ぶつかる

地下鉄の改札階で、白杖を持った男性が階段の登り口を探して難儀していた。


声をかけようかと思っていたところ、ひとりの女性が男性に駆け寄った。

女性はそっと男性の肩に手を載せ、「失礼します」と言って、「ご案内しますか、しないほうがいいですか」と男性に聞いた。


男性は頭を下げながら、結構です、といったジェスチャーをした。

女性は「それでは失礼しますね」と優しい声で言い、その場を下がった。


女性は小学校低学年くらいとみられる娘さんを連れていた。その娘さんと手をつなぎながら、男性が階段を無事に登り始めるまでを見つめていた。


娘さんがお母さんに問う。

「お母さん、どうして手伝わなかったの?どうして、手伝わなくてもいいかって聞いたの?」

そのかしこい女の子に、お母さんは話した。

「手伝ったら、あの人が駅の構造を知る機会を奪ってしまう。壁の位置は、自分であたって知りながら覚えていくものだから。怪我をする危険があったり、その人が本当に求めているわけでなければ、手伝ってはいけないと思ったから。」


お母さんはこんな内容を、娘さんにも分かりやすいように易しい言葉で伝えていた。

二人の母子が男性を見守って、私はついその二人が改札をくぐるまでを不自然に立ち止まって見守ってしまった。




その日は土曜日で、私は出社する用事があり通勤途中だった。

会社に向かう駅の階段の中腹で、先ほどの男性を抜かした。

出口から地上に出て、しばらく進んでから出口の方を振り返ってみた。男性が階段を登り終えて、出口で待っていたサポーターの人たちと合流したのが見えた。





会社への私の足取りはひどく急いていた。


男性と母子のやり取りを見て、思い出した一編の詩があった。その内容を、会社にあるはずの資料で確かめたかったのだ。


会社の薄暗い資料室にある吉野弘詩集のなかに、果たしてその詩はあった。

「動詞『ぶつかる』」と題されたその詩。

それは、やはり目が不自由な人について描かれたものである。


詩は、とあるテレビ番組のインタビュー場面を描写するところから始まる。

インタビュアーが目の見えない女性に、

「朝夕の通勤は大変でしょう」と問う。

女性は、

「大変は大変ですけれど あっちこっちにぶつかりながら歩きますから、なんとか……」と答え、「ぶつかるものがあると かえって安心なのです」と付け加えた。


詩人はこの言葉に感銘を受け、詩の後半でこう綴る。


ぶつかってくるものすべてに 自分を打ち当て 火打ち石のように さわやかに発火しながら 歩いていく彼女

人と物との間を 湿ったマッチ棒みたいに 一度も発火せず ただ 通り抜けてきた私

世界を避けることしか 知らなかった私の鼻先に 不意にあらわれて したたかにぶつかってきた彼女

避けようもなく もんどり打って尻もちついた私に 彼女は ささやいてくれたのだ ぶつかりかた世界の所有術を

詩の内容を確認した私は、改めて今朝の女性のことを思う。

あのお母さんは、尊重したのだ。男性がぶつかろうとしているかもしれないこと、ぶつかることへの男性自身の思いを。



けれど私があのお母さんと吉野弘の詩を結びつけたアンカーポイントは、そこだけではなかった。そのことに、詩を読んで初めて思い至った。


男性が階段を登り始めるのを見守るとき、お母さんはとても緊張し強張っているように見えた。痛そうにもみえた。



そうだ、お母さんもぶつかっていたのだ。


相手を尊重し、見守るという行為は、決して「私は私、彼は彼」と切り離して安全地帯へ自分が退避することではない。「湿ったマッチ棒みたいに 一度も発火せず ただ 通り抜けて」くることではない。「みんなちがってみんないい」は、決して、だれもがニコニコ共存できるような平穏な世界を言い表すものではないのだと思う。


見守ると決断したことで、もし男性が怪我をしたら。そのときの相互の辛さを回避しようと思ったら、有無を言わさず「手伝う」ことも可能である。でもあのお母さんはそれをしなかった。

相手を傷つけ、自分も傷つくかもしれない。でもそれは相手を尊重し、知ろうとするうえでは避けることができない、「火打ち石」のような、世界との接触の仕方なのだ。




私は吉野弘の詩集を棚に戻しつつ、土曜保育に預けてきた娘のことを思った。

育児の痛みの正体について思いを馳せながら。

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