ちいさんぽ

身の回りのことや娘とのやり取り、自分の子供の頃の思い出について記録する場としたいです。

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最近の記事

くっつく言葉

新聞社に勤める友人のはじめての記事を、切り抜いて会社のデスクマットに長らく挟んでいた。 よく似た似顔絵つきの自己紹介文で、 「くっつきむし」を話題とした文章だった。 「くっつきむし」で夢中になって遊んでいた幼少期の話のあとで、 「今の子どもたちも、ちゃんとくっつきむしで遊んでいるのかな。」との感懐。 そして、 「くっつきむしのように、人の心にくっついて離れない記事を書きたい」という内容で結ばれていた。 「ちゃんとくっつきむしで遊んでいるのかな」 この「ちゃんと遊んでいる

    • 通学路を変えた日

      通っていた高校は小高い丘の上にあった。駅から高校までをつなぐ一キロほどの急な坂道は、通称「けんこうざか」といい、朝はいつも同じ高校の生徒たちでひしめいていた。 「けんこうざか」を一つ脇に入ったところに、民家の間を縫うように走る小径があった。 高い垣根で挟まれ、道幅は高校生二人がやっと並べるくらいだったろうか。長さは20メートル弱だったと記憶している。 私はこの小径の風情がとても好きだった。特に真夏のそれは格別だった。垣根の一方からは、目の覚めるような緋色のノウセンカズラが顔

      • 悲しみの在りか

         毎晩寝る前に、5歳の娘とするからだあそびがある。「みぎあしさんげんきかな」という、娘が考案し名付けた遊びだ。  私が娘の体を右足から順になでていき、それに合わせて娘が「右足さん、今日はかいだんいっぱいのぼってがんばったね」「右手さん、たくさんお絵描きしたね」と、体のパーツごとに1日の労をねぎらっていくもの。私が最後に娘の頭を撫でると、彼女は「頭さん、今日もよく考えたね」と言い、その後ほどなく夢への橋を渡っていく。  娘自身が3歳のときに考案した遊びで、なかなか寝付けない

        • しもばしら随想

          私は「しもばしら」というものがどうにも好きだ。 ずいぶん幼いころからだと思う。 子どもの頃に住んでいた地域では 雪よりも霜柱の方が遭遇率が高かったけれど、 私は後者を発見したときの方が格段に心躍った。 自宅の庭の畑では、3センチを超えようかという 霜柱が形成されることもあった。それは何とも壮観だった。 小学校3年生のときにはじめて創作した詩でも、 霜柱を題材にした。 記憶を結集してリライトすると、 しもばしらは 寒いなか 重たい土を持ち上げて がんば

        くっつく言葉

          宝石のことば

          「野ぶどうの実は、宝石のようにきれいです。」 娘が3歳の冬に買った植物図鑑にこんな記述があった。 野ぶどうは昨年まで住んでいたアパートの向かいの河原に自生していて、毎年10月後半にはピンクや紫、水色のブルーベリー大の実を付ける。 娘は植物図鑑を見てから、いつも秋を心待ちにしていた。この解説でなかったら、野ぶどうがこんなにも娘を引き付けることはなかっただろう。 そうして目の当たりにする野ぶどうのビジュアルの多幸感といったらない。 図鑑のなかに非客観的な記述を見つけると

          宝石のことば

          娘が悲しむとき

          行楽日和が続く10月、 娘(5歳)の保育園でもバス遠足がありました。 今年の春に転園してきたので、今の保育園では今回が初めてのお弁当。 前の保育園と勝手が違っていてはいけないと、私は入念に案内に目を通しました。 すると持ち物には「弁当 水筒 しきもの おてふき」とありました。 見慣れない「しきもの」という一語に目が留まりましたが、 私は迷わず「レジャーシート」のことだろうと判断。 レジャーシートを自分でもっていけるなんて楽しいね、と、娘とひとしきり盛り上がりながら

          娘が悲しむとき

          失言という魔物

          朝、出社時にエレベーターで清掃担当の女性(Aさん)と一緒になった。 この女性は私の母くらいの年齢で、妊娠中から私を何かと気遣ってくれ、声をかけてくれていた。 その日私は少し体形の分かりやすい服を着ていたせいか、 Aさんは会うなり開口一番、「あんた、胸がふくよかでいいね!!母乳いっぱい出たでしょ」 といった。 私もこんなときに「あ、はい」と笑顔で返せばよいのだけど、 とっさにその判断力が機能しないので、 「いやあ、一滴もでなかったんですよ。ミルクで育てました」と事

          失言という魔物

          5歳児の、しずかちゃんとの戦い

          私は会話における情報の送受信がひどく不得手だ。 「口下手」といってしまえば早いのだけれど、この言葉がもつ「真摯」「誠実」のイメージが自分にはそぐわないので、先のように回りくどい表現になってしまう。 20歳のあるとき、友人のひとりがこんなことを言ってくれた。 「あるタレントの言葉で、『あなたにやさしくできたから わたしはやさしくなれました あなたがわたしをつくります』というのがある。私はその言葉が好きだ。この言葉を聞くと、あなたを思い出す。」 私はこのうれしい言葉に感極

          5歳児の、しずかちゃんとの戦い

          りんごをひとかけ

          その日は定期検診で病院にいた。 採血のために処置室に呼ばれ、腕をまくったところで看護師さんに 「朝、何も食べてないですよね」と確認される。 私は あっ、と朝の所行を思い出して、 「そういえば朝6時頃にりんごをひとかけ食べちゃいました」と告げた。 看護師さんは滑舌の悪い私の言葉を2.3度聞き返し、私がりんごをひとかけ食べたことを申告していることが確認できるや否や、部屋中に響き渡るような声で高らかに笑い出した。 「あっはは、何それ!おもしろすぎる!りんごなのね!」

          りんごをひとかけ

          フィクションとしての子どもの絵

          私はドラマや映画を観るとき、劇中の「子どもが描いた絵(という設定のもの)」が「本当に子どもが描いた絵か」ということが妙に気になってしまう。 あのリビングに貼られた「子どもの絵」は本当に、該当年齢の子どもが描いたものか、はたまた小道具として大人が子ども風の筆跡で描いて用意したのか。 多くの場合はおそらく後者で、線が不自然にゆがんでいる。実際の子供の絵はこんな風にはゆがまないでしょ、とひどくガッカリしてしまう。 子供の画力を冒涜しているようにすら感じてしまう。 俳優さんの

          フィクションとしての子どもの絵

          子育て失敗と母に言われて

          私が高校生になった頃、母から頻繁にこんなことを言われるようになった。「私は子育て失敗した。ごめんなさい。」お皿を拭きながら。テレビを観ながら。なんの文脈もなく、ふとしたときに母はつぶやくのだ。 社会人になってから、職場のランチのときに何気なく母のこの発言について触れてしまった。「お母さんの不思議発言」のような話題のときに。 同年代の女性4人が集まる場だったが、みな一様に引いていた。「お母さんエグすぎない?」「あなたが失敗作だって言ってるようなもんじゃん。よく耐えられたね」

          子育て失敗と母に言われて

          娘が1度だけ「だいすき」と言ったとき

          娘が2歳のころ、 コロナ禍の閉塞感もあって、夫婦の関係がかなり悪化していた。 夫は自室に引きこもり、私は週末ともなれば自宅から逃げるように、 娘を連れて一日中 外出した。 炎天下だろうと極寒の寒空だろうと、私は午前中には娘を連れだし、薄暗くなるころに帰宅した。朝、まだ家で遊びたいという娘を無理やりに連れ出し、夕方、そろそろ帰りたいという娘に、「まだ父ちゃん家で仕事したいから」と言って出先に引き留めた。 このころ私はめまいや持病の不整脈も悪化していて、外出先でも娘と笑

          娘が1度だけ「だいすき」と言ったとき

          心配くらい勝手にしたい

          高校のころ、英語の授業で扱われた英文にこんな内容のものがあった。 海外のどこかの公園における、子供の遊具事故を減らす取り組みを紹介した文章だったと思う。たしかその公園では保護者用の待機小屋のようなものを作って、親はそこから子どもを見守るように義務付け、遊具で遊ぶ子どもたちのそばに近寄れないようにした。親の心配する目や声かけこそが子どもの事故を誘引しているという考えに基づいて。この取り組みは功を奏し、その公園での事故は劇的に減ったとあった。 なるほどなあ、親が心配するほど子供

          心配くらい勝手にしたい

          お弁当を隠して食べるわけ

          このごろの休日はよく、5歳の娘と『プリキュアになりきってドラッグストアに行く』という遊びをする。 「川底ってよく見るとCDだらけだね」とか、「どんぐりってなんだかんだ一年中あるよね」といったとりとめもない会話を、それぞれのキャラクターの声色や口調を真似て交わすだけの遊び。いつも互いにかなり熱が入り、最近の買い物はおおむねこの遊びを兼ねて行っている。 先週日曜日、いつものように私たち母子が興に乗って演技に没頭し始めたころ、行く道の少し先に娘の保育園の友達親子が見えた。 娘

          お弁当を隠して食べるわけ

          ぶつかる

          地下鉄の改札階で、白杖を持った男性が階段の登り口を探して難儀していた。 声をかけようかと思っていたところ、ひとりの女性が男性に駆け寄った。 女性はそっと男性の肩に手を載せ、「失礼します」と言って、「ご案内しますか、しないほうがいいですか」と男性に聞いた。 男性は頭を下げながら、結構です、といったジェスチャーをした。 女性は「それでは失礼しますね」と優しい声で言い、その場を下がった。 女性は小学校低学年くらいとみられる娘さんを連れていた。その娘さんと手をつなぎながら、

          テレビ欄の時間

          自分はデジタル人間でもアナログ人間でもないけれど、デジタルになって切実に困っているものが1つだけある。 それはテレビの番組表、新聞でいうところの「テレビ欄」である。 「デジタルになった」というと語弊があるかもしれない。 ともかく新聞を取らなくなったことで、当日の放送内容はネット、あるいはテレビのメニューとして表示される番組表で確認するようになった。 このデジタル番組表(と仮称する)、すでに過ぎた時間帯の番組情報は削除されていくため、見ることはできない。 現在視聴可能

          テレビ欄の時間