失言という魔物

朝、出社時にエレベーターで清掃担当の女性(Aさん)と一緒になった。

この女性は私の母くらいの年齢で、妊娠中から私を何かと気遣ってくれ、声をかけてくれていた。

その日私は少し体形の分かりやすい服を着ていたせいか、

Aさんは会うなり開口一番、「あんた、胸がふくよかでいいね!!母乳いっぱい出たでしょ」

といった。

私もこんなときに「あ、はい」と笑顔で返せばよいのだけど、

とっさにその判断力が機能しないので、

「いやあ、一滴もでなかったんですよ。ミルクで育てました」と事実を伝える。

すると

「なんでミルクで育てたの!母乳の方がいいに決まってるでしょ!」とAさん。

さらに

「私なんて胸は小さいけど、母乳はたくさん出たよ。そのときの産婆さんも、『巨乳の人の方が母乳は出ないもの。大きいばかりで役に立たない。小さい方がいいよ』っていってくれたの」

という。

そして、

「あんた、若くないかもしれないけどもう一人産みな!一人っ子じゃかわいそうなんだから」

と言いながら同じフロアで降り、Aさんは清掃のためにトイレに入っていった。

私は1階で会って3階にたどりつくまでのものの1分に、

昨今ではいわゆる「地雷発言」とされるものを高密度で受けたことになろうか。

だが私の感想はそれだけだった。

ああ、こういうのを地雷発言というのか、というもので、

傷つくわけでも怒れるわけでも、「余計なお世話」と思うわけでもない。

「こういうのを地雷発言というのか」というのはメディアの影響で、

それがない状態なら私は「気にかけてくれてるんだな」とAさんを慕わしく思っただけに違いない。なんならもっと話したいと思うだろう。

ただその後者の私は、おそらくAさんと同じ発言を他人に向かってしてしまったのだろう。

自分が言われて気にならないのだから、それが他者を傷つけるだなんて、まるで思いも及ばないのだ。恐ろしいほどに。

過去の私はこうした失言を繰り返しては手痛い目にあり、

今はメディアから「こういう発言はNG」の知識を得られることもあって、いわゆる失言の絶対量は減ったと思う。

だけど、どうあることがよいのかいまだにわからなくなる。

何も知らず、人を傷つけていた自分には確かに常に嫌悪感があった。

だけど本当にそれ自体が罪であったのか、本質的なことは何なのか、今でもわからないのだ。

唯一、確かにいえるのは、

もし私がAさんに「そういうことを言われると傷つくので言わないでください」と伝えれば、

「そういうことを言われた」私よりも「傷つく」と言われた彼女の方が傷つくだろうということ。

他者を配慮するための視点を得れば自然と、配慮しない人への他責的な視点も同時に備わる。後者を寄せ付けないで済むような人間力は、いまのところ自分にはない。

傷つきやすい人、先に傷ついた人の尊厳が自動的に尊重されるという道理はないはずだ。

だから私は、本当に分からないのだ。

先日5歳の娘と実家に帰ったとき、

父が娘に市販の「ひらがな練習ノート」を用意してくれていた。

早速取り組む娘に父はつきっきりになり、

娘が1文字も書き終えないうちに「ああ、まちがえた!」「ああ、まちがえそう!」といらぬ横やりを入れている。茶々ではなくて、父は本気でそういうことをするのだ。

他者の失敗を待って、自分がアドバイスをする機会を探す傾向がある。

マウントだのなんだの、今はこれにあてめるマイナスの言葉はいくらであろうが、

ぼんやり見れば単に親切心の独特な派生形だろう。

私はそれをみて、そうだった、こういう風に私は育った、

だからどうだというのだ。と思った。

でも娘の心境が気にはなったので、帰りに娘にこっそり尋ねる。

「おじいちゃんとひらがなの勉強するの、難しかった?これからはおうちでする?」

すると娘はほがらかに、

「なんで?たのしかった!またする!」という。

そして、「おじいちゃん、『まちがえそう』ってすぐいうねえ、ちいちゃん、まちがえないのにねえ」とけらけら笑う。

そうだよね。

だから私は、本当にわからないのだ。

人の心は分からないと思う事だけが確かなのかもしれない。

かといって、他者を傷つけたり失言することを恐れて「何も言わない」のが結論にはなり得ないのが、生きることの難しさだと思う。

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