬鹿っぽい表情が無性に癪に障った。休みの日になると、彼女が家に泊まりに来て、僕が寝ている間に、飼っているハツカネズミたちに餌をやり、起こす時には、子供をあやすような声で僕の身体を揺らしました。愛おしそうに眺めながら髪を撫で、寝起きの唇を指でなぞり、僕の名を呼ぶのです。あの馴れ馴れしい態度が本当に嫌だった。理解できないんです。尽くしてくれるのは嬉しい。献身的な女性だったと思います。それはそれとして、俺は楽しくないのに、あんなふうに笑っている姿がゆるせないというか、不快でした。友達は結局、学校外での付き合いも少なく、家族は僕の自由と孤独を尊重してくれました。ただ僕と身体を重ね、心の奥底を覗こうとするあの女の存在が、何だか非常に憎くらしく思えた。何も知らないのに、全部わかっているような態度で、憐れみ深く俺の弱さを受け入れようとする。見下されているような気がしてならなかった。実際、なんて厚かましい女だろう。
 何か彼女に仕返ししたくなりました。そこで、飼っているハツカネズミの内、三匹を安楽死させて、その屍をプレゼントすることにしました、綺麗な装飾を施した箱に内包して。きっと驚いて、俺を憎むに違いない。そう思いました。
 僕達が交際を始めて三年目の冬のことです。クリスマスも近く、街はいつもより煌びやかな飾りで覆われていました。記念日の夜、彼女は僕に指輪をプレゼントしてくれました。その瞳は期待に輝き、大きな黒目は将来の幸福を信じて疑わないように見えました。それをこれから裏切るのだと考えると、後ろめたさのようなものを感じて、胸の動悸が止まらなくなった。何でこんなことを考えてしまったのだろう、やはりやめるべきか、色々考えましたが、彼女は既に僕がプレゼントを用意していると知っていたし、もしここで予定を変更したとしても、後で鼠の数が減っていることに気づくかもしれない。僕は渡すことに決心しました。「開けていい?」と聞く彼女。「勿論」とこたえます。彼女は額の汗に気づかった。深い夢を見ているので、不都合が目に入らない。
 力ない三匹のハツカネズミがどさりと倒れた時、大きな黒目は不安に染まりました。当惑した表情で僕を眺めている。死体に触り、それが息していないことを確認している。怯えていることは言わずとも、顔を見ればわかりました。
 不思議だったのは、笑いが止まらなかったことです。いけないと思いつつも、つい腹を抱えてしまう。「どういうつもりなの」と訊ねてきました。さあ、どういうつもりなんだろうね、自分でもわからないや。「ちゃんと答えてよ」と怒鳴られました。何とこたえたらいいかわからず、僕は笑い続けることにしました。
 てっきり嫌われるのかと思ったら、現実はいつも何処かしら予想から外れるものですね。泣きながら、哀願するように「教えてよ」と言うのです。
 これには僕も驚きました。正直、困ってしまった。本心を語ろうかとも思ったが、それでまた憐れみ深い態度でも取られたら、俺の自尊心が耐えられない。咄嗟に、もっと怒らせる方法を思いつきまきた。その場から駆け出して、台所から包丁を取り出しました。そして一匹ずつ、彼女の目の前で鼠の腹を裂いてやりました。一匹の血は自分の頭にこぼし、もう一匹の血は部屋中にふり回し、最後の血は、彼女がプレゼントしてくれた指輪に注ぎました。彼女はまだその場から動かない。悲鳴はあげるが、俺の前から去ろうとしないんだ。僕は彼女を押し倒し、鼠の血に濡れた唇で、無理やりキスしようと迫りました。「いや」と叫び、嫌悪と軽蔑に堪えられない顔つきで僕をふりはらうと、しばらく気味悪そうに眺め、駆け足で出ていきました。ひとり残された後も、笑いがとまらなかった。あの時、なにか開放されたような安堵を覚えたのを記憶しています。僕は彼女に嫌われるだろうと予測しましたが、実際は嫌われたかったのです。何だか、初めてひとと対等になれた気がしました。自分と同じ低さまで引きずり下ろしたのが嬉しかったんです。
 その際、小学生の頃に起きたあの事件が頭に浮かびました。これが今回の件を起こすまでの経緯です。
 ここまで語り終えると、男はふうと息をついてコーヒーを啜り始めた。いつ注文したか知らないコーヒーは、テーブルの両端にふたつ置かれ、啜ると冷めていることがわかった。無論、冷めたコーヒーは不味かった。「勝手にコーヒーにしてしまいましたが、それでよろしかったでしょうか」と、ティーカップ越しに覗く男に訊ねられた。私は顔を顰めながら「ええ、無論」と呟いて、冷めたコーヒーの不味さについてしばし考えた。
 席を立ち上がると、彼は窓の外を眺めた。
「見せたいものがあるので、よければ僕の家まで遊びに来ませんか」
 私はそれを承知した。
 しかし、どうしてここまで話してくれるのだろう。会計を済ませ、生きているのか死んでいるのかもわからない爺の「ありがとうございます」を耳にしながら、私はそのような疑問を覚えた。
「なに、ちょっとした思いつきですよ。どうせいつ終わるかわからない遊びだし、今更隠し立てする事でもないと思ったんです。それに……」
「それに?」
 立ち止まると同時に言葉が途切れたので、私は彼に訊ねた。目の前にはマンションがあり、我々は彼の住処を目前にしていた。
 彼はその上階を指した。
「僕もトルストイが好きですから」
 我々はエレベーターで彼の部屋まで向かった。玄関を開けると、片面の壁には沢山の本が並べられていた。なかでも『アンナ・カレーニナ』はそれぞれ異なる三つの翻訳で揃えられており、それだけで十巻以上置かれていた。他にはユゴー、ディケンズ等の翻訳があったが、チェーホフのそれはなかった。もう片面には大きな、防音式と思われるガラス張りのケースがあり、大量のハツカネズミがその内を走り回っていた。
「鼠はどれも安楽死させています」と、彼は先程の続きを語り始めた。
「よく知られている通り、鼠は大量に繁殖します。けれども、こんなに可愛い生物を、痛覚を伴ったまま殺せるわけがないでしょう。この健気な、罪のない鼠達は、薬のおかげで死の苦痛を知らないまま意識を失います。理想的な死に方ですね。眠りに落ちて、心地よい昏睡から覚めることなく、外の世界を知ることなく地上を去ってゆくのです」
 突然、男は目線を上げ、何処でもない場所を眺めた。
「できれば、僕もそんなふうに死んでみたかった」
 そして微笑んだ。
「今回の件を通じて、世の中で僕と同じように苦しんでいる、疎外されている人々に、少しでも愉しい想いをさせてあげられたらなと思っています」
 男が話を締めたので、私は彼の部屋を後にすることにした。
「あなたはチェーホフが好きだと昨日仰っていましたね」
 去り際、彼は思い出したように語り始めた。
「僕はあまり好きじゃないんですよ。何だか冷たくて。あんまり人を馬鹿にするのもよくないと思います。いつか本人に言ってやりたいですね」

 数日後、S市では突如白いハツカネズミが大量発生するという事件が起き、例の「鼠殺し」と同一人物によるいたずらだと推測する旨が発表された。しかしその後、S市では以前と同じような事件が起きなくなった。なるほど模倣犯はいたが、鼠の扱い方が「彼」より荒く、ハツカネズミの色も異なっていた。
 街中に放たれた大量の鼠は、繁殖するかと思われたが、厳しいコンクリートの世界で生きる術を知らず、車に轢かれ、子供のおもちゃにされ、他の生物の餌食にされ、次第にその数を減らした。男の部屋で甘やかされたハツカネズミには、街の憎悪と無邪気さが耐えれられなかった。けれども残存する鼠は尚もコンクリートの上を走っており、時折私の眼前に現れた。絹のような毛並みが土埃で汚れ、さぐるような眼差しを泳がせながら走り抜ける様が印象的であった。
 私は気になって彼の部屋を訪れた。すると、空室になった家の郵便受けに、一枚の小さな紙切れが挟まっていた。そこには次の言葉が書かれていた。
── 僕も鼠になって街を駆けようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?