しもばしら随想

私は「しもばしら」というものがどうにも好きだ。

ずいぶん幼いころからだと思う。


子どもの頃に住んでいた地域では

雪よりも霜柱の方が遭遇率が高かったけれど、

私は後者を発見したときの方が格段に心躍った。


自宅の庭の畑では、3センチを超えようかという

霜柱が形成されることもあった。それは何とも壮観だった。


小学校3年生のときにはじめて創作した詩でも、

霜柱を題材にした。

記憶を結集してリライトすると、



しもばしらは

寒いなか

重たい土を持ち上げて

がんばっている


ふとっちょ

やせたの

のっぽなど

みんなで土を

もちあげる



当時の担任だった板倉先生は、この詩に熱心に指導を加えてくださった。


「自分の体験や、比喩を入れるともっとよくなるよ。

よくなったら、市のコンクールに応募してみよう」


そういわれて、私は喜び勇んで改作に取り組もうとした。

けれどすぐに行き詰まった。


これは「しもばしら」を人にたとえた、全体が比喩の詩だ。

ここに比喩をさらに加えることは難しい。

また、全体に擬人法を使ったことでフィクション・ファンタジーのような世界観になった(つもりの)ため、ここに自分の経験を加えることも難しい。


私は悩んだあげく、取って付けたように次のような第三連を加えた。


ふんでみると

しゃくっと音がする

まるでしもばしらは

小さな冬のかきごおり


あてつけのように、「ザ・体験」「ザ・比喩」を書き連ねた形になった。

しもばしらをかき氷だなんて思ったこともない。

こりゃないだろう。

そう思いつつ、どきどきしながら板倉先生のもとへ見せに行った。


先生はからからと明るく笑いながら、

「あはは、そりゃこうなるね。ごめんごめん。」と言った。

先生が私のモヤモヤを理解してくれたことがうれしくて、

私も笑った。

その時間が、空間がとても好ましいものだったので、

私は蛇足のようなこの最終連にも不思議な愛着がわいてきた。

私は先生が大好きだった。


当然この詩は市のコンクールには応募されなかったけれど、

学年末に編集された学年文集の表紙裏に、先生はこの詩を掲載してくれた。

追加の最終連つきで。

私はそれにはりきって霜柱の挿絵を添えた。


昨日、4歳の娘は初めて霜柱を見た。

通園中の道路わきで。

1センチにも満たないものだったけど、しっかりびっしりと氷柱が美しく連なっていた。

「あれは、土のなかに氷があったってこと?」横断歩道を駆け足で渡りながら娘が問いかける。

彼女の白い息が躍った。


そう。空から降ってくるんじゃなくて、土から伸びる、生える氷。

すごいよね、しもばしら。


娘は「しもばしら」の語感も気に入ったようで、5分の通園路で何度も渇いた空に

その言葉を投げかけた。

「ちいちゃん、今日帰ったら霜柱描く!」


しもばしら、この子はどんな風に描くんだろう。

結局夜には娘は心変わりしてドラえもんの道具をいくつか描いていたけれど、

こんなにそわそわした日中は久しぶりだった

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