宝石のことば
「野ぶどうの実は、宝石のようにきれいです。」
娘が3歳の冬に買った植物図鑑にこんな記述があった。
野ぶどうは昨年まで住んでいたアパートの向かいの河原に自生していて、毎年10月後半にはピンクや紫、水色のブルーベリー大の実を付ける。
娘は植物図鑑を見てから、いつも秋を心待ちにしていた。この解説でなかったら、野ぶどうがこんなにも娘を引き付けることはなかっただろう。
そうして目の当たりにする野ぶどうのビジュアルの多幸感といったらない。
図鑑のなかに非客観的な記述を見つけると、
そう書かずにはいられなかった編集者の想いを覗き見たような心地になってうれしくなる。
似たような感覚は幼児期からあった。
黒子のような本の語り手の向こうに、急に一つの人格が現れたような新鮮さ。少し気恥ずかしくなるような生々しさがあって、だからこそ鮮明に印象に残った。
娘にとって野ぶどうは、きっとこれから長く、宝石という言葉と結びつくのだろう。
私が今でも、ビスコを食べると強くなれるような気がするように。
春に転居してきて、野ぶどうがない街で初めての秋を迎えたけれど、言葉の力はきっと消えない。
他の人が書いた記事を校正するとき、主観的な記述を検出・指摘することは校正人の義務でもある。
けれど私はどうしても隣の彼や斜向かいの彼女がしのばせた宝石を、掘り出して取り除くようなことがいつもできずにいる。
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